2章、4
二週間が過ぎた。わたしたちが入院してから、だいたい一ヶ月が経過したことになる。
「うーん……」
この日、わたしたちは鏡の前に陣取って、自分たちの姿をじっくりと眺めていた。
前髪をちょっとつまんで、よりわけ、一本一本丁寧にチェックしていく。儚と奈緒と、三人で並んで髪の毛を凝視。ちょっとおかしな光景かもしれない。日羽だけは興味がないのか、ベッドに腰掛けて黙々と読書している。
枝毛が気になるとかキューティクルのチェックだとか、そういうんじゃない。
「やっぱり、もう……」
「そうね……」
じっくり見続け、早や十五分。いい加減認めねばなるまい。
「もうすっかり、真っ白だ」
天使病第一段階、白化。
全身から色素が抜けて、髪は白く、肌も白く、血管とかが透けて見えるようになる症状。入院約一ヶ月目のこの日、わたしたちは、ついにその状態に達してしまったようだ。
「天使さまに向けて、大きな一歩を踏み出しちゃったってかんじ……」
「あとは羽根が生えれば、もうすっかり天使さまよね」
「み、見た目はね」中身に関してはまだまだ不安でいっぱいだ。
「早く天使さまになりたいわ。ね、奈緒」
「うん……」
病状の進行とほとんどイコールな、天使さま就任。その他諸々思うところを含めて、わたしとしては複雑な気分。
ちなみに、病状の進行はやっぱり儚が一番速い。最近はこまめに髪の色をチェックしていたけど、わたしたちがまだ少し灰色だった頃には、すでに儚は真っ白になっていた。
そのことが、少し、気になっている。
浅川せんせは白くなったわたしたちを見ると、いつもの生き生きとした表情から一転、寂しげに微笑んで、
「もうすっかり白くなっちゃったわね……」
と呟いた。
でも、白くならなかったら、というか病気が治れば、天使さまにはならないわけで。そうなるとせんせのしていることって無駄になるんじゃないだろうか。
そう言ってみると、
「もちろん、治ったほうがいいに決まってるじゃない」
だそうだ。
「私のやってることなんて、無駄になるのが一番なのよ。病気なんか治るに越したことはないわ」
自分のやっていることが無駄になるのが一番いいなんて、すごいことを言うひとだ。
「じゃあなんでせんせはこの仕事してるんですか?」
すると浅川せんせは実にさばさばした表情で、
「だって、現実問題として、病気に罹ってしまった子たちがいるわけじゃない。そういう子たちのためになりたいと思ってこの仕事をしているのよ、私は」
なるほど、無駄になるのが一番だけど、でも実際そうはならないからこの仕事をしている、というわけですか。
しかしやっぱりちゃんと考えているのだなぁ。オトナって実はすごいんだろうか。
「年食ったら大人かって言うと、それは違うわね。……」
その後にも何か続きそうな気がしたので黙っていたんだけど、話はそれで終わりのようだった。ちょっと不自然だったなぁ、と思ったけれどその理由は何となく分かる。
わたしたちは、大人になれないので。
「まあ、みんなが立派な天使さまになれるよう、私も頑張るからみんなも頑張れ」
せんせは笑顔でそう言った。決意の笑顔だ。どうやったらこんな顔ができるんだろう。ちょっとまぶしい。
*
白化が完全に進行したことを受けて、わたしたちの治療状況にすこし、変化が生じた。
薬の種類と数が増え、点滴の色が変わって、回数が一日一回から二日に一度に減った。そして手首のバンドが、淡い桃色から、ちょっときつい赤色に変わった。
天使に一歩近付いちゃったねえ、とは歌撫さまの談。いつも気楽な顔をしているひとの真顔は、ちょっとこわい。
*
それから数日後のこと、散歩から戻ると、部屋には日羽が一人だった。
「あれ、日羽一人?」
ええ、と頷く日羽。
「奈緒と儚は、二人でお墓参りに行ってるわ」
「へえ、そうなんだ」
「あの二人、あれから結構連れ立って墓地へ行ってるわよ」
あれ、というのは初めて墓地に行ったときのことだ。
「そっか」
わたしはあのとき以来アンニュイな気分が抜けなかったので、一人でいることが多くなっていた。だから、二人がそんなことをしているとは知らなかった。
「あの二人は、天使さまにずいぶん思い入れがあるみたいだしね……」
何となく寂しいものを感じつつ、わたしは呟く。
「……そうね」
日羽もどことなく、元気のない様子で返事する。相変わらずだ。みんなでいるときもぼぅっとしていたり、何か考えごとをしているようだった。わたしと同じく、みんなで墓地に行って以来。あのときの日羽のおかしな様子が、ずっと気になっている。
「って、どうしたの、その包帯」
病衣の袖から覗く日羽の左腕、その手首辺りに包帯が巻かれていた。
「ああ、ちょっと切っちゃって」
日羽は特に隠すでもなく、問題ないことを示すように左手を左右に振った。
「大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫よ。ここは病院だし」
微笑んで言うけど、いかにも頼りない様子。まさか自分で切ったとかじゃないよね、とかそんな心配までしてしまいそうなほど、日羽の佇まいは力無い。顔色も悪く、白いを通り越して蒼かった。
やっぱり、心配だ。
今は部屋に二人だけだし、話を聞くにはちょうどいいかもしれない。
「ね、日羽」
「なに?」
「最近元気ないよね」
日羽、わずかに苦笑い。
「……やっぱり分かっちゃう、わよね」
「まぁね」
少しの間、沈黙。やっぱり、ちょっと緊張するなぁ。でも、聞かないといけない。
「なんか、悩みでもある?」
他人の領域に踏み込むのは、勇気が要る。できるだけ軽い調子に聞こえるように、でも軽くなりすぎないように、気を遣いすぎかなぁと思ってもそうせずにはいられない。
日羽はかなり長いあいだ、黙っていた。長いと感じただけだったかもしれないけど。
「……天使さまって」
果たして日羽の口からは、意外な言葉が飛び出してきた。日羽は天使さま関連の話題になると口数が減っていたので、てっきり興味ないものとばかり思っていたんだけど。
いったいどう続くのか、と思っていたわたしは、次の言葉を聞いて更に驚く羽目になった。
「みんな、驚くほど美形よね」
「はぁ?」
すっとんきょうな声、を上げてしまってから失礼だと思って謝る。「ご、ごめん」でも日羽は気にしたふうもなく、というか聞こえてもいなかったようで、何事もなく次の言葉を口にした。
「なんでかしらね」
なんで、って。
「偶然?」
しかないんじゃないかな。でもそれにしてはみんな美人すぎか。
「天使病は美人にしか発病しない?」
自分で言っておいて何だけど、苦しい。そんな病気あるのか?
