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どきどきハナサカRO-BA(ローバ)

作者: 平山真人

「ふ~っ、あつくなってきたねぇ、やまもとさん」

「そうね、ルリさん。あ、そうそう、そろそろ、アサガオの種、植えなきゃね?」

「そうだねぇ、じゃ、明日植えましょうか」

 かえで園の職員のやまもとさんと、ルリばあちゃんは、今日もいっしょに花壇の手入れをしています。

ルリばあちゃんは、今年で八十五歳になります。

花壇の世話係は、自分から買ってでました。

ルリばあちゃんは、太陽の光を受け、土をさわっていると、まるで自分も植物になったように、元気になれるのです。

短く刈り上げた、上品そうな白い髪は、汗の水滴で、いくつかの束になっています。

「さ、ルリさん、今日はこれくらいにしようね。あたし、ごはんの準備に行ってくるから」

 やまもとさんは、そういって先に建物へ入っていきました。

 ルリばあちゃんは、一人ゆっくりと、

「よいしょ」

と立ち上がると、汗をぬぐいながら、真っ青な空を見上げました。

そしてなんとなく、(今日は何か、いいことありそう……)と思いました。

 ここ、かえで園は、郊外にある自然いっぱいの老人ホームです。


 食事が終わり、ルリばあちゃんたちは、テレビを観る時間になりました。

 いつも、みんなが大好きな、時代劇チャンネルや、昔の歌謡曲チャンネルを見ます。

けれどその日は、園でいっしょに暮らす斎藤さんのお孫さんたちが来ていたので、いっしょに、若者向けの歌番組を観ることにしました。

「あっ! どきどきハナサカ娘!」

 ミクちゃんという女の子がさけびました。

「あ、あたしも、ハナサカ好き!」

 もうひとりのいとこの女の子も、大きな声を上げました。

「♪ま~いあがっれ~、ニッポン~、ウォ~ウォウォ~」

 女の子たちは、テレビの中の、どきどきハナサカ娘というアイドル歌手といっしょに、元気よく踊りだしました。

 よくみると、ハナサカ娘の頭にも、女の子たちの頭にも、大きな花の髪飾りがついています。きっと女の子たちは、ハナサカ娘の真似をしてつけたのでしょう。

 それはちょうど、色鮮やかなアサガオに似た、大きな花の髪飾りでした

「みくちゃん、大きくなったら、いっしょに、ハナサカに入ろうか? 」

 いとこの女の子がいいます。

「えー、無理だよぉ」

 ミクちゃんは、そういいながら照れて笑っています。

 ルリばあちゃんは、数年ぶりに聞く“最近”の歌が、ちょっぴりうるさく感じましたが、なんだか胸の奥をゆすぶられるような気持ちがしていました。

(若いって、素敵ねぇ。)

 テレビの中のハナサカ娘と、その前で踊る女の子たちが、本当に輝いて見えたのです。

ルリばあちゃんは、若い頃、ダンスをやっていました。

それはフラメンコという、スペインのダンスで、ルリばあちゃんは、一時期、日本でも指折りの踊り手だったのです。

 若い時の話ですし、今ではそのことを知っている人など、ほとんどいません。

 それでも、ルリばあちゃんの心の中で、それは小さな誇りとして、ろうそくの火のように、静かに灯り続けていたのです。

(次に生まれ変わったら、わたしも今度はこういうアイドルってのに、なってみたいわねぇ……)

 ルリばあちゃんは、その夜、なかなか寝付けませんでした。


 次の日も、透き通るような空の、いいお天気でした。

「山本さん、今日はアサガオ植えるんでしょ?」

「そうですよ。わ、なんだか、ルリさん、うれしそう」

 ルリばあちゃんは、待ちきれないとばかりに、麦わら帽子をかぶった姿で、山本さんをせかします。

「あたしはね、お花の中で、アサガオが一番好きなの」

 ルリばあちゃんは、ニコニコしています。

「どうして?」

 山本さんがききました。

「アサガオにはね、いろんな花言葉があるの。その中でも、『明日もさわやかに』、これが一番好きだねぇ、あたしは。何だか元気が出るよ」

「へぇ〜、アサガオって、そんな花言葉なんだぁ、他にもあるの?」

「まだいっぱいあるのよ……」

 ルリばあちゃんと山本さんは、おしゃべりをしながら、アサガオの種をまくための準備をしていきます。

 まずは花壇の土を軽く掘り返して、それから、土のリサイクル材を入れていきます。

 土のリサイクル材とは、石灰と、堆肥と、木炭の入った、古い土を新しく生まれ変わらせるための材料です。

 それがすむと、土に、指で1センチくらいの穴をあけて、そこに種を入れていくのです。

「じゃあ、準備はこれくらいでいいかね? 山本さん、種はどこ?」

「ああ、あそこです」

 山本さんが、階段の横の、日陰になった部分をさしました。

「あそこね、よいしょ! ……ととと!」

 ドスン。

「大丈夫ですか? ルリさん!」

「へっへっへ、大丈夫、大丈夫」

 立ち上がろうとしたひょうしに、ルリばあちゃんは、バランスをくずして転んでしまいました。

(まったく。歳をとったものね……。)

