:侯爵令嬢の第一歩目:
門番に見送られて勇ましくダンジョンに足を踏み入れたものの、マリアベルはすぐに立ち往生した。
当然だがあたりは真っ暗、足元も自分の手も、鼻先さえも見えない。
「壁、壁……あったわ……」
暗闇では壁伝いに移動する――と、書物で読んだ覚えがある。壁に寄りかかりながらなんとか数歩歩いたところで、ふくらはぎに『何か』が触れた。
「あぁ、っ!?」
冷たいのか熱いのか。それすら、わからなかった。
が、痛くはなかった。悲鳴をなんとか飲み込んで(本当は声が出なかった)侯爵令嬢らしく慎ましやかに小走りで走り(本当は足の力が抜けて満足に走れない)、その場から逃走を図る。当然、何度も転んでしまった。
「い……たい……」
ここまで派手に転んだのは、何年ぶりだろうか。頬に土が触れるなど、生まれて何度目の体験だろうか。数えるほどしか体験したことがない。心臓が激しく打ち、ジワリと汗がにじむ。
無意識に、胸元のペンダントを握りこむ。
「お……落ち着くのよ、マリアベル……」
しゃがみこんだまま、深呼吸を繰り返す。胸の奥で、チリチリと微かな音がしている。覚えのある感覚。これは魔法が発動する音だ。
「だめよ、使わないって決めたでしょ……」
だいたい、この状況でどんな魔法を使えばいいのかそれすらわからない。マリアベルは必死でペンダントを握りこんで魔法を鎮めた。
「お願い、出てこないで……お願い、だめよ……だめなのよ」
どのくらいそうしていただろうか。魔法が暴れることなく鎮まる気配がした。
「よかった……」
このままもう少し座っていたいが、しかしいつまでもここに座り込んでいるわけにもいかない。マリアベルはゆっくり立ち上がった。
すぐ抜けるように、と、手に剣と盾を持ったままだったが、むしろ両手は空けた方がよさそうだ。背負っている皮のカバンに剣と盾を突っ込む。収納できるか心配だったが、思いのほか入るものである。
「これで、いいわ……」
足をそろそろと踏み出した。だが――。
「きゃあああ!」
そこからほんの数歩先は落とし穴……ではなく、坂道、だったらしい。しかも、急な下り坂だ。
体が激しく左右に振られ、どこかへ滑り落ちていく。
坂道がどの程度続いているのか、どこへ続いていくのか、まったくわからない。何も見えない中、体だけがどんどん進んでいく。とんでもない恐怖である。
「止まってぇ! いや、暗い! 灯りはないの?」
とにかく灯りが欲しいと切に願う。視界が真っ暗なのは怖くて仕方がない。ついに恐怖に耐えかねたか、マリアベルの魔法が発動されてしまった。
しまった、と思ったときには遅かった。マリアベルの周囲に炎の玉がいくつも飛んでいる。無意識に炎をつかってしまった。しかしそのおかげで、着地点は見えた。平らな地面だ。勢いよく放り出されたマリアベルは、地面をごろごろと転がった。
「う、痛い……」
ドレスがすっかり汚れ、髪も乱れてしまった。が、それよりも先に、火の玉を始末しなければならない。
「お願い、火の玉、消えて! こんなにたくさん、危ないわ」
どうやって収束させるのかわからないが、必死で祈る。マリアベルの必死の願いが通じたのだろう。炎の玉が一つにまとまり、たちまちきれいな青白い球形になった。
「えっと、火の玉……前に、来てくれる?」
火の玉は、ひょこひょことマリアベルの前に移動する。どうやら意思の疎通ははかれるようだ。どうにかして先を照らせば、少し先には小さいベンチ、水飲み場らしきものがあるのが見えた。
そこまでは、平らな道が続いている。歩いていけるだろう。
「で、でも……慎重に行かないとね……」
おっかなびっくり進むため、なかなか目的地につかない。長い時間のような気もするし、短時間のような気もする。
ふと、昔読んだ書物で、木の枝で罠がないか確認しながら森を進む小人の話があったのを思い出した。
「ここに木の枝……は、見当たらないわね……」
代わりになるものは、と、考え、背中に背負ったままになっているカバンの中に剣を仕舞ったこととを思い出した。
「……これで、目の前の床を叩きながら進みましょう」
コンコンカンカンと金属音が周囲に響く。ちなみにマリアベルは知らないことだが相当に高価な剣である。職人や物の価値がわかる人が見たら卒倒する光景だろう。
それはともかく。
床に何らかの罠はないようである。無事にベンチに腰掛け、火の玉にお礼を言えば玉はスッと消えた。