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新・シクラボ短編集

シュレーディンガーの猫

作者: 澄鈴亮

だいぶ長め。

小ネタとかちりばめてます。むふふってしてください。

主人公の男の前職当てゲーム実施してます(?)

 自分は恋をしている。想い続けて何年になるかは覚えていないが、三年目までは数えていたので、少なくとも三年間は彼女にずっと恋をし続けていたんだろう。「君の隣にいればそれだけで」なんて口説き文句もあるが、むしろ自分は彼女を見られさえすればそれだけで良かった。そう、三年間ずっと(もう何年になるか分からないので十数年かもしれないが)、彼女の姿をこの目に焼き付けることしかしなかったのだ。それだけでよかった。それだけで明日を頑張ろうと思えたからだ。

 そろそろ自分の恋の相手である彼女の話をしよう。彼女は自分の住んでいるアパートとそう遠くないマンションに住んでいるようで、自分が良く行くスーパーへ買い物に出かける姿を頻繁に見かける。あえてはじめに言っておくが、自分はストーカーなどでは決してない。たまたま、そう、あくまでたまたま、彼女がそのマンションへ、例のスーパーのレジ袋を持って入っていくところを、たびたび見かけていただけだ。もちろん、マンションへ入っていくところしか見ていないので、何階の何号室に住んでいるか、なんてことまではもちん知らない。

 彼女は、見たところ自分とそう変わらない年齢の女性で、栗色の、手入れが行き届いている髪を、右肩の方へ、一本の太い三つ編みのおさげにした髪型で、見ればいつも朗らかな笑みを浮かべており、その顔は、すっとした鼻と、ややたれ気味の眉、そして常人よりは薄い唇が特徴である。よく見ると薄化粧で、見た目を気にしないように見えるが、髪と同様、肌も普段から手入れをしているのが伺える、やや白くも健康的なものだ。服装はいつも大人しめの色相で、ロングスカートを好んで着用しているようだ。厚手のストッキングで足が全く見えないために細かなところは分からないが、今まで記述した頭部のパーツから察するに、そこまできちんと手入れもしているだろう。真夏でもハイネックで袖の長いものを身につけているので、首はもちろんのこと、手は親指の付け根から上の部分……ほとんど指の部分しか見たことはないが、頬と同じく、やや白いが、うすく赤みがかった色をしている。爪は短い。少々深爪だという印象ではあるが、家事をしている女性ならば、そのくらいが妥当なのであろう。色もうすい桃色であり、形も悪くはなく、健康な爪である。

 彼女の日課は双子の小学生の見送り。平日の朝には彼らを見送る彼女の姿を見る。双子と彼女の顔立ちはとても似つかないものであるので、おそらく血縁関係はないだろう。近所のお姉さんと小学生といった関係だろうか。この双子も彼女と同じマンションに住んでいるようで、三人でマンションに入っていく様子もよく目にする。双子によく似た顔立ちの、彼らの母親と思わしき女性と、彼女が親しげに世間話をしているところも目撃したことがあるので、この情報はまず間違いはないだろう。

 つまり、だ。彼女には配偶者がいない可能性が高い。今まで見ていた情報をまとめれば、彼女は一人でいるか、双子といるか、双子の母親といるかの三択。時たま近隣の女性達と談話をしている様子を見かけるが、その頻度は前の三択と比べ、あまり高くはない。今どきの言葉でいうならば、「ワンチャンある」だろう。今からでも遅くはない。今までは、本当に、見ているだけで充分だったのだが、もう自分は見つめるだけでは満足出来なくなっていた。いつの頃からだろう。もうずっと前からのような気もするし、ごく最近からかもしれないが、彼女と結ばれる悲しい妄想をしていることを自覚した。一人暮らしの男がそうなってしまっては、もう平気で外を歩けない。必ず彼女を過剰に意識してしまう日々が続いた。こんなに長く想っているのだから、そろそろ友達からはじまっても良さそうだ、と。だが、きっかけがない。なにか話をするきっかけさえあれば、持てるコミュニケーション能力のすべてを尽くして彼女に近づこうと思案しているのだが、なかなか事はそう簡単には行かない。

 そんな訳で、彼女と話すきっかけを探しながら、ここ数日は、いつもより注意して彼女を見つめていた。そんな生活が始まってからの、ある日のことである。あまりいい天気だとは言えない、淀んだくもりの日曜日。普段なら決して出歩くことのない休日に、彼女はその姿を表した。何度もいうようだが、自分は断じてストーカーなどではない。この日もたまたま、そう、本当にたまたま、自分自身の買い物に、件のスーパーへ出掛けた帰り道で、彼女を見かけたのだ。日曜日に、それもこんな天気の良くない日に、鞄も持たずに、髪を下ろした姿で、文字通りふらふらと何処かへ行こうとする彼女を、自分は放っておけなかった。この情報ははじめてだった。何度記憶を遡ってみても、彼女がこのような行動に出たことは今の一度もなかった。一瞬、自分の熱烈な視線に気付かれてしまったのではないかとも思ったが、そのような素振りも、この頭には記録されていない。何せ、自分が彼女を見つめるのは、彼女のマンションの前を横切る、ほんの数分であったから。

 とにかく、自分はスーパーからの帰りのそのまま、彼女の跡を付けることにした。この行為は、否定しようにもできない。認めよう。この時自分は彼女を尾行していた。だが決して誤解しないで欲しい。この時だけである。本当に、この時この瞬間だけである。


***


 一時間ほど歩いただろうか。彼女が訪れたのは、マンションからも、自分のアパートからも、そう遠くはない岬だった。駅とは反対の方向へ行くから、一体どこへ出かけようというのだろうと思っていたが、なるほど、ようやく納得した。波が高いこの海を見に来たのだろう。やれやれとため息をついて、自分はまだレジ袋を持っていることに気がついた。そうか、そのまま付けてきてしまったんだなと、引き返そうとした時、はてと首をかしげた。思い出して欲しい。この日はくもりだった。天気がいいとはお世辞にも言えないような淀んだ日。こんな日の海はどうなっているだろう? とても見たいと思うような、そう、晴れの日の、太陽光が波に反射し、キラキラと輝く海ではない。むしろ、光が一切届いていない、闇に吸い込まれるような、暗い、暗い印象の海である。

