美幸が行っていない場所①
夏休みになった。
夏休みというものは一か月あり、その間多めの宿題が出される。多いと言っても、毎日こつこつとやっていれば期間内には余裕で終わる量だ。夏休みの一日は朝起きて朝食を食べ、気温が上がりきるまでに一度外に走りに行く。帰ってきて汗をシャワーで洗い流した後に、昼食。その後決めた量の宿題をしてから図書館に出かける。夏休みに入ると、図書館には若干人が増えた。たまにいつもの席に別の人が座っていることもある。それでもわたしはいつも通りに一冊本を選び、それを読み終えるまでは帰らない。そんな充実した夏休みを過ごして一週間が経過した。
「明日、朝から出かけるからお昼はいらないよ」
夏休みのとある日、わたしが晩御飯の時に美幸の両親にそう言うと美幸の母はなぜか妙に嬉しそうな顔をしてこう尋ねてきた。
「あら、どこか行くの?」
「うん。青ヶ浜水族館に」
「いいわねー!水族館!」
一方、美幸の父はなぜか神妙な顔をしてこう尋ねてきた。
「そうか…友だちと行くのか?」
「そうだよ」
美幸の父は小さく息をついた。すると美幸の母はにこりと微笑む。
「もしかして、この前の花火の子?」
なぜわかったんだと若干驚きつつ、わたしは頷いた。
「そう」
「そっかそっか!めいいっぱい楽しんで来なさいね」
「うん」
わたしは母の言葉に頷いた。もちろんそのつもりである。晩御飯を終えて部屋に戻ったわたしは、美幸へのメッセージを兼ねて壁に貼っていた紙を見る。
”夏休み 青ヶ浜水族館 莉子、入船たちと 8月1日10時 青空市駅集合”
日と集合時間、集合場所は決まってから追記した。それが、とうとう明日である。全然この身体に美幸が戻る可能性はあったが、あれから美幸に会う夢は見ていない。多分今日の夜、あの美幸と会う夢を見なければ多分わたしは明日美幸として水族館に行ける。
恐らく美幸も行ったことがない水族館に、わたしが先に行くのだ。
「…」
美幸が知らないことを先に知ることや、行っていない場所に先に行くことにはいまだ罪悪感を抱く。それでもそれ以上に沸き立つ胸をおさえることは、今晩はできなさそうだった。
水族館に行く当日の朝。リビングに行くと机の上に封筒と一枚のメモ書きが置いてあった。
”お母さんからのプレゼントです。水族館、楽しんできてね!”
というメモは恐らく美幸の母のものだ。封筒の中身を見ると、お金が入っていた。今回の水族館は申し訳ないが美幸の貯金を使わせてもらおうかと思っていたので、なんともありがたい支援である。
「ありがとうございます」
わたしは美幸の母が寝ているであろう寝室に向けて一礼をして、集合時間に余裕を持って家を出た。
「あれっ美幸ちゃん!」
玄関を出て階段を下っていると、下の方から声がした。莉子が丁度うちの階段の前に到着したところのようだ。
「おはよう、美幸ちゃん!早いね」
「おはよう、莉子。親起こさないように、先に出ておこうと思って」
「そっか」
「えへっ今日楽しみにしてたの!」
莉子はそう言って笑う。今日の莉子は紺の制服じゃない。水色の裾の長い服。そしていつもは流している長い金髪を高いところで結っている。水辺を飛ぶ金色の蝶みたいな装いだ。わたしは莉子の笑顔を見て、つられて少し唇を緩めた。
「うん、わたしも」
そう言うと、莉子はさらに嬉しそうに笑った。
「行こ!」
「うん」
莉子に手を引かれ、わたしたちは晴天の元を歩き始めた。
「日高さん!こっちこっち」
「あっ入船くんたちだ」
青空市駅に到着すると入船がこちらに手を振っている姿を発見した。青葉と藤谷も一緒だ。集合時間よりまだ早いはずだが、もう全員揃ったようだ。
「おはよう、日高さん。片桐美幸さんも」
「おはよー」
「おはよう」
入船は太陽と同じくらい明るい顔でニコニコと笑った。その両隣にいる青葉と藤谷はなんとも言えない顔をしている。
「…おはよう」
「ああ」
「おはよう」
青葉と藤谷と目が合った気がしたので挨拶をしたら、少し低いトーンの挨拶が返ってきた。入船は莉子と親交を深めることが出来るこの日を楽しみしている様子だったが、二人は違うのだろうか。
「じゃあ行こう」
入船の声で、わたしたちはぞろぞろと駅に入る。電車に乗るのだって、実はわたしは初めてだ。まだ胸に罪悪感のようなものは残っているが、せっかく迎えた今日という日をしっかり味わおう。わたしはそう決意をして、水族館の最寄り駅までの切符を買った。
青ヶ浜水族館は青空市の中心街から少し北に行った海辺にある。最寄り駅は、青ヶ浜駅。青ヶ浜駅は、青空市駅から電車で20分のところにある。
電車に乗り込んだわたしたちは、空いてる席を見つけて座る。しかし五人分の席はなかったので、莉子とわたしが座り入船青葉藤谷はその前に立った。夏休みということもあってか、
「日高さんは青が浜水族館行ったことある?」