「ちょっとほんと、気をつけてくださいね、ルリさん」

 ルリばあちゃんは笑っていても、山本さんの顔は真剣です。

「ルリさんに何かあったら、私の、責任なんですから」

「そう、ごめんね……」

 山本さんは笑っていっていましたが、ルリばあちゃんは自分のことが情けなくって、なんだか恥ずかしくなりました。

 そうしてその日、無事に、アサガオの種をまくことができました。


 ルリばあちゃんが植えたアサガオは、5月の気持ちのいい風を受けながら、すくすくと育っていきました。

 アサガオはまず、双葉の芽が出てきます

 芽は、かわいらしくって、みずみずしくって、手で軽く触れると、ピンっと、はねかえしてきます。

「さあさ、みんな、元気に育つんだよ」

 まだ芽の出ていない種もありましたが、アサガオを植えた一面の土に向かってそういうと、ルリばあちゃんは、なんだか自分が先生になったような気がしました。

 双葉のあとには、本葉という葉っぱが出てきます。これはかわいらしかった双葉とは違って、もうすっかり、アサガオの葉っぱらしい葉っぱです。

 そしてその本葉がいくつか出てくると、今度は、摘芯といって、一番先端を、チョキンと切ってあげます。そうすることで、横からいくつもの新しいツルがのびてくるのです。

 アサガオはどんどんと育っていきました。

 七月になりました。

 ネットにからみついたアサガオのツルには、ところどころに、つぼみがついて、もう今にも花を咲かさんばかりです。

 ルリばあちゃんの胸は、静かに高鳴りました。

 そしてそれは、ちょうど七月八日の、七夕の日の朝でした。

(そろそろ咲くころね…)

 そう感じたルリばあちゃんは、誰よりも早く起きると、一人で庭の花壇へ向かいました。

 うすい霧がたちこめていて、なんだか不思議な雰囲気のする朝でした。

 急いで履いたつっかけのすき間から、ルリばあちゃんの足に、ひんやりとした朝露がかかります。

 花壇が近づいてくると、遠目にも、カラフルなアサガオたちが花を咲かせているのが、分かりました。

「やあ、おはよう」

 ルリばあちゃんは、まるでなじみの友達に久しぶりに会ったように、にっこり微笑みながら、声をかけました。

「……おや?」

 その時、一番下の方で、ボーッと、かすかな光を放っているものがありました。

 葉っぱを、手でやさしくどかしてあげると、そこには、これまで見たことがない、黄色い色のアサガオでした。

「黄色いアサガオは、これは大発見だ」

 色だけでなく、そのアサガオはかすかな光をはなっています。ルリばあちゃんはその光を、両手でおおうように、受け止めてみました。

 すると、ルリばあちゃんの中に、ギュギューンと、なにか力が湧き出てくるような感じがしました。

「これは……、あっ!」

 ルリばあちゃんが驚いていると、アサガオは、自分からプツッと茎から離れ、フワッと浮かび上がったかと思うと、そのまま、ルリばあちゃんの手の中に横たわりました。

 ルリばあちゃんがもっと驚いたのは、この後のことです。

 ちぎったわけでもないのに、せっかく自分の手の中にあるのだからと、ルリばあちゃんは、テレビの中の、あの、どきどきハナサカ娘の真似を、こっそりしてみることにしたのです。

 ルリばあちゃんは洗面所で、この黄色いアサガオを、そっと、自分の耳にかけてみました。

 すると、アサガオが放っていた光が、パァッと体の中に入ってきて、そのまぶしさで、ルリばあちゃんは思わず目をつぶりました。

 やがてまぶしさが収まり、おそるおそる目を開けてみると……、

 なんとそこには、二十歳くらいに若返ったルリばあちゃんの姿がありました。


「きゃーー!!」

 驚く声も、自然と若い女の子のような声です。

「え? 誰? どうしたの?」

 そこへ急いで駆けつけたのは、山本さんでした。

「あのー、えーと、……違うんです。何でもないんです」

「いや、何でもないって、それならそんなに大きな声出さないでよ、まったく」

「す、すみません……」

 どうやら山本さんは、この若い女の子が、ルリばあちゃんだということが、分からないようです。

「あ、もしかして今日入った新人? あれ? それにしても、おばあちゃん見なかった? ルリさんっていう」

「いえ、見なかったです。あのー、今日から、……よろしくお願いします」

 ルリばあちゃんはそういって、その場をうまく切り抜けました。

「どこ行ったのかなぁ? ルリさん。まったく世話焼かせないで欲しいなぁ……」

 ぶつくさいう山本さんに、ルリばあちゃんはとりあえず、新人の職員として、ついていくことにしました。

「じゃあさっそく、これからやってくれる?」

 山本さんから、ドンと押し付けられたのは、洗濯物の山でした。

「洗濯のしかたくらいわかるよね? あっちにあるのは、もう終わったやつだから、向こうに干しといて。じゃ、頼むね」

「は、はい!」

 いつも自分に接してくれる山本さんとは、少し感じが違うことに戸惑いながら、ルリばあちゃんは、洗濯にとりかかりました。

 たくさんの洗濯物を干していくのは、ずいぶんと骨が折れる作業でしたが、若くなった体を使ってみるのに、いい機会でした。

(わぁーよく動く、体が軽い! 軽い!)