 自分ははっとして彼女を振り返った。彼女は、靴を揃え、岬の柵を超えようとしているところだった。

 そこからは一瞬だった。

「待って!」

 自分は叫び、今日からの夕飯用に買い足した食料品の入ったレジ袋を放り投げ、そのまま彼女の方へ駆けていた。夢中だった。帰ろうとした自分と飛び降りようとした彼女の距離はそう遠くはなかったため、すぐに捕まえることが出来た。柵に足をかけた彼女を、自分は走ってきたそのままの勢いで、後ろから腕ごと抱きしめ、彼女を柵から引き剥がすように後ろへ仰け反ると、力の加減を間違えてしまったためにそのまま尻餅を付いた。冷たいアスファルトの地面を叩く大きな音がしたはずだが、高波の音に飲まれて響きはしなかった。

「うぅ……」

 痛みはあったが、大したものではない。強く打ちはしたが、それほどでどうにかなってしまう鍛え方はしていないので、日々の筋トレも無駄ではなかったようだ。

「彼女は!」

 はっとして、抱えている、柔らかく暖かなものを見下ろした。大人しい。ピクリとも動かない。長い髪で顔は良く見えない。そういえば今日は珍しく髪を下ろしたまま家を出ていたなと思い出して、自分はその髪を分けて、彼女の顔を見た。……美しい。遠目で見るものと、また違う印象を受けた。どうやら今日は薄化粧どころか、何もしないでいたようだ。やや白い肌には化粧品のそれは全くと言っていいほど付着していない。目は閉じている。口に手を持っていくと、わずかに吐息が感じられる。ただ眠っているだけのようだ。

 どうしよう。

 しばらく考えた後、風が強く、陽も差していない、潮風がしみるここでは、冷えてしまうだろうと思い、散乱してしまった食品をレジ袋に集め、彼女を背負って帰路についた。彼女の部屋も分からないし、鍵も何処にあるのか分からない。迷った末に彼女を自分のアパートへ連れ込むことにした。


***


「あ、えっと、大丈夫、ですか?」

 彼女の目が開いたようなので、とりあえず掛けてみた一声がこれだ。

 あの後、そのまま来た通りと同じ道を通ってアパートへ帰った。日曜日の午後、天気が良くないこともあって、人通りも少なく、別段目立つこともなく(大人の女性を背負っているというのに)、無事に部屋へ連れ込むことに成功した。風邪をひいてしまうといけないからと思い、自分の布団を引っ張り出して、彼女をそこへ寝かしつけた。男臭いのは我慢してもらうしかないななどと考えながら、心の中では「こんなものしかなくて申し訳ない」と謝罪した。自分はレジ袋の中身を棚や冷蔵庫へしまうと、狭い部屋の中で、眠っている彼女の隣に座った。特にやることもなかった。ただぼうっとして、彼女が目を覚ますのを待っていた。元々人付き合いは良い方ではなく、近隣に親しい人もいる訳ではなかったので、突然の来訪者などというトラブルには見舞われずに今に至った。

「ここは……?」

「え、ええと、じじ自分、の、部屋です……。えと、あ、あなたが、飛び降り、ようと、していた……ので……驚いて。そ、それで……」

「あぁ……それは……。ご迷惑をおかけしてしまいましたね。すみません」

 起き上がって、自分の顔を見た彼女は、自分の言葉を聞くと、困ったように眉をひそめて頭を下げた。いえ、いいんです、お気になさらず。そう言って慌てて顔を上げてもらった。彼女と会話をしている。夢にまで見た場面だ。文字通り天にも昇るような思いだったが、なんとか押し留めて会話を続けた。

「え、えと、し、しばらく、休んで、いて……ください……えぇと、あ、あぁ、そうだ、なにか、なにか、作りま、す」

「そんな、すみません。何から何まで……私、そこまでお世話になるわけには」

「い、いい、いいん、です。いいん……です。自分が、勝手……に、連れ込んだ、のです、から……」

 半ば強引に彼女を横にさせると、自分は台所に立った。言ったはいいものの、何を作るべきだろうか。自分は家事があまり得意ではない。つい先程買ってきた食品にしても、食材と言うよりはレトルト食品ばかりだ。仕事がある日は朝から晩まで。それ以外は寝ていたいので、あまりに手間のかかるようなものは作った試しがない。ふと彼女の方を振り返る。今日最初に見かけた時と、相も変わらずぼうっとしており、心ここにあらずといった様子だ。髪を下ろして化粧もせず、ふらふらと一時間も歩いた挙句、向かった先は死。……きっと、疲れているに違いない。ならば、と自分は米を研ぐ。粥ならきっと食べられるだろう。薄く味をつけた粥を、乾かしてあった椀に盛ると、スプーンを添えて彼女の横たわる布団の横にある、小さな丸机の上に置いた。

「……で、出来ました、よ。お粥、なら、食べ、られそう、で……しょうか、ね……?」

 そう言いながら自分は彼女が起き上がるのを手伝った。布団の中で温まっていただけあって、あの時抱きしめたときより温もりを感じられた。ほっと安心した。

「すみません……。頂きますね」

 そう言って笑った顔は、自分がよく見ていたあの顔だった。双子やその母親と談話している時に見せる、上品な笑顔。元々朗らかな表情が、よりふんわりとして見えた。それとは別に、化粧をしていない白い肌と、適当に下ろされた長い髪のせいで、病的な美しさも感じられた。これはいけない。自分はとっさに顔を背けた。急な奇行に彼女は驚いただろうかと、横目でちらりと見たが、彼女は異様なものを見るような目でもなく、ただ不思議そうに自分を見つめ、少し首を傾けただけだった。変人慣れしているらしい。ひとまず安心すると、何でもなかったかのように、粥を置いた丸机を彼女の布団の側へ寄せた。床に座って丁度いいような低い机なので、彼女が布団に居たままでも食べられそうだった。ちなみに、自分も冬はこうして同じように食べることが多々ある。この部屋には炬燵が無いからだ。

 まだ出来たてで、湯気の立っている粥は、やはり熱いらしく、ふうふうと念入りに冷ましてから、彼女はスプーンを口へ運んだ。

「ふふ」

 粥を口に入れた瞬間に、彼女は口を抑えて笑った。

「え、えっと、お口に、合い、ません、で、した、か……?」

 慌ててそう訊ねると、いえ、すみません。そうではなくて……ふふ。と、彼女はまた可笑しそうに笑った。

「とても美味しいです。私のために……ありがとうございます」

「そ、そです、か……。よかった……」

 彼女が本当に嬉しそうに笑ったので、自分はひとまずほっと息をついた。まだ熱そうにふうふうと懸命に息を吹きかける彼女は、当初想像していた年齢よりずっと幼く、とても可愛らしく見えた。自分も笑いそうになったが、変に堪えようとしてしまったために、きっと不自然な誤魔化し方になってしまったのだろう。彼女はまた自分を見つめて、しかし柔らかく微笑んだ。「私の好きな味です」そう言って、また笑った。