「あるよー小学校の時かな。久しぶりに行くから楽しみ」
莉子と入船が会話をするのを大人しく聞く。先日、今日この場を用意した入船からメッセージが届いたのを思い出す。
”水族館の日は、全力で日高さんと親睦を深めるので協力よろしく”
具体的な協力方法はわからないが、今日は莉子と入船が仲良くなるための場だと思えばいい。一応今日のこの日のためにここ数日は恋愛小説を重点的に読んできた。それが今日役に立つかは微妙なところだが、この世界の人は親しくなる過程にデートというおでかけをするのが定石らしいことがわかった。基本デートというものは一対一で行うので、今日のこれがデートとは言い難いが一緒にでかけるという点ではデートに近しい。
「ね、美幸ちゃんはどっち食べたい?かき氷とアイス」
「え」
突然莉子に話を振られて、わたしは思考を現実に戻す。莉子がじっとわたしを見ていた。
「かき氷?アイス?」
「もー聞いてた?水族館のカフェにあるんだって」
あまり聞いてなかった。入船の顔を伺うと、微笑みは顔に乗っているがなんだか圧を感じる。気をそぞろにしていたのがいけなかったか。
「えーと」
わたしは慌てて莉子の質問を考える。かき氷とアイス。今日は暑いし、冷たいものは美味しいだろう。普段は美幸の資産だからと美幸のお金に手を付けることはしないが、今日は美幸の母からの支援がある。わたしが、それを味わえるのは今日しかないかもしれない。そうなれば。
「両方かな」
「え?」
そう答えると、莉子が瞳を丸くした。何かを間違えたかと思ったら、入船がおかしそうに笑った。
「片桐美幸さんって、結構食べる方?」
「…あれば、あるだけ」
出されたものは食べられる時に全て食べる。あちらの世界ではそうやって生きていた。そう思った瞬間、わたしははっとして口をおさえる。わたしのことを話してどうするのだ。美幸として答えなければいけなかったのに。顔を上げれば青葉が呆れた顔をして、藤谷は若干驚いた顔をしている。
「じゃあ食べれるだけ食べようね!」
莉子がそう言って明るく笑ったので、少しホッとする。発言には気を付けなければ。わたしは緩んでいた気を引き締め直した。
「うん」
それからしばらくして、電車は青が浜駅に到着した。
チケット売り場で招待券を入場券に交換してもらい、わたしたちは入場ゲートへと向かう。
「ね、入り口で写真撮れるけど」
莉子が指さした先には、イルカのようなキャラクターの前で家族連れが写真を撮っていた。入船がわたしたちに笑いかける。
「撮ってきたら?」
「入船たちは?」
尋ねると、入船は青葉と藤谷に顔を向ける。青葉と藤谷は無言で首を横に振った。写真に映りたくないということだろうか。
「じゃあ、入船くんカメラお願い!いこ、美幸ちゃん」
「え、あ」
莉子に手を引かれるまま、わたしはイルカのキャラクター前に立つ。
「はい、撮るよー」
入船がそう言って、わたしはどんな顔をしていいかわからずただ呆然と入船の携帯を見た。
「はいおっけー」
「ありがとー」
入船が撮った写真を見て、莉子は笑った。
「美幸ちゃんなんで真顔なの!」
「え」
わたしも写真を見ると、満面の笑みの横でぼんやりした顔の美幸が映っていた。青葉と藤谷も写真をのぞきに来た。青葉と藤谷も写真を見て呆れたような薄い笑みを浮かべた。
「あー」
「…」
モデルの時は指示があったから全てそれに従っていたし、笑顔なんて求められなかったから仕方ない。そもそも美幸は多分満面の笑みを浮かべるような人じゃ、と思いかけてでも夢の中の美幸はいつも笑顔だったなと思う。あの顔を真似すればいいのか。
「まあいっか、水族館入ろ!」
あれやこれやと考えているわたしの腕を取って、莉子が歩き出す。写真のことはまた後で考えよう。とりあえずは今目の前の水族館を美幸の分までしっかり見なくては。
入場ゲートをくぐって少し暗い通路を進めば、すぐに視界が開けた。
「…」
視界を埋め尽くす青い光に、わたしは数秒口を開けたまま見入ってしまった。
海の中を模した大きな水槽はたっぷりの水で満たされ、その中を数々の魚が泳いでいる。小さい魚、大きい魚。魚たちが泳ぐたび、水が揺れて光も揺れる。まるで自分も水の中にいるような錯覚を覚えた。
「わあー久しぶりに見たけどすごいね」
莉子の声ではっと我に返る。間抜けな顔で呆けてしまっていた。
「うん。すごい」
「ね!」
素直にそう言うと、莉子は嬉しそうに笑った。気を抜けば、今立っているこの場所も夢なんじゃないかと思ってしまいそうだ。いけない。今日はあくまで美幸として水族館に来たのだ。それを忘れてはならない。わたしは一度目を閉じて、そう強く思った。それでも、目を開けた時に広がる光景に心を動かされずにはいられない。
多分、こういう光景を美しいと言うのだろう。少なくとも、わたしはそう思った。