美幸の苦手なもの②
一学期の終わりが近付くということは、夏休みの始まりが近付くということだ。
『本日は青空市花火大会があります。こちらの道路は一時交通規制をするのでーー』
一学期の最後の土曜日、花火大会の当日は朝からそんな放送が風に乗って聞こえてきた。
青空市というのは美幸の住む土地の名前で、ここからそう遠くはない場所に港があるらしい。花火はそこで打ち上げられるそうだ。
「…」
わたしはいつも通り図書館で本を読みながら、度々時計を確認した。花火大会が始まるのは午後七時から。その二時間前くらいから周辺が一気に人で溢れるらしいので、今日はいつもより早めに家に帰ろうと決めていた。
その日図書館には青葉はおらず、心なしかいつもより人が多いように見えた。浴衣というものを着ている人も何人か見かけた。みんな、楽しそうな顔をしている気がした。
「…」
火薬を空に打ち上げるだけのイベントがどうしてそんなにも人の気を引くのかを不思議に思うにつれ、この目で花火を見てみたい気持ちが沸く。しかし、先日の身体の変化を踏まえるとそれはやめといたほうがいいはずだ。
「…」
そう悶々と考えていると、手元の小説のページが全く進んでいないことに気付く。花火のことが気になりすぎて集中力がまるでない自分に内心苦笑いして、わたしは本を閉じて席を立った。
家で勉強でもしていよう。
そうすれば花火大会に行く人も見ないし、時間を気にする必要もない。わたしは本を元ある場所に返して、さっそく家路を急いだ。
「あっ」
部屋で参考書の練習問題と向き合っていると、台所の方から美幸の母の声がした。なんとなく逼迫した声に聞こえたので、わたしは立ち上がる。
「どうしたの」
リビングでは晩御飯の準備が進められていた。机の中心にざるに載せられたそうめんがある。美幸の母は困った顔をして何かを持っている。
「美幸ちゃん…」
それは確かそうめんのつけつゆにするためのもの。わたしは一目見て美幸の母が声をあげた理由を知る。瓶の中のつゆの原液はもう数ミリほどしか残っていない。
「もうなくなってるの忘れてた…こういう時に限ってお父さんは帰りは遅いし…」
今日は美幸の父は休日出勤だと言って午前中に出かけていた。
「ちょっとお母さん今から買ってくるから、待っててくれる?」
そう言ってエプロンを脱ぎかけた美幸の母をわたしは止める。
「わたしが買ってくるよ。すぐそこのスーパーで買って来ればいいんでしょ?」
「えっいいの?」
わたしは台所の鍋を見る。
「いいよ。そっちのお味噌汁まだ作りかけなんでしょ」
「ありがとう美幸ちゃん!」
美幸の母に思い切り抱き着かれる。なんだかくすぐったい。
「つゆはどれでもいいからね」
「うん」
わたしは美幸の母にお金と手提げ袋を渡され、玄関に向かう。先ほどまで勉強に集中していたわたしは、玄関の扉を開けて階段を下り終わるまで花火大会のことはすっかり頭から抜けていた。
「あ…」
もう陽は落ちていて、辺りには花火大会に向かうであろう人が歩いていた。わたしははっとして、今は何時だろうと辺りを見る。しかし、この辺には時計がない。しまったなと思ったが、わたしはすぐにポケットに携帯電話を入れていたことを思い出す。携帯しておくため、なるべく常にポケットに入れるようにしておいて良かった。携帯を開くと、時刻は午後六時四十五分。スーパーまでは徒歩で十分はかからないはずで、買うものは決まっている。帰りは小走りで帰ればきっと花火大会が始まるまでに家に着けるだろう。
「よし」
わたしは少し強く地面を蹴って、スーパーを目指した。
「298円になります」
「はい」
「ありがとうございました」
「ありがとうございます」
わたしはつゆのボトルを購入し、急いでスーパーを出た。
「…ん?」
家路の途中でわたしはポケットの振動に気付いて立ち止まった。携帯を開くと、そこには”入船良光”の文字が画面に表示されていた。
「?」
確かこの表示は電話だったはずだが、一体何だろうと思いつつわたしは受話器のボタンを押す。
「はい」
『あ、片桐美幸?』
最近気付いたが、入船はわたしが莉子といないときは敬称をつけてこない。
「なに」
『今隣に日高さんいる?』
「いないけど」
『よしよし』
なんなんだ。
「用件は?」
『水族館の話あっただろ?今予定練っててさ、集合場所どの辺がいいか相談したくて。あと駄目な日があったら先に聞いておきたい』
なるほど。
『ふたりって徒歩通学だったよな。市駅まで遠い?』
「いや、そんなことはないと思う」
入船は室内にいるのか、電話の向こうから何かを書く音がした。
『あと日高さんの駄目な日わかる?あと片桐美幸も』
「外に出てるからちょっと今はわからない」
『外?こんな時間に?』
『母に頼まれて買い物に』
『買い物?もしかして青山スーパー?』
「そう」
なんでわかったのだろう。もしかして入船はこの辺りに住んでいるのかもしれない。
『へえ、てっきり花火大会に行ってるかと思った』
「え」
そう言われて、わたしは花火大会の存在を忘れていたことに気付く。慌てて携帯に表示された時刻を見た。
"19:00"
しまった。
ドン!