 今日あの曇り空の下で、荒れる海に身を投げようとしていた彼女とは、どう見ても別人に見えた。あれはきっと見間違いだったのだろう。そうに違いない。そう思おうとしたのだが、優しくも病的な印象を受ける今の彼女を見て、やはりあの女性はこの人だったのだと思い直してしまう。しかし、今幸せそうに粥を頬張る彼女に、そんなことを聞けるほどの度胸も無ければ、余裕も無かった。彼女と共に、閉ざされた同じ空間にいる。連れてきたのは自分自身なのだが、それが事実なのだとなかなか飲み込めずにいたのだ。

「ご馳走様でした」

 考え込んでいるうちに彼女は食べ終わっていたようだ。椀を机に置き、しっかりと手を合わせた。そっと横目で中を見れば、なるほど綺麗に平らげている。食欲には問題がなさそうだ。

「本当になんとお礼を言ったらいいか……。ありがとうございます」

「い、いいえ、あの、じ、じぶ、んの、……勝手な、おお節介、です、から……」

「ふふ。親切な方に出逢えて良かったです。美味しいお粥もご馳走になってしまいましたし」

「じ、自分、なん、か……」

 これ以上側にはいられないなと思い、自分はそっと椀とスプーンを持って、再び台所へ立った。今度は食器を洗うためだ。しゃこしゃこ、と泡を立てながら、今後のことを考えた。

 台所にある窓からは、もう外からの光は全く入って来ていなかった。ただでさえ曇りであった空は、もうすっかり暗くなっていた。本来ならばもっと早くに彼女をマンションへ送るべきだったのだろうが、如何せん彼女をこの部屋に連れてきてしまったのも、彼女の目が覚めたのも、大分遅い時間だったのだ。今夜は泊まってもらうしかないな……と、そう思って、自分は不自然のないように洗い物を済ませると、すぐに彼女に向き合った。

「あ、あの」

「はい?」

 自分が話しかけるまで、彼女はぼうっと何処かを見つめていた。その時の彼女は、言うまでもなく、フラフラと海に身を投げようとした時の彼女その人だった。

「ここ、こ今夜は、その、ぁ、えともう、く、暗い……で、すし……泊まって、いかれ、ては……」

「あぁ……本当ですね……。すみません。お言葉に甘えさせてもらうことにします」

 彼女はきょとんとしていたが、自分の部屋の大きな窓に気がついて、外の闇を確認すると、納得したように頷いて微笑みかけてきた。顔の筋肉が緩むのを抑えながら、彼女にこの小さなアパートの自分の部屋を教えた。あそこの扉を開けると玄関が見えます。左は洗面所。奥にお風呂場も。シャワーは好きな時に使ってもらって構いません。トイレは廊下を挟んで反対側にあります。部屋の中で一番広いここが居間で、寝室です。普段はこの布団で寝ていますが……今日はあなたが使ってください。疲れているでしょうから……。向こうには台所があります。散らかっているので、後で掃除しておきますね。その後は、冷蔵庫の中も、好きに使ってもらって構いません。ああ、冷蔵庫の中の右の棚に飲料水があります。コップや食器は全て隣の棚にしまってありますから。そうだ、シャワーを浴びる時は言ってください。まだ開けてないシャツがあったはずですから……。

 一気に全部説明すると、流石に疲れたのでふうと息をつく。今日ほど口を動かした日は、今まで生きてきた人生の中でも無いだろう。元々上手く話すことが出来ない自分は、人と話をすることを極力避けてきた。発する言葉は発音しやすいもの、出来れば単語、不自然のない程度の短い言葉、落ち着いてゆっくり口を動かすこと。何かを話す時にはいつも頭で繰り返す。結局全てダメで、しっかり話せたことなど一度も無いのだが。

 本当なら、こんな変な話し方をする自分に対して、最初に、相手は誰しも怪訝そうな顔をするものだが、彼女は違った。その笑顔を何処も崩さず、自分の言葉を待って、うんうんと頷きながら聞いてくれた。いつも見ていたので、物腰の柔らかい、優しい人なのだろうとは思っていたが、このような人間まで温かく受け入れてくれるとは思っていなかった。しかし、驚くと同時に、自分は安心した。彼女に受け入れて貰えたことが、純粋に嬉しかったのだ。「気持ち悪い」と、拒絶される事だって、何度もあったのだから。

 早速ですが、と断りを入れて、彼女はシャワーを所望した。潮風で少しベタついてしまったのが気になったのだろうか。不快な思いはさせたくなかったので、もちろん自分は二つ返事で承諾し、彼女が風呂場に入った後、タンスの中を探って、まだ開けてないシャツとジーンズを引っ張り出した。

「着替え、置いて、お、きま、すね……」

「わざわざありがとうございます」

「い、いえ……。お湯は、どう……で、すか?」

「とても気持ちいいです。こんなに良くしてくださって、本当に……。しばらく貸して頂きますね」

「もももちろん、ご、ゆっくり……」

 水の音と、くぐもった声を聞きながら、自分は頭を振って、引っ張り出した服をしまいに向かった。彼女がシャワーを浴びている間に部屋を片付けてしまおう。幸い、ほとんどを食事と睡眠にしか費やしていない部屋は、散らかっているわけでもなく、そこそこ綺麗だと言える部屋だったので、大して苦労することなく片付いた。台所も大まかに掃除して、酷く殺風景だった部屋は、ますます寂しくなってしまったように思えた。

 雑魚寝するために、予備の毛布を探し当てて、座布団を枕代わりにしようと畳み終えたところで、彼女は現れた。

「ありがとうございました。お蔭様でさっぱりしましたよ。ふふ」

「そ、れは、よか、た……です」

「あぁ……貴方のお布団を奪ってしまったみたいで……。すみません」

 自分が座布団を押し付けているのを見て、彼女は眉を下げた。いえいえ、お気になさらず。とは返したものの、彼女は申し訳なさそうにしていた。

 濡れた髪を、ぺたんと座り込んで拭いている彼女は、もちろんさっき自分が出した服を身にまとっていた。当然サイズは自分用のもの。大分大きな服に身を包んでいるので、相変わらず指の先しか見えなかったが、襟首のシャツは、いつも見えない彼女の首が見えた。白い。着ているシャツと同じ白さだった。包帯だ。

