美幸が行っていない場所②
水族館は順路というものがあるらしく、わたしたちはそれに従ってゆっくりと水族館の中を進んだ。
「…へえ」
水槽の前に書かれた説明で気になるものがあると、わたしはつい立ち止まってしまう。そして顔を挙げた頃にはいつの間にか入船や莉子たちから離れている。そんなことが何回かあった。
何度目かの立ち止まりの時、気付けばまた莉子たちから離れていた。いけないと思って莉子の元に行こうとすると、わたしの目の前に青葉と藤谷が現れた。
「?」
思わず首を傾げると、藤谷が莉子の方に視線を向ける。少し離れた水槽の前に、入船と莉子が二人で立っていた。何かの話で盛り上がっているようだ。
「今はあいつら二人だけにしとこうぜ」
「ああ」
そうだ。今日は入船にとっては莉子と親睦を深める為の日だった。わたしは莉子の元に行こうとしていた足を、目の前の水槽に戻す。すると青葉と藤谷がその両隣に立った。三人で水槽の中にいる淡水の魚を眺めている形になる。なんだか変な感じがするなと思っていると、藤谷が口を開いた。
「お前ってこういうのに協力するんだな」
「こういうの?」
わたしが首を傾げると、今度は青葉が口を開く。
「良光と日高さんの仲を取り持つようなことだよ」
美幸はこういうことはしない人間なのだろうか。わたしは少し考えて、こう言う。
「わたしは水族館に来てみたかっただけ」
「…そうかよ」
藤谷が鼻で笑った。わたしは今度は自分が思ったことを言う。
「二人こそ、こういうことするようには見えないけど」
学校では入船と青葉と藤谷の三人はあまり仲が良さそうには見えないのでそう言うと、青葉と藤谷は顔を見合わせた。青葉が小さく笑う。
「僕は良光に頼まれたなら、断ろうとは思わないからね」
「へえ」
すると今度は藤谷がため息をついた。
「まあ俺もそんなもんだ」
「ふうん、仲良しなんだ」
わたしの言葉に、藤谷が苦いものでも食べたような顔をした。
「仲良しとか言うな。付き合いが長いだけだ」
そんなもんなのか。藤谷に合わせるように、青葉もぎこちなく笑う。
「仲の良さは君たちには敵わないと思うよ」
「そうかな」
美幸と莉子の仲の良さは実際のところわたしにはわからない。
「君をだしにしないと日高さんをお出かけに誘う事ができないくらいだからね」
わたしの勉強不足なのだろうが、たまに青葉の言っていることがわからない時がある。とりあえず頷いておこう。
「そうなんだ」
「今日この日を良光がどれだけ楽しみにしていたか教えてやりてえよ」
その藤谷の言葉に、わたしは入船と莉子に目を向ける。入船と莉子は楽しそうに会話をしている。入船の笑顔がいつもより眩しい気がした。
「そうか」
水槽に目を戻して、わたしは頷く。
「わたしと同じだ」
水槽に映った美幸の顔が、笑みを作っている。自然に湧き上がる笑顔というのは、こういうのを言うんだろう。同じ水槽に映った藤谷と青葉は、美幸を不思議そうに見ていた。
「あっ美幸ちゃん、いたー」
いつの間にか、莉子と入船がすぐ傍まで来ていた。
「莉子」
「もうちょっとでカフェがあるって!丁度お昼だし休憩がてら入ろうって今入船くんと話してたの」
入船はわたしたちを見て、片目を閉じた。いい感じだったということだろうか。
「うん、行こう」
そう言うと莉子が笑って美幸の手を取った。
その後は全員揃って水族館のカフェに入った。わたしは昼食のランチプレートと、デザートにしろくまをモチーフにしたかき氷を頼む。莉子はランチプレートとイルカをモチーフにしたアイスを頼んだ。わたしと莉子でそれぞれ片方を頼んでお互いのを数口貰うことにしたのだ。入船と藤谷はシーフードカレーとアイス、青葉はランチプレートだけを頼んだ。
「美味しいね」
「うん」
ランチプレートもかき氷もアイスも、とても冷たくて甘くてとても美味しかった。
それからカフェを出て、わたしたちは再び水族館を巡る。見たこともない水の中、見たことがない生き物。青い光、色鮮やかな魚。全てが新鮮で、見るたびに圧倒された。
楽しい。
とても楽しい。
そう思っていたのに。
なんだろうこの感情は。楽しくて楽しくて仕方がないのに、同時にどうしようもなく苦しくなってくる。だって、ここにいるべきはわたしじゃない。美幸がいるべき場所なのだ。その一点のみが、どうしても胸につかえて妙な音を立てる。
