美幸という名の女の子①
昔、空が透き通るような青になっているところを見たことがある。そう言ったら、それは夢だと仲間たちは笑い飛ばした。だから彼女と初めて会った時、これは夢だとすぐに気付いた。
高熱を出した時に眠ると、必ず見る夢がある。視界いっぱいに広がる、草が一本も生えていない荒れ果てた大地と、不気味なほどに遠く青く澄んだ綺麗な空。そこにわたしはぽつりと立っている。
「××ちゃん」
自分の名前を呼ばれて、その声の方を向く。そこに立っているのは、艶のある髪を短く整え人懐っこい笑みを浮かべる女の子だ。不可解な構造の深い紺色の服を着て、傷一つない白い足を惜しげもなく出した姿。わたしの日常では決して見ないような格好の女の子。
「やあ、美幸」
この美幸という女の子は、わたしが高熱を出した時の夢に必ず現れる。小さな怪我でさえ命取りになる日々の中でわたしが初めて高熱を出して倒れた時、彼女のことを熱に浮かされた頭が勝手に生み出した架空の人物だと想っていた。しかし、それ以降熱を出す度に現れるので彼女は実在する何かなのではと思うようになった。
「久しぶりかな、××ちゃんと会うの」
「そうかも」
わたしが高熱を出す頻度はそんなに高くない。数年に一度あるかないかくらいだ。そもそも頻繁に熱なんか出して倒れていたらこんなに長く生きていないだろう。それでも周囲の人からは身体が弱いと揶揄されることはある。昔は熱なんか出さない丈夫な身体だったのだが、昔に霊術で大失敗をして、記憶と身体に大怪我を負ってから定期的に体調を崩すようになってしまった。
「最近どう?」
「相変わらずひどいもんだよ」
数年に一度の逢瀬とはいえ、美幸とはもうかなり長い付き合いになる。最初に美幸に出会ったとき、わたしはまだ十年そこらしか生きていない未熟な人間だった。会ってすぐは敵の罠かと美幸の存在自体を訝しんでいたが、さすがに会うたび言葉を少し交わすだけの存在であればまあ害があるものではないかといつの間にか警戒心も解けた。
「そうなんだ。こっちは相変わらず穏やかだよ」
夢の中でわたしたちは、本当に短い時間だけ会話をする。その会話の中で、美幸はわたしとは正反対の世界を生きていることを知った。爆弾も銃も術も存在しない、誰かの死が日常茶飯事ではない世界があることを知った。
「そうか」
いつもならそれで会話は終わっていた。しかし、その日は違った。
「…いいな」
わたしはつい先日大事な仲間を失った。それにより仲間内は騒然としているのに、わたしは高熱を出して倒れてしまった。仲間を助けられなかった悔しさと、自分の不甲斐なさに辟易としていたため、気が緩んでいた。そのせいで美幸がいる世界であれば、こんな想いをしないでよかったのだろうかと羨む気持ちが沸いてしまった。しかし、思わず口をついて出てしまった言葉をわたしはすぐに後悔した。こんなことを言っても美幸にはどうすることもできないのにと、慌てて美幸の顔を伺った。美幸はわたしが何を言ってもあまり表情を変えることはない。しかし美幸はごくまれにわたしの言葉を聞いて寂しげな顔をすることがあった。その顔を見ると少し胸が痛むので、わたしはその顔が好きではなかった。だから、そんな顔をさせないように気を付けていたのに。
「本当?」
しかし、美幸はわたしの想像とは違う顔をしていた。今まで見たことがない、この時を待ち焦がれていたと言わんばかりの明るい顔。
「美幸?」
美幸はその表情のまま一歩、また一歩とわたしに近付く。わたしと美幸の間にはいつも距離があった。お互いが決してお互いの領域に侵攻しないように、暗黙の了解のようなものだと思っていた。しかし美幸はあっさりわたしの領域に足を踏み込んで、初めてわたしの手を取った。驚いて美幸の手を見た。爪は綺麗に切りそろえられ、傷一つない美幸の細く小さな手。
「ねえ、××ちゃん」
美幸はわたしの名前を呼んで、わたしの手を静かに強く握った。
「それじゃあ、取り替えっこしてみない?」
「は?」
その意味が分からずわたしが間抜けな声を発した瞬間に、視界が揺れた。それは夢の終わりの合図だ。ゆっくりと大地が割れ、空が裂ける。わたしは大地の割れ目へ、美幸は空の裂け目へと落ちていくのがいつもの夢の終わりの光景だった。そのはずだったのだが。
「え?」
わたしの身体が空の裂け目に吸い込まれるかのように宙に浮いた。いつもならもう大地の境目に足を落としているはずなのに。一方、わたしの手を掴んだままの美幸の身体は大地の割れ目にゆっくりと沈みかけていた。
「美幸!」
いつもと違う現象に嫌な感じがして、思わず叫んだ。直感は大事にしろと、常日頃から仲間たちにも言われている。しかし美幸は至極落ち着いた瞳でわたしを見て、一度わたしの手を強く握りその手を離した。
「ごめんね、××ちゃん」
わたしに謝りながらも、そう言う美幸の顔は穏やかだ。
「楽しんできてね」
その言葉を最後に、わたしの身体は空の裂け目に落ちて何も見えなくなった。