「……」

 それは、とは聞かなかった。気になったが、聞けなかった。自殺しようとしていた女性が、首に包帯を巻いている。普段見えない手首も、きっとそういう事なのだろう。怪我ではない。自分で。故意だろう。自傷癖? なぜ? どうして? 何がそうさせたのか? 何を抱えているのか? 聞きたいことは頭の中をぐるぐると回っていたが、口を動かす行為が苦手な自分は、それらのどの音も出てこなかった。


***


 痛む身体を抑えながら、カーテンの僅かな隙間から覗く朝日に目を覚ました。ろくに対策も取らないで雑魚寝などするものではない。お陰であちこちが痛む。昨日の自分に酷く腹を立てながら、真っ先に自分は彼女のいる布団を気にかけた。まだ眠っている。すうすうと気持ちよさそうに吐息をたて、布団にくるまって眠っていた。これはまだ起きそうにない。やはり疲れていたのだろう、彼女は昨日本当にすぐに夢の中へ入っていったようだった。自分は彼女が眠ったのを確認してから眠りについた……はずなのだが、痛くて眠れたものではなかった。

 無理やり起こすのも可哀想なので、自分は適当に朝食を済ませ、いつものように支度をした。今日は月曜日。自分は仕事だ。彼女は見ていた限りでは仕事をせず、専業主婦のようであったが、内職などはしているのだろうか。自分にはどうしようもないことなので、ひとまず彼女の仕事のことは置いておいて、出勤することにした。玄関まで行ってから、そっと彼女を振り返る。まだ寝ているようだ。家を出た後、少し迷ったが、鍵は掛けなかった。

 自分が勤めるのは一日中パソコンと向き合う事務仕事だ。会話が苦手な自分にとってはまあまあ良い仕事だと言えるだろう。

「よぉ旦那。ちょっとツラ貸せよ」

 足を踏み入れた途端、詰め寄ってきたのは、自分の同僚だ。同僚、と言っても、同じ時期に入社しただけの関係であって、歳も違えば性別も性格も違う、何もかもが自分と違う人間だ。

「……なんだ」

 少し眉を潜めて問うと、彼女はにっと笑ってまあまあ、と自分の肩に手を置いた。

「あんたと話したいことがあってよ、ああ、まあ本当につまんねえことだけどよ、でも意地でも聞いてもらいたいんだわ」

「荷物置いてからでいいか」

「いいぜ、じゃ喫煙所で待ってっから」

 自分がまともに話せるのは彼女の前だけであろう。不思議と彼女の前では、口がうまく動く。出会ってから一度も言葉に詰まったことが無かった。話す練習だと思って、やたらと彼女と話していた時期もあったが、彼女以外の人と話す時は同じだったので、今はそこまで親しくはしていない。しかし彼女の方は、どうも自分を気に入ってくれたようで、時々こうして話をしようと誘ってくれることがある。

 言われた通り喫煙所へ行くと、彼女は椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。彼女は煙草を吸わない人間だが、「椅子が他にないから」ここを憩いの場にしているのだという。

「よぉ旦那」

 先ほど聞いたばかりの挨拶をして、彼女は自分を出迎えた。自分は彼女の向かいの椅子に座った。喫煙所は苦手だ。自分の嫌いな匂いが充満している。しかし、彼女と話すのは嫌いではなかった。

「話したいことは?」

「それがよぉ」

 彼女はコーヒーの缶を隣において、前に屈む。なんとなく何の話かは分かっていた。

「今日も朝から彼氏ちゃんが可愛くてよ」

「またその話か」

「そんな顔すんなよ。惚気ける相手なんて旦那しかいねえんだって。ほら、なんつーか、あんたは聞き役って感じするだろ? 俺はお喋りだからさ、そういう人間に話するの好きな訳よ。ただ相打ち打つんじゃなくて、ちゃんと話を聞く人間。それが聞き役。そいつがあんただ」

「いや。そんなつもりは無いが。……彼氏がどうした?」

「そこそこ! そこなんだよ。あんた本当重宝されるだろ? ちゃんと気にしてくれてんだなって分かんだよ。まあ置いといてだな、本当に彼氏ちゃんが可愛くてな……」

 彼女が交際相手の話をし出したので、そのまま聞き流すことにする。さして興味はないうえ、延々と惚気話を聞かされるのはなかなかに酷というものだ。しかし、先ほど言ったように、この時間は嫌いではない。彼氏の話をする彼女はとても楽しそうで、その顔は自分の前でしかしない。彼女の楽しそうな顔が、自分は好きだった。

「なあ」

「んあ?」

 ふと、彼女に聞きたいことがあって、声をかけた。彼女の惚気話など全く聞いていなかったが、丁度話の切れ目だったらしく、自然な感じでまた会話が始まった。

「ある日……突然、死のうとする。これは、どういうことだ?」

「は? 何の話だよ? 人間か?」

「あぁいや、その……。……猫だ」

「猫ぉ? あんた猫飼ってたのか?」

「フラフラと……崖から落ちようとしていた」

「あぶねーな……。猫もそんなことすんだな。俺は猫じゃねぇからよく分かんねえが……何か嫌なことでもあったんだろ」

「嫌なこと……」

「今はどうしてんだ? 旦那ん家いんのか」

「ああ、出勤する時は寝ていた……。飯は普通に食った。嫌なことがあったとは……思えない」

「ふうん……。動物のことじゃ俺よりあんたの方が詳しいからなあ……なんとも言えねえわ」

「そうか……すまん」

 つい口に出てしまったこととはいえ、やはり話すべきではなかった、と後悔した。それにしても猫だなんて、苦し紛れの嘘を吐いたものだ。あの婦人は紛れもなく人間なのに。

「守ってやれよ」

 唐突に、彼女がそう言った。

「猫。ほっといたらまた死にに行きそうな気がするぜ」

 自分が眉をひそめると、続けてそう言い捨て、そろそろ戻るわ、と喫煙所を出ていった。空になったコーヒーの缶だけが、目の前に残された。自分は、今頃彼女は何をしているだろうかと考えながら、煙草の臭いがる狭い箱の中で、ぼんやりとしていた。