 あっという間に、作業を終えてしまいました。

「あれ、もう終わったの? じゃあ、今度これね」

 次に任されたのは、園に入っている人たちの、パソコンでのデータチェックでした。

 普段はほとんどさわったことのないパソコンでしたが、担当の平岡さんに教わりながら、なんとかやり遂げました。

(意外とかんたんなものね……。)

なんて思いながら。

 そのあとは平岡さんに連れられて、園の内部をいろいろと紹介してもらいました。

「はい、はい……」

と、返事をしながら聞いていましたが、ルリばあちゃんにとって、知っていることがほとんどでした。

 けれども、それを改めて人の口から聞くのが、何だか楽しかったのです。

 心も体も二十歳のように若返って、やる気も充実し、今のルリばあちゃんには、何もかもが楽しく、新鮮なものに感じました。

 そうして、明るく元気に働いて、やがて休憩時間になりました。

「あー……」

 急に男の人のような太い声でため息をついたのは、平岡さんです。

「わたしって、何のために生きてるんだろ……」

 いつも、園では真面目すぎるくらいにしっかりと仕事をしてくれている平岡さんが、こんなことをいうなんて、と、ルリばあちゃんは驚きました。

「親といっしょにいるのが嫌で、実家を飛び出したのに、やってるのは家事みたいな仕事……。それにこれじゃあ結婚相手と知り合うヒマもないし、月日が飛ぶように流れていくわ……」

 ルリばあちゃんは、そばでだまってきいていました。

(若いと、色々と悩みも多いものよね……。)

「ところでねえ、あんた」

 平岡さんが急に話しかけてきました。

「あんた、なんでそんなにかわいいのに、こんなとこにいるの?」

「え?」

「ま、そんなことはどうでもいっかぁ。ねえとりあえず、あんた、合コン設定係になりそうよね」

「ゴウコン??」

 それはルリばあちゃんが知らない言葉でした。

「なに? あなた、何とぼけてんの??……」

 その後もひらおかさんは、ルリばあちゃんの顔をのぞきこみながら、まくしたてるように話しかけてきましたが、なぜかルリばあちゃんの頭には入ってきません。

「はい、ええ、あ、はい……」

と、なんとなくやり過ごすのみでした。

 ルリばあちゃんには、平岡さんの言葉や気持ちは、何かとげとげしくて、聞いていると心に小さな穴が開けられていくように感じたのです。

 そんな折、ルリばあちゃんは、トイレに抜け出ると、耳にかけてあった例のアサガオを取りました。

 すると、フッと、元の姿に戻りました。

 アサガオは、手の中で、閉じることもなく、みずみずしいままで、きれいな黄色い色を放っています。

 ルリばあちゃんは、それをそっとポケットにしまうと、(明日は、街へ出てみよう)と決めて、休憩室へは戻らず、そのまま自分の部屋に戻りました。

 

 次の日、ルリばあちゃんはアサガオを頭に飾って、街へ出てみました。

 普段は歩かないようなところを、歩いてみようと思ったのです。

 まずは手始めに、日頃、決して入ることのないような、洋服店に入ってみました。

 すると、すぐに店の人が話しかけてきました。

「あ、これ、ご注目な感じですかぁ? これ今ハヤリなんですよぉ。去年はココがこうなってるのがハヤリだったんですけどぉ、今年はこうでぇ……、ちなみにぃ、来年はこうなるっていわれてるんですぅ! キャハハハ」

「そ、そうですか」

 目をギラつかせて説明してくる店員さんを、ルリばあちゃんは、なんとなく笑ってやり過ごしました。

 少しだけ買い物して、ルリばあちゃんは、若者らしい格好に着替えると、また違う場所へ向かいました。

すると今度は、道で男の人に話しかけられました。

「ねえ今ヒマ? 今ヒマ? ねえ今ヒマ?」

 男は、ルリばあちゃんについてきて、しつこくしつこくきいてきます。

 今、ヒマかどうかを。

 ルリばあちゃんは、キッと険しい顔を見せていいました。

「どんだけヒマでも、あなたに関わるヒマだけはないの!」

 すると男は、すごすごと去っていきました。

 ルリばあちゃんは、ちょっと得意な気持ちになりましたが、そのすぐあとに、何か、ドッと疲れがやってきました。

「……若くて体が元気でも、若者には若者なりに、いろいろと疲れることが多いんだねぇ」


「よーし、この機会だ。あそこにも行っちゃおう。あれはどこだったかなぁ、えーと……」

 そうつぶやきながら、ルリばあちゃんは、ある場所を目指して歩きました。

「着いた!」

 ルリばあちゃんが、目指していた所、それは、モリクマ・ダンスファクトリーという、ダンスの学校でした。

 さっそく中に入ると、

「おはようございます!」

 受付のお姉さんに、言われて、ルリばあちゃんは、びっくりしました。

「お、おはようございます」

 芸能の世界では、いつもあいさつは、この「おはようございます」なのです。

「あの、あたし、今日は見学なんですけど……」

「分かりました、中へどうぞ」

 ルリばあちゃんは、あっさりとなかに入ることが出来ました。

 中にはいろんなダンス教室がありました。 バレエ、ジャズダンス、ヒップホップ、ブレイクダンス……、次々と教室を通り過ぎていきます。

「あった!」

 そういってルリばあちゃんがガラスにペタッとしがみついたのは、フラメンコの教室です。

 中の様子を見て、若いころを思い出し、すっかりノリノリになってしまったルリばあちゃんは、ガラスの外で、思わず踊りだしてしまいました。

(わー、体が動く、動く! ああ、楽しい……!)

「オーレ! ユー、カモン!」

 そんなルリばあちゃんに気づいた男の講師が、ルリばあちゃんを、中に招き入れてくれました。

 すると、こうして飛び入りとして入ったルリばあちゃんの、思い切りのいいダンスに、生徒たちは、大盛り上がりとなりました。

 いつのまにか、講師や生徒たちの中心になって、ルリばあちゃんは、踊り狂いました。

 そんな熱い時間を過ごして、ようやく、授業の時間が終わりました。

 パチパチパチパチ……!