わたしは心の中で自分の名前を唱える。この世界の人間ではないことを自覚する。この経験は、感情はわたしのものじゃないんだと言い聞かせる。そして思う。本来これを得るべきだった美幸に、わたしは今日この日の出来事をどう伝えればいいのだろう。
わたしはひとりそんなことを考えながら、水族館の出口へと辿りついた。出口にはショップが併設されており、水族館の様々なグッズが売られている。イルカやペンギンを模したぬいぐるみに、色鮮やかなお菓子の箱が並んでいる。すごいな、どんな味がするんだろうと眺めていると莉子が隣にやってきた。
「美幸ちゃんのご両親に何か買って帰るの?」
それは想定していなかったが、いい案かもしれない。支援も頂いたことだし、その分のささやかなお返しとういことで。
「うん」
「いいね、この辺とか美味しそう」
莉子はわたしのお菓子選びに付き合ってくれた。わたしは、クッキーが五枚入った、イルカの缶に入ったものを買うことにした。その缶を持って、ショップをうろついていると文房具コーナーがあることに気付く。
ペンの背に海洋生物がついた可愛らしいものや、海の写真のクリアファイルなど、こちらも種類が豊富である。その中のノートにわたしは手を伸ばした。水族館の水槽を美しく撮影した写真が表紙のノートだ。表面が加工されており、傾けると水面のようにキラキラと光った。
こんな光景を、美幸に見せたい。こんな光景を見たことを、美幸に教えたい。
そう思って、わたしははたと思いつく。そうか。ここに美幸に伝えたいことを書き溜めて行けばいいのだ。張り紙をしていてはきりがないから。このノートに日々の経験したことを書いて、美幸にまとめて見てもらおう。
そうしてわたしは美幸の両親へのお菓子と、日々の出来事を綴るためのノートを買った。その後水族館周辺を少し散策して電車に乗り、わたしたちは駅で入船たちと解散することになった。
「今日はありがとう、日高さん。片桐美幸さん」
「こちらこそ、楽しかったよ」
入船と莉子の仲は以前より深まっただろうか。そうであればいいけれど。
「じゃあまた学校で」
「うん、またね」
入船と莉子がそう言って別れる。入船が大きく手を振るので、わたしも小さく手を振った。
「楽しかったね、美幸ちゃん」
二人になって、莉子がわたしにそう言った。わたしは素直に頷いた。
「うん。楽しかった」
美幸の言葉を聞いて、莉子が嬉しそうに笑う。この笑顔も美幸に伝えてあげたいと、わたしは思った。
家に帰り、わたしは水族館で買ったノートに今日の出来事を書いた。そしてそのノートをどこにしまおうかと美幸の机の空いている場所を探す。
「…あれ?」
そこで、わたしは美幸の机の引き出しの奥に何かがあるのを見つけた。机の中はあらかた見たつもりだったが、それはひっそりと奥に仕舞われていた。
見つけたそれは、錠付きの手帳のようだった。青空を模した表紙に、「diary」と書いてある。
「…」
それは美幸の記憶にある単語なので、どういう意味なのかはなんとなくわかった。しかし念のため、”diary”を辞書で調べてみる。
「…日記」
さらに念には念を重ねて、”日記”を辞書で調べてみる。
「…日記。毎日の出来事や感想を書いた記録」
それは、まさにわたしがしようとしていたことだった。美幸も同じことをしていたのか。思わぬところで見つかった美幸の日記をわたしはまじまじと見る。横から見た時にページがややよれているのは、美幸がこれを使っていた形跡だろう。しかし、中にどんなことが書いてあるかは見れない。何故なら、日記が開かないようにしっかりと錠で閉められているからだ。
「…」
錠は、三桁の数字が回転するようになっている。”000”になっているそれを試しに動かしてみようとしてわたしは手を止めた。わたしが今美幸として体験している出来事は美幸のものなので伝える必要があるが、美幸が体験した出来事をわたしが知る必要はない。
わたしはそっと美幸の日記を元の場所に戻し、自分の日記をその横にしまった。こうしておけば、美幸が自分の日記を開くときにわたしのノートにも気付いてくれるだろう。それが一体いつになるのかはわたしにはわからない。美幸のみが知ることだ。