***


 珍しく仕事が終わらなかったため、今日は少しだけ残業をした。明日にはまた別の案件があったために、どうしても今日中に終わらせたかったのだ。しかし、仕事が終わらなかったのはそのせいではない。調子の良い同僚は、定時に帰るために、わざわざ自分のパソコンに仕事のデータを送り付けてきたのだ。「今度メシ奢るから、今日はカンベンな!」というメッセージが付いた添付データと、何時間格闘したことか。残業の全てを同僚の尻拭いに費やした自分は、終わったデータを乱暴に奴のパソコンへ転送して、「肉以外は許さない」と入力したメモデータを付けた。焼肉だ。奴の金で食う焼肉はそれは旨いに違いない。いつもでは手が出ないような肉を食ってやろう。そんなことを考えながらアパートの階段を登る。廊下を歩いている時、自分の部屋から灯りが漏れていることに気がついた。一瞬、電気を消し忘れたのかと思ったが、そうだ、と思い出す。結局、昨日の彼女は、家まで送らず終いだったのだ。しかし、何故だろう。鍵は開けておいたはずだ。出ようと思えば外に出られたのではないだろうか。何故家に帰らずに、まだ自分の帰りを待っているのだろう? いや、電気の消し忘れだ。彼女は家に帰ったに違いない。様々なことを考えながら、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。ガチャリと扉が開く。家賃の安さだけに惹かれて借りたこのアパートは、とても古いもので、見た目こそ悪くは無いものの、やはり色々なところが傷んでいる。ギイと大きな音を立てて、扉が開いた。明るかった。

「おかえりなさい」

 自分を出迎えたのは、ふた周りも大きなシャツに身を包んだ、昨日の彼女だった。今日は栗色の髪がいつものように三つ編みにされている。

「ただ……いま……」

 まだいることまでは予想していたが、まさか出迎えられるとは思っていなかったので、驚きのあまりしばらく立ち尽くしていた。

「ご飯、食べましょう?」

「え、ぁ……」

 言われて気がついた。先ほどからいい匂いがしていた。これは……夕食の匂い。子供の頃、散々外で遊んでから帰宅すると、母が夕食を作っている香りが出迎えてくれた。あの懐かしい匂いだ。心が温かくなる。

 自分ははっとして、慌てて靴を脱ぐとそのまま彼女に連れられるように部屋へ入った。あの丸机……昨日彼女が粥を頬張った場所には、二人分の夕食が用意されていた。……二人分? どうして? そんな疑問が浮かんで、ふと彼女の顔を見やる。彼女は、自分の驚いた顔に、満足そうに微笑んだ。なんとなく気まずくなって、自分は鞄を下ろして、そのまま腰掛けた。すると彼女は上機嫌に反対側の、もう一人分の夕食の目の前にちょこんと正座をした。

「……あ、ああ、あの」

 同僚と話していた時とは明らかに違う、情けない声で喉を震わせた。やはり自分が普通に話せるのは奴しかいないようだ。いや、彼女に嫌われまいと、好かれようと必死な為に、余計に気を張っているからやもしれない。

「はい?」

 今まさに手を合わせて夕食を摂ろうとしていた彼女は、震える声に耳を傾けた。

「そ、その」

「はい」

「ど、どう、して……」

「夕食を、ですか?」

「そ、そ、そそそれも、です、けれど……。か、鍵、は、開いて……」

「ああ、大した事ではありませんよ。ただ起きたらあなたが居なくて、黙って出ていけと言わんばかりにドアが開いていて……。恩返しくらい、させてくださいな」

 困ったように笑って、彼女は自分を見つめた。ああ、この人はいい人だ。心根が綺麗なのだと思った。厚かましくも、こんな人に好かれようと必死な自分に嫌気が差した。

 部屋を見れば、洗濯物まで干されているではないか! 「勝手をしまってすみません……。そこまでいじってはいないですから……」自分の様子を見ていた彼女が申し訳なさそうに頭を下げた。いえそんな、わざわざここまで、ありがとうございます。お礼には十分すぎるほどだ。目の前に用意されている夕食にしたって、そうだ。いつものレトルト食品ではない。おそらく冷蔵庫にあるものでアイデア料理をしてくれたのだろう。元々の食材が貧相なので、豪華とは言えないが、それにしたって、あの粗末な冷蔵庫の中身から、よくこんな物が作れたものだ。食べずにいるのは作った彼女に失礼だと思い、自分はいただきますと手を合わせて、彼女の料理をつまんだ。

「……おいしい」

「あっ! そ、そうですか? 良かった……。ふふ、昨日のお粥もとっても美味しかったので、負けないように頑張ってみたんです」

「えあ、……おい、しいです、とても……。温かく、て、……おいしい」

 語彙力の無さが身に染みる。これ以上言葉で表すことは不可能なので、自分は黙ってぱくぱくと箸を動かした。彼女と会話出来ただけでも嬉しかったのに、こうして彼女の手料理が食べられるなど、夢にも思っていなかった。無言で食べ続ける自分を、彼女は嬉しそうににこにこしながら、自分も料理を口にした。納得のいく出来だったのか、満足そうにうんうんと頷いて、またにこりと笑った。

 夕食を終えると、昨日のようにシャワーを浴びて、彼女を布団に寝かしつけた。片付けくらいはしますから、と言って、先に休んでもらったのだ。

 「帰る」という発想が、自分はこの時まで思い浮かばなかった。そういった話題を彼女が出さなかったからだ。彼女は昨日と違って、食事中によく話しかけてくれた。自分の年齢、自分の仕事のこと、自分の昔の話……。尋ねられる度にどぎまぎしてしまって、上手くは返せなかったが、それでも、彼女はゆっくり自分の言葉を待ってくれて、うんうんと頷いてくれた。自分のことをこんなに話したのは生まれて初めてだった。ここまで丁寧に自分の話を聞いてくれたのは、彼女が初めてだったからだ。話しかけるのが苦手な自分は、結局同じような質問を彼女には返せなかった。彼女のことは、昨日と同様、何も聞けずじまいだった。

「はぁ……」

 ため息が漏れた。自分の口からだった。そう言えば今日は残業で疲れていたのだった。すうすうと吐息が聞こえる。自分ももう休もうと布団を広げた。昨日の反省を活かして、座布団の上に寝ることにした。めったに使っていなかったので、少しほこりっぽいが、眠ってしまえば気にならないだろう。昨日と違ってふかふかな地面に横たわり、自分は目を瞑った。

 彼女とたくさん話して、笑いあう夢を見た。

 幸せだと思った。


***


 目を覚ますと、やはり彼女はまだ眠っていたので、音を立てないように気をつけながら支度を済ませ、家を出た。少し悩んだが、やはり今日も鍵は開けて行った。

 同僚は休みだった。自分がまだ残業をしている間に、定時に帰った上司が連絡を受けたらしい。珍しいなと思ったが、特に何も気にしなかった。彼女はあまり休みを取らないが、取る時は急だ。それも滅多には無いのだが……。やはり突然休まれると、ノルマが終わらなくて困る。今日も残業かな、と思いながら自分のデスクに腰掛ける。いつもより静かだったので、今日から始まった新しい仕事の作業は、随分と捗った。今日は定時に帰ることができそうだ。