 自然と拍手が起こったのは、まぎれもなく、ルリばあちゃんのダンスへ向けてでした。

 ルリばあちゃんは、汗をぬぐうと、

「……てな感じです」

 といってニッコリ笑って、ぺこりとおじぎをしました。

「おー、バイラ、ビエン! ユー、若いのに、基礎がしっかりしてるね!」

「いえ、どういたしまして」

「ユー、明日から、ここ来ちゃいなよ」

「いや、あの、あたしは……」

 講師からお誘いの言葉がありましたが、ルリばあちゃんは、断ってしまいました。

 やはり、この魔法がいつまで続くか、不安だったのです。

 それに、この胸いっぱいの満足な気持ちは、少々ルリばあちゃんには、刺激が強すぎるように感じました。

 なんだか頭がポーッとして、気を失ってしまいそうです。

「そろそろ、カエデ園に戻らなきゃ」

 ルリばあちゃんは、トイレに入ると、頭につけていたアサガオをとりました。

 すると、スッといつもの八十五歳の体に戻りました。

「じゃあ、ありがとうございました」

といって、ルリばあちゃんが、受付の前を通ると、受付のお姉さんがびっくりしたことは、いうまでもありません。


「あ、ルリさん、どこいってたんですか!」

 ものすごい剣幕でいってきたのは、やっぱり、山本さんです。

「ごめんね、ちょっと出かけてたのよ」

 ルリばあちゃんは、そっけなくやりすごしました。

 あまりあれこれと、つきとめてほしくなかったのです。

 晩ごはんが終わると、ルリばあちゃんは、自分の部屋に戻りました。

 電気を付けるとすぐ正面に、『どきどきハナサカ娘』のポスターが見えます。

 斎藤さんのお孫さんのミクちゃんから、一枚もらったのです。

 これをもらった時、ミクちゃんのほうが、なんだかとってもうれしそうだったことを思い出しました。

「ハナサカ娘か……、ちょうどこの子たちも、二十歳くらいだねぇ」

 ポケットから、黄色いアサガオをそっと取り出すと、鏡の前でまた、頭に飾ってみました。

 とたんに若返り、二十歳くらいのルリばあちゃんが姿をあらわしました。

「年寄りでも若くても、大変なことはあるわね……、でも、やっぱり、若いほうがいいかな……」

 そうつぶやいた時、ルリばあちゃんの後ろで、

「ひゃっひゃっひゃっひゃ」

と笑う声が聞こえました。

 ルリばあちゃんが、ハッとして、アサガオを外して振り返ると、そこには、ウメノさんがいました。

 ウメノさんは、ルリばあちゃんよりも年上の、体の小さい、なんだか人形みたいなおばあさんです。

「ウ、ウメノさん?」

「ひゃっひゃっひゃ、ルリさん、思うようにしたらええんじゃ。人間、いつ死ぬかわからんでよ。若くても歳をとっていても、それは同じでよ」

「ウメノさん、こ、これは……」

 ルリばあちゃんは、アサガオのことがばれた、と思い、あせりました。

「ま、いくつになっても、おしゃれは大事でよ。ひゃっひゃっひゃ」

 けれどウメノさんは、こんな言葉を残して去っていったので、本当のところは分からないままでした。

「このアサガオ……、おしゃれ、か……」

 少しホッとしたルリばあちゃんでしたが、実はちょっぴり、ウメノさんになら知られてもいいかな、と思いました。

 アサガオの力で若返って、うれしくて楽しいことばかりなのですが、どこかちょっぴり悲しくもある、こんな気持ちを、誰かに伝えてみたい、とも思ったのです。


 次の朝も、起きるとすぐに、ルリばあちゃんは黄色いアサガオを、まず確認しました。

「うん、まだ大丈夫」

 アサガオは、少しも衰えを見せず、光を放っています。

 それから、ルリばあちゃんは、ウメノさんを探しました。

 庭を見て、リハビリ室を見て、食堂を見て、休憩室を見て、最後に、図書室に行きました。

 するとそこに、ウメノさんの姿がありました。

「ウメノさん、おはよう」

「ひゃひゃ、おはよう」

 朝早いのに、ウメノさんは、熱心に何かを読んでいました。

「なあに、それ」

「これかい? 動物の図鑑じゃよ。字が読めんけ、絵だけ見とったでよ」

 ウメノさんは、おだやかに微笑んでいいました。

 ルリばあちゃんは、思い切って、すぐに切り出しました。

「あの、ゆうべのことだけど……」

「え? ゆうべ? そんな昔のことはもう忘れたでよ」

 ウメノさんの、本気とも冗談ともとれる表情に、ルリばあちゃんはそれ以上何もいえなくなりました。

「ん? なんか、悩みでもあるんかい、ルリさん」

「いや、そんなことは……」

 ルリばあちゃんは少しビクッとしましたが、平静をよそおいました。

「ひゃひゃひゃ、あのな、ルリさん、過去は幻じゃよ。そんな幻は、自分を苦しめもすれば、喜ばせもする。あたしゃもう面倒くさいけ、全部、忘れてしまいたくなるでよ。ひゃっひゃっひゃ」

