美幸らしいこと①
朝は少し涼しい風が吹き始める頃。二学期が始まった。
二学期が始まって、早々に行われたのは体育祭の種目の担当決めである。体育祭というのは、心身の健全な発達や健康についての関心を高め、集団行動の体得、運動に親しみ、責任感や連帯感の養成、体力の向上などを目的とした学校行事である。美幸の高校は一組チーム、二組チームというように縦割りでチーム分けがされ、種目の得点によって最終的に優勝チームを決めるというものだ。
「ではやりたい種目のところで手を挙げてください。人数が多い場合は、じゃんけんで決めまーす」
美幸のクラスの体育委員会の二人が黒板に種目を書いていく。ちなみに最低一種目は参加が必須となる。
「美幸ちゃんは何をするの?」
二学期になって行われた席替えで、わたしの近くになった莉子が話しかけてくる。
「綱引き」
「去年と同じだね」
「うん」
去年と同じ種目にしたのは、わたしばかりが新しい体験をしないためである。
「応援するね!」
「ありがとう。莉子は?」
「早めに終わらせたいから…徒競走かな」
他のクラスメイトたちもざわざわと話合っている。
「えと、じゃあまず100メートル走やりたい人ー」
その後、体育委員の男女の司会で順調に種目決めが進んでいった。しかし、最後までどうしても埋まらない種目がひとつあった。
「学年合同リレー、出てくれる人ー」
教室内に沈黙が漂う。学年合同リレーとは各学年から男女を二名ずつ選出し、計六人の男女混合、三学年混合のチームでリレーをする種目だ。美幸の所属する二年四組は四組チームとなり、一年四組と三年四組の選手とチームを組んで走ることになる。学年混合のチームでありかつ他の種目と比べて得点が高めなので、毎年参加のハードルが高い種目であるようだ。数秒の沈黙の後、何人かが顔を見合わせてぽつぽつと呟き始めた。
「…お前やれよ」
「ええ、嫌だよ。もっと足速い人いるだろ」
「他のクラス誰出るんだろ…」
「三年って誰だと思う?怖い人だったら最悪じゃん」
誰もがやりたくないという雰囲気を出していた。
「良光は?」
「俺もう二つ出ることになってるんだけど…」
入船はすでに希望者が少ない種目への参加が決まっていた。体育委員会より、三種目の出場は原則禁止されている。入船は困った顔をして、そうだと手を叩く。
「藤谷、出ろよ」
「は?なんで俺が」
「いいじゃん!東雲なら足も速いだろ」
「最下位でも俺たちは怒んないから!」
藤谷は綱引きへの参加が決まっているだけだ。クラスの男子たちが団結してリレーの選手を藤谷に押し付けようとし始める。しかし、決まっていないのは女子も同じである。
「…どう?」
「いや…」
「走るのはなあ…得意じゃないから…」
女子たちは視線を反らし合いながら自分へ矛先が向かないようにしている。
「うーん…日高さんは?どうかな…」
「えっ私?足遅いんだけど…」
「遅くてもいいから…!」
運悪く標的になった莉子が押し切られそうになっている。莉子になるのかなと特に何も思わずそちらを見ると、莉子の視線がこっちに向けられた。
「み、美幸ちゃん!美幸ちゃんなら!」
「えっ」
揉めていた男子含め、なぜかクラス中の視線が美幸に向いた。
「…か、片桐さん、どう?」
体育委員の女子が、恐る恐る尋ねてくる。始業式の一件のせいで、挨拶を交わすようになってもクラスメイトたちは美幸のことをどこか怖がっている。
「…」
わたしは判断をしかねてとりあえず莉子を見る。莉子は、合わせた両手を顔の前に持ってきて、懇願するようにこちらを見ていた。
「…」
その瞳になぜか見覚えがあった。美幸の記憶だろうか。そしてその瞳を見てしまったら、もう手を差し伸べずにはいられなかった。
「…わかった。引き受ける」
「本当!?ありがとう!」
「やった!すごい美幸ちゃん!」