 帰宅時間になったころ、ちょうど仕事もキリの良いところで終わった。次の仕事が来るまでは大分時間があるので、無理せずゆっくり進めていこう。まだ外は明るい。これなら彼女を家まで送る時間はあるだろう。流石に何時までも自分の家に置いておくことは出来ないことは分かっていた。自分はともかく、彼女には家族もいるだろう。これがきっかけになって話せるようになるなら、こんなに喜ばしいことは無いではないか。

 昨日は定時に帰れなかったので、早く帰宅する自分を見て驚かないだろうかと少し心配をしたが、普通の会社はこの時間が妥当だ。たまたま昨日が残業だったと伝えればいい。さり気なく彼女の家にもお邪魔したいなどという邪念を懸命に追い払って、自分は真っ直ぐ彼女がまだ居るであろう部屋へ向かった。昨日と同じように、灯りが漏れていた。まだそこまで暗くはなっていないものの、ほんのりと薄汚い廊下を照らす灯火は、どこか安心するような温かい光だった。ドアノブに手をかければ、ギイと開く。やはり昨日と同様、鍵は開いていた。彼女がそのままにしていたのだ。小さな声で「ただいま」と呟く。彼女は出てこなかった。ああそうか、彼女はもう帰ったのかな。流石に二日も続いて他所の家に留まっているほど、馬鹿ではないだろう。何処か期待をしていた。そう、正直に言えば、期待をしてしまっていたのだ。おこがましくも、こんな社会不適合者の、自分が。わざとらしく大きなため息を吐いた。自分の意思ではないが、意識してないだけで、これが本音なのだろう。あからさまに落胆したように肩を落として、ずるずると部屋へ入る。

 はじめに、ぽつんと置いてある今日の夕食であろうものに目がいった。はて、これはなんだろうか。おそらく彼女の置き土産だろう。なんて優しい人なんだろうと思った。丁寧にラップがかけてあるそれは、大分前に作っておいたのだろう、冷めきってしまっていたが、それでも自分の心を温めるのには充分だった。彼女は居なくなっても自分のことを考えてくれていたのだ。彼女が居なくなったあとの、独身男の寂しい夜を。少し気分が晴れやかになった自分は、鞄を下ろして食事の目の前に座った。そこでやっと、「それ」の存在に気がついた。

 「それ」は、なんともこの世に相応しくないような雰囲気を漂わせていた。いや、ぱっと見ればごく普通の封筒だ。真っ白な封筒。だけれども、その空間だけが切り取られ、そこだけがぽつんと亜空間のようになっているような違和感が、「それ」にはあった。しばらく「それ」を見つめていた自分は、さっきまでの柔らかな心地とはうってかわって、おぞましい嫌悪感に襲われた。知れ、見ろと言わんばかりにそこに存在している「それ」に対して、拒絶の意思を持っていた。知りたくない。見たくない。しかし、おそらく彼女が残したものだ。この殺風景で何も無い自分の家に、好んで空き巣が入るわけがない。本当に何も無いのだから。恐る恐る「それ」を手に取り、封を開けた。一枚だけ紙が入っていた。彼女が書いたであろう手紙だった。

「お世話になりました。ごめんなさい、さようなら」

 失礼だが、女性の字……しかも、あんなに丁寧で心優しい彼女が書いたとは思えない乱雑な字で、たったそれだけが書かれていた。

 「ごめんなさい」?

 彼女は一体何に対して謝っているのだろう。彼女を無理やりここへ連れてきたのは自分だ。勝手なことをして申し訳ないと思っている。むしろ謝るのは彼女ではなく自分の方だろう。

「お世話になりました。ごめんなさい、さようなら」

 口に出して読んでみると、それが禁忌の呪文のように聞こえた。忌々しい言葉だと思った。ただの置き手紙に、何故こんなにも嫌悪を抱くのだろう? 耳がおかしいのかと自分の右手を右耳に添えた時だった。水の音が聞こえた。はっとして振り向く。シャワーの音だ。入ってきた時には特に気にしなかったが、先ほどからずっとシャワーの音がしている。すぐに立って、自分は風呂場の方を覗いてみた。暗い。しかし、確かに水の音がする。

「……あの」

 コンコンとスリガラスを叩いてみた。返事は無い。

「もしもし」

 今度は力を込めて、はっきりと音が聞こえるように叩いてみた。返事は無い。シャワーの水の音だけが、狭い部屋の中に響いている。彼女は中にいるのだろうか。あんな気味の悪いものを残して出ていくような人間だっただろうか。いや、彼女がどんな人間だったかなんて、自分には語れない。自分は彼女のことを、何一つ知らないのだから。そう、あの時どうして、崖から飛び降りようとしていたのかさえも。

 ……崖から飛び降りる?

 待ってくれ。彼女は、あの時彼女は、何をしようとしていたんだ? そうだ、彼女は、あの時、あの場所で。

「いけない!!」

 バンと勢いよく扉を開けた。そこに彼女はいた。

 左の手首から血を流して。


***


「よくあったよ、そういうの。そのために生きてるみたいなところ、あったし」

「そう……」

「でもね、でもね、わざとじゃないの。言ってたよお姉さん。『こんなことしたい訳じゃないの』って」

 傍から見れば、攫ってきた小学生に逆に言いなりになっている誘拐犯だろう。それ以外の何者にも見えないなと思った。時々不審そうにこちらを見る人たちに、彼らが「この人近所のお兄さんなの」と平然と言ってくれなかったら、今頃自分は牢の中にいるに違いない。