「ウメノさん……」

「いやなんの、今のはあたしのひとりごとよ」

 そういって、ウメノさんは、また図鑑に目をやってしまったので、仕方なくルリばあちゃんは、静かに図書室を去りました。


 朝ごはんの時間、食堂のテレビは、芸能ニュースをやっていました。

 ルリばあちゃんは、前の方の席に座ったので、テレビがはっきりと見え、音もちゃんと聞こえました。

「続いては、今、大人気の、どきどきハナサカ娘についての、重大発表です!」

 ルリばあちゃんは、思わず箸を止め、テレビに集中しました。

「なんと、どきどきハナサカ娘が、この夏、新メンバーを緊急募集するそうです」

 その日の食堂は、いたって普通の様子でしたが、ルリばあちゃんの心の中だけは違いました。

 このニュースは、ルリばあちゃんの中に、大きな波紋を呼び起こしたのです。

(思うようにしたらいい、か……。)

 ウメノさんのいっていた言葉が、ただ、頭の中を、ぐるぐると回っていました。

 ルリばあちゃんは、朝ごはんを食べ終わると、いったん部屋に戻りました。

 そうして、引き出しを開け、黄色いアサガオを確認しました。アサガオは、変わらず、そこにありました。

(『あなたにわたしは、絡みつく』、これもアサガオの花言葉だったね。……今のあたしは、まさにあなたに絡みついてる。でも、今はそれしかないのよ。あたし、思うようにやってみる。……いい?)

 そうアサガオに問いかけると、ルリばあちゃんはまた、アサガオを頭に飾りました。

「よし」

 鏡を見て、若くなった自分の姿を確認すると、ルリばあちゃんは、ニコッと微笑んでみせました。

 それはまるで、鏡の中の若い自分が、今のルリばあちゃんに向かって微笑んでくれているように見えました。


 ルリばあちゃんは、どきどきハナサカ娘の新メンバーに、応募してみることに決めました。

 そうなると、準備が必要です。審査は、歌とダンスです。

 ルリばあちゃんは、今度は無断で園を抜け出すのではなく、はっきりと山本さんに、許可をもらいました。

「これからしばらくの間、昼間は友達のところに会いに行くことにしたよ。何だかね、海外に住んでいる友だちが、あと一ヶ月くらいはこっちにいるっていうもんでね」

 なんてうそをいって。

 サパトスという、フラメンコシューズも新しく買いました。ファルダとよばれる裾の長いスカートも。そして、パリージョとよばれる、踊りに使うカスタネットも。フラメンコに必要な物を、すべて買いそろえました。

 そして、向かったのは、あの、モリクマ・ダンスファクトリーです。

「オーレ! ユー、こないだの子ね」

 フラメンコ講師は、すぐにルリばあちゃんを受け入れてくれました。

 そこからルリばあちゃんの、フラメンコダンスの猛特訓が始まりました。

 ルリばあちゃんは、決心しました。

(『朝顔の花一時』……、この黄色いアサガオが、いつ枯れたって構わない、どのみち短い間なら、その短い間を、いっしょうけんめいに過ごすだけよ!)


「オーレ! バモス、アジャー!」

「はい!」

 講師の掛け声に、ルリばあちゃんは、元気よく応えます。

 フラメンコ教室の誰よりも、熱心に踊りました。

 それが、中には、気に食わない人もいます。

「ちょっとぉ、あたし、もうちょっとのんびりやっていきたいんだけどぉ」

「あらそう、でもごめんね、あたしには、時間がないの」

 ルリばあちゃんは、そんな声を軽くあしらいます。

「まったくこの人にはかなわないわ。どこか他のダンス教室でもあたろうかしら」

 なんて、ぼやく人もいます。

『朝顔や つるべとられて もらい水』

 こんな、アサガオにまつわる有名な俳句のように……。

 ルリばあちゃんは、いつも耳にアサガオの花飾りをつけていたので、いつしか教室内で、『朝顔姫』と呼ばれるようになっていました。

 けれどそんな黄色い朝顔は、いつまでその魔法を保ってくれるか、分かりません。どきどきハナサカ娘のオーディションも、すぐにやってきます。

 ルリばあちゃんは、一日一日を、悔いの残らないよう、いっしょうけんめいに過ごしました。

 おかげで、若いころに鍛えたフラダンスの感覚は、じょじょに戻ってきました……。


 日を追うごとに、ハナサカ娘のオーディションの日は、近づいてきます。

 カエデ園の中では、ルリばあちゃんは、アサガオを外しているのですが、それでもルリばあちゃんの、はつらつさが、園の中で話題になっていました。

「ねぇ、ルリさんって、最近、妙に元気よね?」

「うんうん、目なんか、キランキランしちゃってさ。何かあったのかな?」

「ひゃっひゃっひゃ、命短し、恋せよ乙女じゃ。人のこと気にせんで、あんたらはあんたらで、合コンに行って、早く相手を見つけんと、手遅れになってしまうでよ」

 そこへ口をはさんだのは、ウメノさんです。

「あ、ウメノさん! 何か知ってるの?」

 スタッフの一人が、ウメノさんにたずねました。

「いいや、あたしゃ知らんでよ」

 ウメノさんは答えました。

 本当のところは、わかりません。ウメノさんは、のんきなように見えて、人を見通す力があるようですから。

 そんなカエデ園の中で、ルリばあちゃんは、晩ごはんを食べ終わると、部屋にこもって歌の練習をします。

 それを、廊下のベンチで、いつもじっと聞いているのは、やはりウメノさんでした。


 そうしていよいよ明日が、どきどきハナサカ娘のオーディション、という日がやってきました。

 ルリばあちゃんの胸の高鳴りは、胸だけでなく、体中に響いています。

 オーディション前の最後のダンス練習から、カエデ園に戻り、アサガオを外しましたが、ドキドキは、少しも収まりません。

 全身のすみずみに強く血が巡るような感じは、八十五歳の体には、とても耐えられない気がしました。

(いよいよ明日か……。すごくすごく楽しみで、うれしいんだけど、すごく苦しい……、こういった気持ちは、いったいどれくらいぶりだろう?)