その瞬間、突如芯から揺らすような低音が全身を襲った。
「…っ」
『あっ花火始まったな!』
ドン!
「…あ…」
次々に全身を襲う花火の音。あの時見た動画なんて比べ物にならなかった。
ドドン!
『片桐美幸?もしもーし?あれ?声聞こえないな…』
ドン!
「…っ」
なんとか声を出したいが、全身を襲う恐怖にうまく息が吸えない。
『また後でメールするわ!突然連絡して悪かった!』
「あ、まっ!」
ドン!
入船との電話が切れた。わたしは耐えきれず耳を抑えてその場に、うずくまった。
ドン!
耳を思いきり押さえれば少し音はましになるが、大きな音は身体そのものを揺らす。わたしは全身から血の気が引き、冷や汗が溢れてくるのを感じた。恐怖に震えながら、頭の片隅でわたしは思う。花火に恐怖するのは美幸の身体だからだと思っていたが、きっと違う。なぜだかわからないが、わたし自身がこの音を怖がっている。
ドドン!
だって魂が叫んでいる。この音は聞きたくないと。
このままこの音を聞いていたら気が狂う。わたしの頭の片隅がそう判断して、わたしは震える手で携帯を再び手に取る。
助けを、助けを呼ばないと。
携帯は入船との通話が切れたので着信履歴の画面になっている。入船の下にある名前を見て、わたしはその番号を押した。
「…」
ドン!
わたしは再び耳を手で抑える。その瞬間、携帯の画面が通話中に切り替わった。
『…………なんだ』
ドン!
『おい』
ドドン!
声を。声を出さないと。わたしは息をなんとか吸おうとする。しかし、信じられないくらい肺に空気が入ってこない。
『なんも言わねぇなら切るぞ』
ドン!
『………………』
その静寂の一瞬に、わたしは息を吐き出す。
「たすけて…」
声になったかもわからない、ただの息のような悲鳴が口から出た。
ドン!
もう限界だった。わたしは耳を強く抑えて目をつぶった。早く終われ、早く静かになれ、と願いながら。もう携帯の画面は見れなかった。花火の音から逃げるように体を縮こめて、わたしはただ耐えるしかなかった。
どれくらい経ったかわからない。
ドン!
一回静かになったような気がしても、しばらくしたら再び花火の音がわたしを襲った。
ドン!
いっそ気を失いたかったが、それは美幸の身体を無防備に道端に放置することになる。それは避けたかった。
ドドン!
音が響くたびに魂の一部を削り取られるような感覚がした。
ドン!
心の奥の魂に近いようなどこかから、ガラスが割れて水が染み出てくるように、何かが漏れ出てきそうなそんな気がした。
ーー××!
どこかで自分の名前を呼ばれたような気がした瞬間に、肩を強く掴まれた。
「!」
身を固くして顔をあげると、そこにいたのは藤谷だった。
「ーー」
何か言っているようだが、わたしは強く耳を抑えているのでわからない。わたしは小さく首を振る。花火の音をまともに聞いたら、もう気を保っていられない。
「ーー」
「ーー」
すると藤谷の背後に入船と青葉の姿も見えた。なんでこの人たちがここにいるんだろうと思いかけた瞬間、花火の音が聞こえてわたしはまた身体を小さくする。
「ーー!」
その次の瞬間耳を抑えていた手を強く握られ、耳から手をはがされた。何をされたか一瞬理解できず、わたしは悲鳴をあげた。
「いやだ!」
そう叫んだ途端耳に何かを入れられた。
ーー〇△××〇◇●◎■□!!!!!!!!!!