 話せば長くなるのだが、順を追って説明しようと思う。まず、あの日、自分が瀕死の彼女を見つけたあの後すぐに、自分は病院に連絡を入れた。このすぐ近くの病院には知り合いがたくさんいるので、まず信用出来るところに彼女を預けようと思ったのだ。電話を切ってすぐさま傷の手当をした。出血が多い上に、シャワーで血を流していたために傷が塞がっていなかった。自分でも呆れるほどの器具がまだここにはあったので、それらを使って止血だけした。しばらくは大丈夫だと確認してから、自分は彼女を抱えて先ほど連絡をした病院に向かったという訳だ。そこからの手続きやら何やらは特に重要でもない上に面倒なので省くが、彼女の処置が終わったことを確認して、今度は会社に休みの連絡をした。今まで真面目に働いていたおかげで何も問題は無かった。突然休むことがある同僚がいるから、きっとその辺りの対応も慣れているのだろう。休みを取って、今日、向かった先は、彼女のマンションだった。彼女がどの部屋に住んでいるのかは全く分からなかったので、マンションから出てくる人に彼女のことを聞いて回った。言うまでもなく不審がられ、危うく通報されそうになったところに現れたのが、今、美味しそうに苺のパフェを頬張っている双子の小学生だった、というわけだ。

「今日開校記念日でよかったね、お兄さん」

「ぼくたちが通りかからなかったらどうするつもりだったの?」

「え、と……」

「いいよいいよ、ゆっくりおはなししよう。ぼくおはなし聞くの好きだから、のんびりでもだいじょうぶ」

「幸い時間もまだあるし。これから二人で遊びに行くところだったけど、お姉さんのこと気になる」

「あ、あり、がと……」

「いいんだよお兄さん。ぼくら、おたがいの次にお姉さんが大好きなんだ。お兄さんもお姉さんのことが好きなの、すっごくうれしい!」

 頬にクリームを付けたまま、にっこりと笑ったのは弟くん。お兄さんの方は、無表情で少しずつスプーンを口に運んでいる。遠目だと見分けも付かないくらいにそっくりに見えたが、二人は案外区別がつく。性格も正反対の様だった。

 二人は、彼女はお隣さんだということ、彼女と話すことが自分たちの仕事であること、彼女は一人暮らしであること、家族がいるのかは分からないこと、料理がとても得意なのでよくおやつやご飯を作ってもらっていることなど、色々なことを教えてくれた。それから、彼女が死のうとするのはよくあることだ、とも。

「日課というか、悪い癖なんだよ」

 お兄さんの方が言った。

「あれはきっと僕らの年くらいからずっとそうしてきたんだろうね。心配して欲しいわけでも、構って欲しいわけでもないんだよ。ただただ死にたい。それだけだと思う」

 僕にはよく分かる、と小さな声で一言付け加えた。彼の左腕のリストバンド。きっとそういうことなのだろう。自分の視線に気づいたのか、お兄さんは少しだけ俯いてリストバンドに手を触れる。「最近は平気」心配させまいとしたのだろうか、耳を澄まさないと聞こえないくらいの声で、そう言った。

「ほとんど衝動的な……まあ発作みたいなものさ」

「このこと知ってるの、今までぼくら二人だけだったんだよ。お姉さんはあんまり話したくないみたいだったから」

「僕らもお兄さんと同じような経緯で知ったんだ。まあお兄さんと違うのは、このことをお姉さんの口から直接聞いたってところなんだけど」

 またパフェを食べ始めたお兄さんは、弟くんが既に食べ終えているのを横目で見て、呆れたような顔をしていた。弟くんの方は、満足そうな笑みを浮かべている。これ以上甘味を強請られる心配はなさそうだ。

「お姉さんのこと、ちゃんと好きなら」

「しっかり聞いた方がいい。大切なら、向き合うべきだ。僕らはそうした」

 弟くんが前置きをしてから、お兄さんがそう言った。これは、自分の恋心を知った上で、彼らなりに応援しようとしてくれているのだろう。「お兄さんだからだよ」なんて照れるようなことも言ってくれたが、どうして自分なのかはまだ分からない。彼女のことを、自分は、しっかり支えてあげられるのだろうか。悲しいことに、自分でも自分はそんな大層な人間だとは思えない。

「……ありがとう」

 だが、頑張ってみようと思った。それだけで、なんだか素晴らしいことをしたような気分になった。自分の言葉を聞いた双子は、二人して満足そうに頷いた後、声を揃えて「ごちそうさま」と手を合わせた。そして、今度は彼女に会いたいと強請った。


***


 病院まで連れて来たは良いものの、彼女の病室に入る前に、自分は追い出されてしまった。そろそろ彼女も目が覚める頃だと思っていた。まだ他人の領域を越えていない自分が居たところで、邪魔になるだけだろうことは分かっていた。彼女を助けたのにと、少し複雑な気持ちになりながらも、潔く双子に従う事にした。その方が、彼女のためにもなる様な気がしたのだ。そういう訳で、自分は病院の一階ロビーで待っていた。特に何をするまでもなく、ただ椅子に腰掛けていた。平日と言えど、この病院はそこそこの規模であるため、それは多くの人々で賑わっていた。賑わっていたとは言っても、もちろん明るい意味ではない。ここは病院だ。知り合いに出くわすことは避けたかったので、出来るだけ目立たない、奥の、端の椅子で顔を伏せていた。三人は今頃どんな話をしているのだろうか。そんな事を考えながら、この忙しなく居心地の悪い空間に耐えていた。

「あれ、旦那?」

 手が、自然と耳を塞ごうとしていたことに初めて気がついた。意識を呼び戻した声に聞き覚えがあったので、すぐに顔を上げた。

「どうしたんだ? 風邪でもひいたか」

「お前……今日も……」

「んあ、悪い。彼氏ちゃんがちと調子悪くしちまってよ」

「ああ……」

 思った通り、声の主はあの同僚だった。彼女と交際相手は大分年が離れているそうで、その上彼は病弱で入退院を繰り返しているそうだ。昨日といい今日といい、突然の休みはこのためなのだろう。

「もう平気なのか?」

「ん、平気。しばらく様子見るってよ。だから、明日からはまた出勤だぜ」

 心配かけたな、と自分の肩を叩いて、彼女は隣に腰掛けた。

「それより旦那はどうしたんだ? あんた病院大ッ嫌いだったろ」

「ああ……」

「なあ旦那」

「……」

「猫、無事か?」

 彼女の顔を見た。無表情だ。何故今あの話をするのだろう? 突然動かなくなったパソコンのようにしていると、彼女はまた肩を叩いてきた。

「猫だよ、猫。前話したろ。もう忘れちまったのか? 珍しくあんたが振ってきた話題だろ」

「ああ……」

「……なあ旦那、大事にしてやれよ。本当に好きならそうと伝えるべきだ。あんたはただでさえ他人とコミュニケーションが取れないんだから、尚更相手には全く伝わらないぞ。あんたはあんたの考えてることを、もっと積極的に言っていくべきだ。多少言葉に詰まったって、あんたが選んだのなら、ちゃんと最後まで聞いてくれるだろ? 案外待ってるかもしれねえぞ。あんたと同じで、伝えることが苦手なのかもしれない」