 布団に入る前、洗面所で歯磨きをしていると、ウメノさんに会いました。

「ルリさんは肌つやがよくて、若々しいねぇ。ひゃっひゃっひゃ」

「あ、ウメノさん、ありがとう。明日は……」

「へ?」

 ルリばあちゃんは、ついウメノさんに、「明日はがんばるわ」といいそうになってしまいました。

 けれどそんなルリばあちゃんは、実際、アサガオをつけてなくても、胸の高なりのせいでしょうか、肌にきれいな赤みがさしていたのです。


 そして、オーディションの日。

 黄色いアサガオは、やはりまだ、みずみずしく色づいていました。

 ルリばあちゃんは、それをそっと手に取ると、いつものように耳にかけました。

「……よし」

鏡の前に立つと、そこにいるのは、かつてフラメンコとともに青春時代を送っていた、あの頃のルリそのものです。

じーっと鏡を見つめていると、過去の記憶が次々とあふれ出てきました。

 ……華麗なダンスで人々を楽しませる仕事をしたかったのに、その頃の踊り子は、あまり、周りからいい顔をされる仕事ではなかったのです。

 本場スペインへの留学も考えましたが、この時は両親に反対され、結局、夢は叶わずじまいでした。そんな両親も、もうとっくにこの世にはいません。

(一時は、あんなに憎く思った両親だけど、誰よりも自分を愛してくれた、そしてあたしはそれから、人を愛し、子を産み、育て、命のリレーをした……。今となっては、もう誰もいないけれど……。)

 鏡の中の二十歳のルリは、強い眼差しで、ルリばあちゃんを見つめ返してきます。

 気持ちを奮い立たせようとして、ルリばあちゃんは、そのまま、鏡の中のルリを、じっと見ました。

 あの頃とおんなじ、ギラギラした目。

 あの頃とおんなじ、顔。

 見ていると、これまでの人生で、辛かった思い出も、楽しかった思い出も、一気に押し寄せてきて、ルリばあちゃんは思い出におぼれ、少し、吐き気をもよおしました。

 涙も出てきました。

 しばらくの間、涙が止まらず、ルリばあちゃんは、部屋を出るのが少し遅れました。

 

 電車を乗り継いで、ルリばあちゃんは、オーディション会場に着きました。

 それは、ツタの絡みついた塀の中にあって、茶色いレンガタイルで覆われた、古いながらも手入れの行き届いた建物でした。

 入り口付近には、女の子たちがたくさん並んでいます。受付をすませてから、順番に中に入っていくのです。

「では、百番から、百五十番の人は、こっちに並んでくださーい」

 係の男の人が、メガホンで案内をしています。

 ルリは、百四十九番でした。

「……この辺りでいいかな?」

 ルリが自分の並び場所を探していると、

「ねえ、あんた何番?」

 と、ルリに話しかけてきた女の子がいました。

 深い水色のビロードドレスを着た、いかにもツンとした感じの女の子でした。

「あたしは、ジュリナっていうの。あなたは?」

「ル、ルリよ。百四十九番だけど」

「順番はあたしの一つ前ね。……ふーん、けっこうかわいいけど、今回のオーディション、あたしといっしょってのは、ちょっと運が悪かったかもね、キャハハ」

 意地悪ないい方をされても、ルリはちっとも気にかかりませんでした。


 いよいよ、オーディションが始まりました。

「それじゃあ、次。百四十六番から、百五十番まで入って」

 まずは、自己PRと、質疑応答です。これは、自己紹介をし、そのあと審査員から、いくつか質問を受け、それに答えるのです。

 五人ずつ部屋に呼ばれて、入っていきます。

 一人ずつ順番に自己PRを行い、ルリの番がやってきました。

「じゃ、次、百四十九番の子」

「はい、二百九十一番、大野ルリです!」

 ルリばあちゃんは、審査員の人たちの前に立ちました。

「歳は二十歳です。どきどきハナサカ娘になりたくて、今日はやってきました。趣味は、え〜と、花を育てることと、あと、ダンスです」

「……ふ~ん、ルリっていうの。かわいい名前だねぇ、それ本名?」

 太くて白いふちのメガネをかけた男が、きいてきました。

「はい、本名です。ガラスのことを、古い言い方で、瑠璃るりっていいます。両親は、ガラスのように透明な心を持った人に育つようにって、私に、“ルリ”って名前をつけてくれたようです」