女子たちからわっと歓声と拍手があがる。そんなわたしたちの様子を見ていた男子たちの視線が、再び藤谷に向けられた。拍手を一身に受けながら、わたしはちらりとそちらを見る。すると、とても嫌そうな顔の藤谷と目が合った。その藤谷がしぶしぶという感じで口を開く。
「…わかったよ。やればいいんだろ」
「まじ?サンキュー東雲!」
「さすが藤谷ー」
男子たちからも歓声と拍手が挙がる。そして黒板に、二つの名前が書かれた。
〇学年合同リレー
東雲 藤谷
片桐 美幸
わたしはそれを見ながら、また美幸に謝らなければいけないことが増えたなと心の中でため息をついた。当日までに元に戻った時は、申し訳ない。
「美幸ちゃん!ありがとう、私の代わりに引き受けてくれたんだよね」
休み時間になると、莉子がわたしの席に飛ぶようにやってきた。
「そんなことないよ」
「うう…優しい…ありがとう…当日は全身全霊で応援するから…」
そこに、入船がやってきた。
「片桐美幸さん、リレー選手選抜おめでとう」
「…ありがとう」
祝われる意味はわからなかったが、ここは定型文を返しておく。すると入船は少し苦笑いをして、自分の席に座ったまま動かない不機嫌そうな藤谷をちらりと見た。
「藤谷のこと、よろしく頼むよ」
それはどういうことだ。思わず眉を潜めると、莉子が隣から小声でささやいた。
「東雲くん、去年の体育祭の当日来なかったんだよ」
「ああ…」
つい藤谷を見ると、視線を感じたのか睨み返された。
「当日来なかったら俺が走るしかなさそうだからなあ…クラスの奴らそれをわかってて藤谷に押し付けたのもあるだろうな」
「なるほど」
「先輩や後輩たちと合同練習もあるだろうから、その時は首に縄をつけてでも連れて行ってやってくれ」
「わかった」
わたしは頷く。引き受けたからには、役割をしっかりこなしたい。すると頷いた美幸を見て、入船が可笑しそうに唇を緩めた。
「でもなんか片桐美幸らしくなくて笑っちゃうよ。リレーの選手なんて」
その言葉を聞いた瞬間、身体の芯がすっと冷える感覚がした。
「まあがんばれよ!」
「え、あ、うん」
それはどういう意味かと尋ねる前に、あっさりと入船は立ち去った。
「…」
片桐美幸らしくない。他人からそう評されてしまったということは、わたしのしていることは間違っているということになる。だってここにいるのは片桐美幸だ。××(わたし)ではないのだ。長い間この世界にいて、少し気がゆるんできたのだろう。美幸らしくしっかりしなくては。わたしはそう決意をした。
その日から体育の授業と放課後は体育祭の準備や練習に割り当てられることになった。授業中はクラス対抗の団体競技の練習をして、放課後は各種目の練習というのが主流だ。そして学年合同リレーの練習もとある放課後に行われることになった。
体操服に着替えて、予め教えられた集合場所に行こうとすると背後から声が聞こえた。
「おい」
藤谷の声だ。わたしは振り向く。すると、そこには体操服ではない制服姿の藤谷が立っていた。
「藤谷。もうすぐ集合時間だけど」
「…それなんだが」
藤谷にしては珍しく申し訳なさそうな顔をしている。
「どうしたの」
「ちょっと呼び出しくらっちまって、行けそうにない」
「そう。わかった。先輩たちにそう伝える」
藤谷は授業を欠席するので、度々先生から呼び出されているのは知っていた。入船には首に縄をつけてでも連れて行けと言われたが、先生が絡んでくると仕方がない。わたしが頷くと、藤谷は少し息を吐いた。
「悪い」
「じゃあわたしは行くから」
「ああ」
わたしは藤谷に軽く手を振って、グラウンドの集合場所に向かった。
グラウンドを見渡すと、あちこちでいろんな種目の練習をしているのが見える。暮れ始める空に、生徒たちの笑い声や、一生懸命な掛け声が響いている。頬を撫でる風は、昼間に比べると涼しく優しい。この世界の人たちにとってはきっと当たり前のこと。けれどそれを体感できるこの瞬間は、わたしにとってはかけがえのないもの。
集合場所に行くと、男子生徒一人と女子生徒一人が立っていた。
「あっ」
こちらに気付いた女子生徒が声を出した。