「!?」
耳を貫いたその音に、わたしは目を白黒させた。驚きのあまり真っ白になった頭で、わたしは耳に流れ込んでくる爆音を聞くことができた。これは音楽だ。多分、弦楽器。先ほど耳に入れられたのはイヤホンで、その線は藤谷の手にある携帯に繋がっている。
「ーーーー」
藤谷が何か言ったが、イヤホンから流れてくる音楽で何も聞こえない。その時ようやく、わたしは花火の音さえもイヤホンの音楽で聞こえなくなっていることに気付いた。
助かった。
そんな素直な気持ちが沸いた。もしかしたら声に出してしまったかもしれない。しかし自分自身の声さえも今は音楽にかき消されて聞こえない。わたしは辺りを見渡して、美幸の携帯が地面に落ちていることに気付く。それを手に取ると、美幸の母からのメッセージが届いていた。
”めんつゆ買えた?”
携帯に表示された時計を見ると、時刻は19時15分になろうとしていた。その時、携帯に新たなメッセージが届く。
”大丈夫?”
入船からだった。顔をあげると入船が携帯を手にわたしを見ている。心配してくれたのだろう。神妙な顔をしている。わたしは小さく頷いて、まだ震えの残る指でそのメッセージに返信をする。
”今は大丈夫。ありがとう。”
続いて、わたしは藤谷を見る。藤谷は形容し難い不機嫌そうな顔をしつつ携帯を見ていた。その手はわたしにつけたイヤホンへ音楽を再生するのを止めない。そんな藤谷にわたしはメッセージを送った。
”ありがとう”
携帯を見ていた藤谷はすぐにわたしのメッセージに気付き、視線を一瞬わたしに寄越した。藤谷が指を動かすのが見えた。少し間を置いて、藤谷からメッセージが届いた。
”もうすぐしたら花火休憩時間に入るらしいから、その隙に走って帰れ”
”そうする。ありがとう”
藤谷にそう返信して携帯から顔をあげると、藤谷と入船と青葉が何か話しているのが見えた。青葉と一瞬目が合ったので、小さく頭を下げておく。青葉はそれに反応するように頷いた。耳からは爆音の音楽が引き続き流れているが、随分と気が楽になった。
少しして、再び携帯に藤谷からメッセージが届く。
”休憩に入った”
そのメッセージを見ていたわたしの耳から、イヤホンがそっと取り除かれた。一瞬またあの音が聞こえてきたらどうしようかと身を固くして藤谷の顔を見たが、少ししても辺りは静寂のままだ。
「…」
呆然と辺りを見渡すわたしに、藤谷が口を開く。
「立てるか?」
わたしははっとして立ち上がった。一瞬ふらついたが、すぐに壁に手をついて体勢を整える。
「…ありがとう」
随分久しぶりに発したような声は、少しかすれてしまった。そんなわたしに青葉が言う。
「休憩は10分くらいだったと思うから、急いだほうがいいよ」
「あ、うん、わかった」
わたしは藤谷、入船、青葉の三人を見る。
「ありがとう、助かった」
それは本心からの言葉だった。
「さっさと行け」
「気を付けてね」
「うん」
わたしの言葉にそれぞれ返事をくれた藤谷、入船、青葉の三人に軽く手を振って、わたしは美幸の家に向かって走り出した。
そして無事に、花火が再び始まるまでにわたしは家の玄関に辿りつくことができた。
「あ!おかえり美幸ちゃん、大丈夫だった?」
美幸の母に心配をかけてしまったことを謝りつつ、わたしはとっさに道中で学校の知り合いに会ってつい話し込んでしまったと嘘をついた。すると美幸の母は意外そうに首を傾げる。
「え?それって莉子ちゃん?」
「え、いや…違うけど」
すると美幸の母は意外そうに瞬きをした。
「…まさか男の子、じゃないわよね」
「いや、そうだけど」
「あら!」
正直なわたしの言葉に、突然にこにこと微笑みだした美幸の母。
「え?」
「それならもうちょっとゆっくりしてきてくれてもよかったわよ」
なんでだと思った瞬間に、玄関から扉の開く音がした。
「ただいま」
「お父さん、お帰り」
「おかえり」
「すぐお味噌汁暖めるから、ちょっと待ってね」
母はそう言って、鍋の乗ったコンロに火をつけた。そして父が着替えに部屋の奥に行ったのを見計らって、わたしに小さく声をかけてきた。
「今の話、お父さんにはまだ内緒にしておくからね」
「え?」
美幸の母の顔を見ると、片目を閉じられた。
「…うん」
とりあえず頷いておいた。すると美幸の母は鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜ始めた。
「…」
その意味はよくわからなかったが、美幸の母の機嫌が良くなったのでよしとしよう。