 ルリばあちゃんは、足がガクガク震えていましたが、声だけは震わさず、なんとか堂々とこたえることが出来ました。

「……『ようです』って、両親は?」

「はい、もう二人ともいません」

「……あ、そうですか、……分かりました」

 白メガネの男は、少し気まずそうに下を向きました。

「あのー、ダンスってのは、ジャズ? バレエ? ヒップホップ?」

 今度は机の一番左の、サングラスの男がきいてきました。

「フラメンコです」

「フラメンコ? へー、若いのに、めずらしいねぇ。うん、なかなか面白い。じゃ、好きな食べ物、きいてみようかな?」

「はい、ヒジキです」

「ヒ、ヒジキ……って、あのヒジキ?」

「はい、海藻のヒジキです。昔、母の作ってくれた、あのヒジキの煮物の味が、今でも忘れられません」

「む、昔?」

「いえ、あの、以前! です」

 ルリは、思わずハッとしました。今は、二十歳の娘なのです。『昔』、なんていうと、不自然です。

 けれどルリは、やさしかったお母さんのことを思い出して、思わず、涙が出そうになってしまいました。

「そ、そうですか……分かりました。えと、他の人、質問ありますか?」

 サングラスの男は、他の審査員の顔をぐるっと見渡しました。

 すると今度は、真ん中に座っていた、オールバックの髪型の男がきいてきました。

「水着にはなれますか?」

 ルリは、即座に「なれません」と答えようとしましたが、迷った末に、

「……はい、なれます」

と、答えました。

 ルリは、なんだか、悲しい気持ちになってきました。

 オーディションの最中なのに、両方の目から、ぽたりぽたりと、涙が出てきました。


 続いて、歌とダンスの審査です。

 各自、用意をすませ、また五人ずつ部屋に呼ばれるのを待ちます。

 ルリは、すでにルリばあちゃんは、マーメイドワンピースという、フラメンコ用の衣装を着てきていました。

 ダンスで青春時代を送っていた頃、お気に入りだった衣装によく似ていたので、お店で見つけてすぐに買ったものです。

 シンプルで力強い、黒一色の姿が、ルリに頭についている黄色いアサガオを、よりいっそう引き立てています。

「あら、あんた、その格好で踊るの?」

 ジュリナがきいてきました。

「うん、あたし、フラメンコだから、今、靴だけ履き替えたの」

 一方ジュリナは、さっきまでとは打って変わって、地味なジャージとTシャツ姿です。

 それに何だかさっきまでとは、態度までも変わっています。

 オーディションの最中に涙を流しているルリを見て、いくらか気づかいの気持ちが生まれたのでしょうか。

 ルリは、そんなジュリナに、(あたしは大丈夫だよ)という意味を込めて、軽くニッコリして見せました。

 ルリたちの順番は、すぐにやってきました。

「じゃ、百四十六番から、百五十番までの人、中に入って」

 女の子たちは、自分の用意したテープやCDをかけてもらって、次々に歌を歌います。

 ハナサカ娘の曲を歌う子もいれば、それとは違う流行りの曲を歌う子もいます。

 ルリの番がきました。

 そのとたん、とうてい流行りの曲とはいえない、古めかしい音楽が、部屋いっぱいに流れました。

「えーと、百四十九番、大野ルリさんで、『なつかしのワルツ』です!」

 若いスタッフの男がいうと、審査員も、そして、いっしょにオーディションを受けている女の子たちもいっせいにルリに注目しました。

 ルリは、目を閉じ、前奏を聞いています。

「♪すーぎさりしー夢のー……」

 ルリは、終始目を閉じたまま、若かった頃に見ていた景色を、まぶたに裏に見ながら、『なつかしのワルツ』を歌い上げました。

「いやぁ、いいね! ちょっと変わってるけど、大野さんね、なかなか面白いよ!」

 歌が終わると、サングラスの男は、興奮気味にいいました。

 次は、とうとうオーディション最後の審査項目、ダンスです。

(ついにきたわ、ここであたしのすべてを出しきらなきゃ……。)

 数分前に、涙を流していた女の子とは思えないほど、ルリの目は、熱く輝いています。

 他の女の子のダンスが始まりました。

 ルリは、目を閉じ、静かに、精神の集中を高め始めました。

 女の子たちは、最近の流行りの曲に合わせて、ダンスを披露していきます。

 またルリの番が来ました。

「……じゃあ次、大野さん、……フラメンコだよね?」

「はい、音楽、お願いします!」

 審査員の人たちも、他の女の子たちも、今度はどんなことが始まるんだろうというような、興味津々の目でルリを見つめています。

 CDがかかりはじめました。

 けれどまだ音はしません。

 しかしそのかすかな音を聞いて、ルリは、タイミングを図りながら、「すーーっ」と、大きく息を吸い込みました。

 ダンッ、ダンダン!

 足を大きく踏み鳴らすと、審査員の人たちはその迫力に、皆、ビクッとしました。

 ルリが、このオーディションに選んだフラメンコの曲は、『シギリージャ』でした。フラメンコの曲のレパートリーの中でも、特に古い歴史を持つといわれている曲種です。

♪ポロン、ポロロン……

 ルリの力強いサパテアード(足を踏み鳴らすこと)に続いて、ギターの音が、色を持たない絵の具のように、スーッと部屋の空気に溶け込んでいきます。

 シギリージャのギターの音は、とても悲しげです。しかし、その悲しげな雰囲気こそが、シギリージャ、しいてはフラメンコの持ち味なのです。

 悲しい人生、悲しい運命、この不完全な世の中で、強く必死に生きていく姿、これを表現していることこそが、フラメンコの最大の魅力です。

 ルリは、まさにそのフラメンコを、無我夢中で踊りました。

 音楽が止まった時、この世の時間が止まったかのような気がしました。

 部屋は、しーんと静まり返り、いつのまにか、半分ドアが開けられ、廊下にいた女の子たちやスタッフらしき人たちも、のぞき込んでいました。

 パチ、パチ、パチ、パチパチパチパチ……!!