「片桐先輩、ですよね」
「うん」
わたしは頷くと、男女はどこかほっとした顔になる。
「よかった。私たち一年四組のリレー担当です」
名前を聞けば女子は橋本、男子は大森というらしい。
「片桐です。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「片桐先輩、男子の選手の方は?」
「あ、男子の方は」
「ごめん!お待たせ!」
先生に呼び出されているのだと続けようとしたら、大きな声に遮られた。その声の方を振り向くと、こちらに走ってくる男女の姿が見える。状況からして多分三年四組の選手だろう。
「一年と二年の選手だな?俺は三年四組の伊藤だ。こっちは城戸」
三年の男子は伊藤。女子は城戸。
「二年四組の片桐です」
「一年四組の橋本です」
「一年四組の大森です」
「片桐、橋本、大森だな。あれ片桐、男子の方はどうした?」
「先生に呼び出しをされてしまって、今回は来られなくなりました」
そう言った瞬間、伊藤先輩の横に立っていた城戸先輩が嫌そうな顔をしたのが視界の端に入った。
「そうなのか、呼び出しじゃあ仕方ないな…」
「すみません」
「片桐が謝る必要はないだろ」
伊藤先輩は気前よく笑った。豪快な良い人だ。その伊藤先輩に、城戸先輩が話しかける。
「ねえ、一人来ないって…練習試合はどうするの?」
「あーまあ、誰かヘルプで一人入れればいいんじゃね」
練習試合とは。わたしが内心首を傾げていると、一年の橋本が伊藤先輩に尋ねる。
「あの伊藤先輩すみません、練習試合って…?」
「ああ、実は今日丁度他のクラスもリレーの合同練習してるらしくてさ。せっかくだし一回走ってみようかって話に三年の方でなったんだよ」
「へえ…」
なるほど。ここに来るまでにリレーのバトンを渡すのを練習している人たちを見かけたが、その人たちだろうか。
「まあそれはあとで考えよう。他のチームも全員揃ってないかもしれないし」
伊藤先輩の言葉にわたしたちは頷いた。ただひとり、城戸先輩が浮かない表情をしていたのが気になった。
その後走者の順番を決めて、バトンの渡し方を練習していると誰かが伊藤先輩の元にやってきた。
「伊藤、どうだ調子は」
「ああ、こっち一人今日は欠席なんだけど、そっちはどう?あと七組の方は?」
「うちは全員いるぞ。七組は…どこだ、あれか?」
「ちょっと聞いてくるか」
そんな会話をした後、伊藤先輩がわたしたちに声をかける。
「俺たち他のチームの様子見てくるから、ちょっと待っててくれ」
「それじゃあちょっと飲み物飲んできていい?」
城戸先輩がそう言う。
「いいぞー」
城戸先輩がひとり輪から外れて、校舎の方に歩いて行った。なんとなくその後ろ姿を目で追っていると、他の女子生徒が城戸先輩のところにやってきた。友人だろうか。城戸先輩たちはそのまま校舎に入っていった。
「片桐先輩、バトンの手渡し…もう一回いいですか?」
橋本に声をかけられてわたしは視線を戻す。
「いいよ」
「ありがとうございます」
橋本や大森とバトンの手渡しの練習をしていると、どこからか伊藤先輩が戻ってきた。
「待たせたな」
他のチームと打ち合わせをしてきたようだ。
「最初に言ってた練習試合だけど、テニスコート前に集合になった。十分後目安に」
「はい」
「城戸は…まだ帰ってきてないか」
三人で城戸先輩の帰りを待ってみるが、その姿はなかなか見えない。このまま三人でここに佇んでいるのも時間がもったいないので、わたしは伊藤先輩に申し出る。
「わたし、城戸先輩に集合場所と時間伝えてきましょうか」
「え、いいのか」
「はい、多分教室の方に向かって行かれたので。行ってきますよ」
わたしが申し出をしたのは、万が一別の先輩たちが着替えをしていたら男子だと危ういと思ったからだ。
「悪いな、頼むよ」
「いえ」
わたしは小走りで、城戸先輩がいるであろう場所に向かった。
三年の校舎に入ると、四組の教室から人の声がした。城戸先輩はそこにいるだろうと、わたしは歩いて近付く。