 目を白黒させながら、彼女の話を聞いていた。何の話だろう。何故そんな話をするのだろう。そんなのはまるで、そう、まるで……。

「猫じゃないんだろ」

 彼女が唐突にそう言った。

「猫じゃなくて人間なんだろ?」

「……」

「俺達には伝え合える言葉があるだろう」

 先輩としてのアドバイスだ。そう言って彼女はまた席を立って、人ごみの中へ消えて行ってしまった。彼女は鈍感なようでいて鋭い人間だ。きっとどこかで読み取ったんだろう。そういうのが得意な人だった。

「ことば……」

 はっとして呟いた。ことば、そう、言葉。人間は言葉を持っている。それを使って、誰かに何かを伝えることが出来る。具体的に。逆に、言葉を使わなければ、何も伝わらない。言葉だ。自分が使うべきなのは、言葉。どうしても言えないのなら、文字だって良い。言葉を、言葉を彼女に贈らなければ。

 そう思うと、身体が勝手に動いていた。


***


「本当に、ご迷惑をおかけしました……」

 部屋に入って、一番に彼女から貰った言葉は、謝罪だった。双子はいない。きっと自分を探しに行ったのだろう。

「いえ、そんな」

「昔から……昔からなんです。本当に、迷惑をかけるつもりは、ないんです。私、いつも、こんな、ああ」

 彼女は顔を手で覆ってしまった。見ず知らずの他人に迷惑をかけてしまった罪悪感でいっぱいなのだろう。こんなことをするつもりはなかったんです。違うんです。私は、私は、あなたを陥れようとは、そんな、ことは。

 息を吐いて、吸う。そして一歩、足を踏み出した。贈らなければ。伝えなければ。後悔の無いように、もう、失わないように。


「あなたが、すきです」



***


 彼女のために、鍵をかけた。鍵をかけて、閉じ込めた。いわゆる監禁。傷つける道具も、危ない道具も、薬品も、紐も、全部、何も無い部屋に、彼女はひとりでいる。換気をしないと体に悪いので、窓は開けている。これ以上開かないよう少し細工を施してあるが、換気程度ならそれで十分。そんなことをするのは、無論、外に出られないようにするためだ。

 彼女は、何故かそうやって自分と暮らすことを選んだ。一緒にいる時はなんでもなく、自傷行為の素振りも見せなかった。彼女は専業主婦なので、内職こそしてはいるのだが、仕事という仕事はしていないので、自分が会社にいる時は独りきりだった。独りの時間がある。それは自傷の危険性を増す。その間は、彼女を止めるものは何も無い。そこで自分が選んだ答えは、「危険物のない場所に閉じ込めること」だった。これは彼女も同意の上だった。彼女から唯一の趣味である料理を取り上げない程度の範囲だったので、この対策をとっても、彼女は度々自傷をした。その都度彼女は罪悪感に苛まれながら、自分に迷惑をかけてしまったことを詫びた。そんな時自分は彼女と話をした。同僚のあの言葉を思い返して、自分の気持ちを出来るだけそのまま、飾らずに、素直に伝えた。ぽつりぽつりと出てくる言葉は、滑稽なほど拙いものだったが、それでも成長したと言える。今までは気持ちを言葉にすることすら、諦めていたのだから。

 彼女が落ち着いたその後は、決まって一緒に外へ出かけた。普段あの狭い部屋に閉じ込めてしまっているのだから、たまには気分転換も良いだろう。そうして、憩いを求めるために、近くの公園でゆっくり過ごすのだ。

「……星が……綺麗ですね」

「…………。そう、ですね……」

 真っ暗な公園のベンチに二人で隣り合って座る。見上げれば、漆黒に宝石が散りばめられたかのような星空が広がっている。あなたの心が自分には分からない。何を考えて自傷を繰り返してしまうのかも、何を考えてこんな自分の側で生きることを決めたのかも、何一つ分からない。言葉が、まだ、足りなかった。 彼女は優しい。あの時までも、あの時から今までも、ずっと自分の側で、自分の言葉に耳を傾けて、うんうんと頷いてくれた。温かい夕食を用意して待っていてくれるし、弁当を作ってくれるようにもなった。そればかりか、いつも自分を気遣ってくれている。どうしてなのだろう? 同意の上とはいえ、自分は彼女を監禁している……世間一般では犯罪者に入る部類なのに。理由を聞く勇気も、時間でも、ない。あえて聞かなかった。というよりは、聞けなかった。聞いてしまったら、自分たちの今の関係が崩れてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。

「……箱」

「はこ?」

「えっ」

「何の箱ですか?」

 しまった。つい口に出してしまっていたのか。彼女に対しては嘘も吐かなければ、隠し事もしないと決めていたので、慌てて言葉を紡ぐ。

「つつつまり、ぇ、自分、が、あのドアを、開く、まで……あなた、が、生きて、い、る、状態、と……し、んでいる、状態が、同時に……存在、して、いるわ、けで……」

 箱の中は、開けるまでわからない。

「……なんだか猫ちゃんみたいですね」

 相反する二つの状態が同時に存在する。そんなことはありえないと、そんな比喩の、崩壊した理論だったのに。

「あ…………」

「お部屋が箱で、私が猫ちゃんなら……あなたは箱を開ける人」

 面白いかもしれませんねと、彼女はそう笑った。自分は申し訳なくなった。彼女が猫なら、毎日毎日、あの狭い箱の中で縮こまっている。せめて彼女には、あの中で不自由なく過ごしてもらいたい。

「あの」

「はあい?」

「なにか、お、お……お願いごと、は……ありませ、んか?」

 なんでも、いいです。自分が出来ることなら。そう言うと、彼女は少し考えた後、ふっと笑った。

「殺して欲しいです。私を」

「っ……」

 息が、止まった。一瞬だけ呼吸の仕方を、綺麗さっぱり忘れてしまった。またすぐにひゅっと息を吸って、自分は、顔をしかめた。

「ごめん……なさい……。それ、だけは……出来ま、せん」

「……いいえ。こちらこそ、ごめんなさい」

 彼女は困ったように笑って言った。そうして、さて、そろそろ帰りましょうかと、すっと立ち上がった。

 離れていく彼女の背中を見つめながら、ああ、自分は、彼女のたった一つの願いさえ、叶えてあげることは出来ないのだと、たまらなく胸が苦しくなった。


 春になるには、まだ、寒い。

前職、わかりました?

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