 少し間をおいて、ドーッ!と、大きな拍手が沸きました。

「いやぁ、すごいすごい! すごいよ! 大野さん!」

 サングラスの男は、かけていたサングラスを外して、ハンカチで目頭を押さえています。

「うん、確かにすごい。でもただ、あんまり、ハナサカ娘っぽくはないんだけどね……」

 そういったの苦笑いをしてみせたのは、オールバックの男でした。

 ルリは、終わってホッとしたのか、人が変わったようにまたクルッといつもの優しい目に変わると、背中を丸めて、自分のイスに戻りました。

 ふらふらとおぼつかないルリの体を、次は自分の番だというのに、ジュリナが支えてくれました。

 ……こうして、ルリの、挑戦は終わりました。


 オーディションのすべての項目が終わると、この『どきどきハナサカ娘』のオーディションは、その日のうちに結果が出ます。

 すべての女の子は、その場に二時間待機します。

 ルリは、ただ、抜け殻のようにすわっていました。

 そこへジュリナがやってきました。

「ルリちゃん、あなたすごかったわね。例えあたしが落ちても、あなたが通るんなら、あたし全然悔しくないわ。よかったら、友達になってくれない?」

「いや、あの、それは……」

 ルリは、口ごもりました。

「まぁいいわ。とにかく、結果が出るのを待ってからにしましょ」

 そういって、ジュリナは去っていきました。

 ルリは、ずーっと考えていました。

 これからのこと、この、黄色いアサガオのこと……。

 そんな時、急に、カエデ園の山本さんとの会話が、頭の中によみがえってきました。

(へぇ〜、アサガオって、そんな花言葉なんだぁ、他にもあるの?)

(ええ、他にもいっぱいあるのよ……。)

 アサガオをいっしょに植えた時のことです。

(……そう、アサガオの花言葉は、いっぱいある。『明日もさわやかに』、そして、『愛情』、そして……『短い愛』!)

 ルリの心の中で、何かがはじけたような気がしました。

 汗が引いてきた肌からドレスをはがすと、ルリは、ふつうの服に着替え、トイレに行きました。

 個室に入ると、ルリは、そっとアサガオをはずしました。スッと、いつものルリばあちゃんの姿に戻りました。

 アサガオはまだ、手の中でみずみずしい光を放っています。

 ルリばあちゃんは、そんなアサガオに語りかけました……。

(ありがとう、アサガオさん、この数日間、本当に楽しかった。若いって素敵なことだって、あなたに、あらためて教えてもらったよ。……でもね、歳をとるってのも、素敵なことよ。歳をとってはじめて見えてくるものも、たくさんある。この宇宙の歴史に比べれば、人の一生なんて短いわ。でも短いからこそ、その一瞬一瞬を、いっしょうけんめい生きられるんだと思うわ。私はね、これでいいのよ。アサガオさん、……ありがとね。)

 そうしてルリばあちゃんは、個室を出て、アサガオを洗面台の横のくず箱にそっと入れると、トイレを出ました。

 若い女の子たちは、突然の、歳をとったおばあちゃんの登場にびっくりし、サーッと道を開けました。女の子たちのほとんどは、ルリばあちゃんのことを、掃除の係の人かと思いました。

 そんな中、ジュリナだけは、ルリばあちゃんの背中をじっと見つめていました。

 ルリばあちゃんは、審査結果が出るのを待たずに、オーディション会場をあとにしました。

 ゆっくりとした、いつもの歩き方で、ルリばあちゃんは歩いていきます。

 歩みは遅くても、その足運びにはしっかりとした重さと、歳をとっただけの年輪が感じられます。

 ルリばあちゃんは、晴れ晴れとした顔で歩いていきます。

 その目には、二十歳のときと少しも変わらない光を映していました。


「……ふ~っ、やっと着いた」

 長い長い時間をかけ、ルリばあちゃんはようやくかえで園に着きました。

「もう! ルリさん! おかえりっていいたいところですけど、ちょっと遅いですよぉ! 心配するじゃないですか!」

 すごい剣幕でしかってきたのは、いつもの山本さんです。

「いやいや、ごめんね。今日はちょっと、長くかかる用事があったもんで」

「まったく……」

 何だか山本さんの小言も、今のルリばあちゃんには、心地良く感じられました。

「あ、ルリちゃんだぁ」

 やってきたのは、ルリばあちゃんにとって、ハナサカ娘ファンとしては先輩の、ミクちゃんです。

「ねぇ、ルリちゃん、いっしょにハナサカ娘、歌おう? 今、テレビでやってるよ?」

「ああそうかい」

 みくちゃんが、ルリばあちゃんの腕を取ってさそってきます。

 斎藤さんも、ウメノさんも、ニコニコしながら二人をみています。

(どきどきハナサカ娘、か……。)

 今日あったいろんなことが、ルリばあちゃんの頭の中でぐるぐると思い出されました。

 ちょっとだけ心がざわつきましたが、引っ張られるミクちゃんの手の、やわらかい感触を感じると、ルリばあちゃんは、心がすーっと和らいで、丸くなっていくのを感じました。

「お、ホントだ、ミクちゃん、ハナサカ、やってるねぇ。おばあちゃんといっしょに、歌うかい?」

「うん!」

 ミクちゃんは、はじけんばかりの笑顔で返事をしました。

 それからルリばあちゃんは、みくちゃんと、そして園のみんなといっしょに、ハナサカ娘の歌を思いっ切り、歌いました。

 若い時のように声は出なかったけれど、とっても楽しい気分になりました。

 そうしたら、なぜだか笑いが止まらなくなりました。

「わ、ルリちゃん楽しそう。ルリちゃん、ハナサカ娘、好き?」

 ミクちゃんがきいてきました。

「うん、好きだよ。あたしは、どきどきハナサカ『娘』じゃなくて、こーんなに歳とった、どきどきハナサカ『老婆』、だけどね」

 そういって顔をくしゃくしゃにさせて笑ったルリばあちゃんは、これまでのどんなときよりも、世界で一番きれいでした。

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