「ね、ありえなくない?」
「ねー」
教室に近付くにつれ、話声がハッキリと聞こえる。
「二年のメンバーさあ、まじで予想外だわ」
今は教室の中には入ってはいけない。そんな直感でわたしは扉の前で足を止めた。
「東雲って例の三人組の中で一番不良なんでしょ?」
「どうせ当日ばっくれるんだったら、最初から入船くんが良かったよね」
「ご愁傷様ー」
城戸先輩の声と、知らない女子生徒の声。藤谷たちは他の学年の人たちにも知られているようだ。
「…」
わたしは教室の扉の前で静かに立ち尽くした。
「今日も呼び出しとか言ってたけど、絶対さぼりだわ」
「バレバレすぎだね」
「嘘丸出しで吹き出しそうになったわ」
東雲が来ていないのをいい顔していないのは見たが、そう思っていたのか。でも、なぜ、そんなことを言うのだろう。敵チームならまだしも、城戸先輩は味方なのに。味方なのに、どうしてそんな貶めることを言うのだ。
「…」
何かした方がいいのか、言った方がいいのか。もやもやとした形容しがたい感情がわいてくるのを感じながら扉の前でひとり逡巡していると、目の間の扉が勢いよく開いた。
「えっ」
会話をしていた先輩たちがわたしを見てぱたりと口を閉じた。わたしは先輩たちの顔を見たくなくて、僅かに下を向いてこう言った。
「練習試合、十分後に始めるそうです。集合場所はテニスコート前で。それを伝えに来ました」
「あ、ああ。そう」
「では」
自分がどんな顔をしているのかわからない。わたしは先輩たちに頭を下げて、その場を早足で離れた。
「今の…二年の?」
「聞かれた?」
「なんかこわ…」
先輩たちの声が背後で聞こえたが、ただ足を前に進ませることだけを考えた。
数分後、城戸先輩含め全てのチームがテニスコート前に集合した。今回の練習試合は、わたしたち四組チームと、一組チーム、七組チームの三チームですることになった。一組チームと七組チームは六人全員揃っているようだった。先ほど城戸先輩と一緒にいた人たちは校舎の方からこちらを見ている。
「じゃあ俺たちだけか、一人足りないの」
伊藤先輩が頭をかきながらそう言う。
「誰かヘルプしてくれる人その辺にいるかな~」
そう呟いたので、わたしは手を挙げる。
「伊藤先輩、東雲のところわたしが代わりに走っては駄目ですか」
「え?片桐さんが?」
「彼の出番は一番目でわたしは四番目ですから、余裕はあります。同じクラスメイトの失態はわたしがカバーします」
伊藤先輩が目を丸くして、隣にいた城戸先輩に尋ねる。
「どうする?」
城戸先輩はわたしを横目で見た。
「まあ本人がそうするって言うならいいんじゃない」
一瞬、ややばつが悪そうな顔をした気がした。
「まあ練習試合だしいいか。じゃあ、お願いするよ」
「はい」
仲間のミスは仲間内で庇う。それはわたしの世界の常識だった。
「じゃあ、第一走者並んでー」
四組チームの走者順番は、一番が藤谷、二番が大森、三番が橋本、四番が美幸、五番が城戸先輩、アンカーが伊藤先輩だ。
「位置について」
藤谷の代わりを走るのだ、決して力は抜けない。
「よーい」
一瞬の静寂。
「どん!」
地面を強く蹴って、わたしは走り出した。
リレーは各走者が200メートルを走る。グラウンドの丁度半分だ。視界の先に手を伸ばして待機している大森が見えた。
「大森!」
「はい!」
わたしは大森にバトンを渡して、すぐにグラウンドの内側に入った。
「はあっ…」
体力をつけているとはいえ、全力疾走するとさすがに息が切れる。息を整えながら大森の姿を目で追うと、大森がトップで走っているのが見えた。何とか一番でバトンを渡せたようだ。
「ちょ、四組速すぎ」
「片桐さんだっけ?陸上部?」
「いえ…」
「あれ?四組の第四走者は?」
「わたしです」
「え?また走るの?」
第四走者の人たちが驚いた顔でわたしを見てきた。
「はい」
わたしは再びグラウンドに出て、橋本を待つ。途中で橋本が抜かれて二番になるのが見えた。