しばらくして、外から再び花火の音が聞こえてきた。また恐怖で少し身が固くなったが、先ほどよりはかなり音が小さいし家の中という安心感からか、大きく取り乱したりはしなかった。それでも花火の音はわたしにとって恐怖でしかなく、箸を握りながら早く終われと念じることしかできなかった。
そして花火が終わった後、一人部屋に戻ったわたしは静かに考えた。どうして花火の音を聞くだけであんな恐怖を感じたのか。しかし美幸の記憶では、花火に関することを探しあてることができなかった。もちろんわたしも花火なんてものは見たことがないからどうして怖いと思ったのかさえわからない。わたしはしばらくベッドの上でうんうんと唸ったが、結局その理由はどれだけ考えてもわからなかった。
翌日。
昨日の花火の音で恐怖に震えていたのがまるで嘘のように、わたしは軽やかな足取りで図書館に向かった。
「青葉」
そしていつもの場所に座っている青葉に一番に声をかける。青葉は美幸の声で顔をあげた。
「やあ。君、昨日は無事に帰れた?」
「うん、おかげさまで。ありがとう」
青葉は読んでいた本を一度閉じて、席についたわたしの方を見た。
「君って、花火苦手なんでしょ」
青葉の真っ直ぐな視線を受け止めて、わたしは頷いた。
「うん」
「じゃあなんであんなところにいたの」
「買い物頼まれて。家を出た時は花火が始まるまでに帰ろうと思ってた」
そこまで言うと青葉は察したようにああと声を漏らした。
「良光の電話で、足止めされたのか」
「それもあるけど、わたしの読みが甘かっただけ」
「まあ、何事もなくて良かった」
しみじみとした言い方から、青葉が心配してくれたことが伝わってくる。
「三人が来てくれて助かった。一緒にいたんだ?」
「そう。良光の家にね」
「水族館の予定練るためってやつか」
「まあそれもあるけど、休みの日はよく良光の家に集まることが多い」
「へえ」
聞けば、入船の家はわたしがしゃがみ込んでいた場所からそう遠くはなかったらしい。青葉は当時のことを淡々と教えてくれた。
「良光が電話切られたって言ってそのあとすぐに藤谷に電話がかかってきたから、なんかあったんだなってみんなわかったよ」
「そうか」
「藤谷は君が誰かに襲われたんじゃないかって言ってたけど、僕は先週花火の動画で顔色悪くしてた君を見てたからね。多分花火の音で動けなくなったんじゃないかって予想立ててスーパー周辺を探したんだ」
イヤホンをわたしの耳に入れるという案は、青葉からだったらしい。
「あの時は本当に助かった。ありがとう」
わたしが深々と頭を下げると、青葉はちいさく微笑む。
「いいよ。でも良光はまだしも、藤谷の連絡先を君が知ってるのは意外だった」
「ああ、藤谷とは成り行きで連絡先を交換したんだ」
「それも」
「それ?」
青葉がわたしに人差し指を向ける。
「藤谷のこと藤谷って下の名前で読んでるのも、意外」
そうなのかとわたしは首を傾げた。
「変かな」
「いや変とかじゃないけど、いつの間にそんなに仲良くなったのかと思って」
「ああ」
連絡先を知ったのと、下の名前で呼ぶようになったあの日のことを青葉に話すと、青葉は小さく笑った。
「へえ、面白い」
別に面白い話ではなかったような気がするけど。わたしが再び首を傾げると、青葉は携帯を取り出した。
「じゃあ僕にも教えてよ、連絡先」
別に断る理由はない。わたしは頷いて、美幸の番号を青葉に伝える。青葉が自分の携帯を少しいじると、見知らぬ番号から電話が来た。
「それ、僕のね」
「うん」
わたしは青葉の連絡先を美幸の携帯に登録する。藤谷と連絡先を交換した後、密かに説明書を見て覚えたのだ。青葉と名前を入力しようとして、ふと尋ねる。
「青葉は、青葉って呼ばれるの嫌じゃない?」
藤谷は君と呼ばれるのが嫌だと言っていたので、可能な限り人の名前はちゃんと呼ぼうとあれから意識をしている。しかし万が一名前で呼ばれるのが嫌だったら申し訳ないので、確認をとるつもりでそう尋ねた。すると青葉はわたしの質問に、数秒視線を宙に漂わせた。
「…嫌ではない」
「なら良かった」
わたしは安心して頷いた。
「…」
それ以降青葉は口を閉じたので、話は終わったと思ったわたしはいつも通りに本を選ぶために席を立った。本棚を巡りながら、ポケットにしまった美幸の携帯に触れる。美幸の携帯にまたひとつ増えた連絡先。美幸がこの身体に戻った時、それを見てどう思うだろう。次に美幸に会った時、なんて伝えようか。そんなことを考えながら、わたしは昨日途中でやめてしまった本を手に取った。続きが読める喜びを、密かに噛みしめながら。