「確かに」意外にも日羽は同意した。「発病者が揃って美形という病気は、他にもあるらしいわね」
美人病かぁ。ロマンチックな病気だ。いや、実際罹ってるひとからするとロマンどころじゃないだろうけども。
「わたしたちって、みんな、ホームシックとは無縁だったわよね」
「え?」ずいぶん話が飛んだ。日羽らしくない。いつもは理路整然と話すのに。
「まあ、……そうだったね」
わたしは入院初日の夜を思い出した。その後も、わたしたちの会話に家庭の話題が上ったことは一度もない。
「偶然かしら、ね」
「そりゃあ……そうじゃない?」
何かの原因で親がいない子どもは結構、いる。ここに来てから知ったことだけど、黒雨もその理由のひとつなのは間違い無さそうだ。ちなみにわたしが親を亡くしたのは、食糧配給問題に関わるテロに巻き込まれたからだ、と聞いている。物心つく前の話だから、実感がないけど。
黙る日羽。何が言いたいのか、全く分からなかった。
「ええと、最近考えてたのってそのこと?」
「じゃあ、」
む、むぅ、何なのだ。
「わたしたちの白化が、ほとんど同じ時期に始まったのは、なんでかしら」
「それも……たまたま?」
言われてみると、随分「たまたま」が多いような気がした。
何となく、日羽が何を言いたいのか分かった、ような。
「天使病が偶然じゃない、って言いたい?」
いや、でもねえ……。
「変だと思わない?」
「確かに言われてみれば、そんな気はするけど。でも、偶然じゃないとしたら、どういうことだと思うの?」
また黙る日羽。
わたしは、そんな日羽を見て、自分の言葉とは裏腹に、気味の悪いものを感じ始めた。
日羽はたぶん、とかきっと、とか、そういう曖昧な言葉をほとんど使わないのだ。憶測でものを語らない、というやつ。いつだって彼女の言葉には、裏付けがあった。
今までは。
ならば、この話にも、日羽なりの根拠があるんじゃないか。わたしに否定されたくらいでは揺るがない何かを、彼女は掴んでいるんじゃないか。
そんなことを考えていたせいか、次の日羽の言葉は、わたしの中で殊更に強い印象を持つことになった。
「私たちの血、黒いと思わない?」
「まあ、……ね」
わたしたちは数日置きに採血を受けるので、自分の血は見慣れている。いや、奈緒はいつも血を採られるとき目を逸らしているから、全員がそうだというわけじゃないけれど。でもわたしは、見慣れている。
入院前、最後に自分の血を見たのはいつだったか。記憶にあるその色に比べれば、今の血の色は確かに黒ずんでいるような気はした。
でもそれは、天使病だから。
「天使の体には、黒い血が流れている……か」
そう言って日羽は、薄く笑った。
「なんだかひどく、シニカルよね」
目が、笑っていなかった。おそろしい笑みだった。
病室の入口から、影が伸びた。
「奈緒」
奈緒が立っていた。わたしは何だか安心して、彼女の名を呼んだ。
「儚と一緒じゃなかったの?」
「う、うん。ちょっと外でスケッチしようかな、と思って」
奈緒は入口に立ったままで言った。
「絵を描く道具を、取りに」
「外で絵かぁ。いいなぁ」
「今日も天気、いいものね」
日羽が言う。もうすでに、おそろしい笑みはきれいさっぱり消えてなくなり、やわらかい雰囲気の声音に変わっていた。
「う、うん」
ようやく奈緒が部屋に入ってくる。そそくさと画材をまとめ、
「そ、それじゃ、また後でね」
と、真っ白な髪を揺らして出て行った。
しばらくの間の後、わたしは言った。
「……聞こえてた、んだろうなぁ」
「そうね」
「もしかして気付いてた?」
「いいえ」
日羽はゆっくりと首を振った。奈緒にはあまり聞かせたくない話だった。