「片桐先輩!」
橋本からバトンを受け取り、わたしは再び走り出した。
「…っ」
先ほどより足が上手く回らない。さすがに連続は無謀だったかもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。しかし、わたしはわたしの役割を全うするのだ。
「城戸先輩!」
一番の人にほぼ追いつきかけたところで、城戸先輩にバトンが渡った。わたしはグラウンドの中に入って、しゃがみ込んだ。心臓がどくどくと鳴っている。
「はあっ…」
ひとりで息を整えていると、大森が声をかけてきた。
「片桐先輩、大丈夫ですか?」
「は…はあっ…大丈夫…ありがとう」
それでも心配なのか、大森はわたしの傍を離れなかった。息を整えているわたしの横で、大森がひとりでリレーの様子を実況し始めた。
「片桐先輩、今城戸先輩が一位ですよ!」
「城戸先輩が一位で伊藤先輩にバトンが渡りました!」
「あれっ?東雲先輩?」
「え」
突然出てきた藤谷の名前に驚いて、汗をぬぐいながら顔をあげた。すると、校舎から体操服を着た藤谷がこちらへ向かってきているのが見えた。わざわざ呼び出しの後に着替えて来たのだろう。
「本当だ」
呟きつつ、わたしは内心安堵していた。藤谷は勝手に逃げ出したり、放り出したりしない人間だ。わたしの信じた通りだった。そして、伊藤先輩がゴールに一番に到着するのと、藤谷がこちらに到着するのはほぼ同じくらいだった。
「一位、チーム四組!」
「やったー!」
「くっそー!」
「ちょっとあの二年速すぎ」
「やりましたね、片桐先輩」
「うん」
練習試合とはいえ、勝ちは勝ちだ。素直に嬉しいと感じる。あちらの世界では、負けとは死を意味すると同時に、勝ちとは敵が死ぬということだった。しかし、こちらの世界の勝ち負けは平和だ。誰の命も無くならない。
「勝負してたのか」
藤谷が不思議そうな顔をしてそう呟く。
「そうです。一組と七組で」
大森がそう言って、藤谷が首を傾げた。
「俺のところはどうしたんだ」
その問いになかなか止まらない汗をぬぐって答えようとしたら、なぜか誇らし気な大森が藤谷にこう言った。
「片桐先輩が二人分走ったんですよ」
「は?」
「…」
藤谷に信じられないと言いたげな視線を向けられた。仕方ないので甘んじて受け止める。すると藤谷は思い切り苦い顔をして、口を開く。
「悪かったよ。遅れて」
わたしは首を振る。
「仕方ないことだったから、謝ることない」
するとなぜか苦い顔のまま、藤谷は先輩たちの方を見た。
「ちょっと先輩にも謝ってくるわ」
「うん」
その後ろ姿を追うと、藤谷の存在に気付いた城戸先輩が気まずそうにこちらを見たのがわかった。
「…」
わたしは特に表情も変えず、何も言わず、ただ少し背筋を伸ばした。先ほど感じたもやもやが、すっと晴れていくような感覚がした。
「いやー片桐さんめちゃくちゃ速かったな!」
その後他のチームとは解散し、再び四組チームだけで集まった。伊藤先輩が興奮したようにそう言って、橋本と大森が同調するように頷いた。
「ありがとうございます。先輩方も速かったですよ」
「本当か?いやー当日頑張らなきゃなー」
伊藤先輩はそう言った後、藤谷の肩を強めに叩く。パンっと、小気味いい音がした。
「当日はトップバッター任せたぞ!東雲!」
「はい…」
「ちなみに50m走何秒?」
「…さあ、ちゃんと計ったことないので」
そう言えば春に体育測定があった時、藤谷の姿は無かった気がする。
「じゃあ俺と競争しよう!グラウンド一周!東雲の走ってるとこ見ておきたいし」
「ええ」
藤谷はあからさまに嫌な顔をしたが、伊藤先輩の勢いに負けて二人はグラウンド一周の一本勝負をすることになった。種目決めの時もそうだが、藤谷は結構押しに弱いのかもしれない。
「じゃあ位置についてーよーい…ドン!」
城戸先輩の声で走り出した二人。先にゴールに辿り着いたのは、なんと藤谷だった。