2章、3
――さて、今日はどっちに行こうかな。
今日は天気もいいし、屋根のないところに行ってみようか。そう思って、わたしは舗装された渡り廊下から、その外へと、歩き出した。
病院の敷地内は、外では有り得ないくらいの緑溢れる庭園になっている。ちいさい頃に遠足で行った森林公園にさえ、こんなにすてきな自然はなかった。
草の生えた地面を踏みしめる。足裏に、感じたことがないほどの弾力が返ってくる。生命力溢れるというか……。
本当に、きれいなところだ。
風も何だか、いい匂いがする。草花の香りなんだろうか。体全体をやさしく包んでくれるような、いい気分になれる匂いだった。ちょっとだけ冷たいけど。
ここはまるで楽園みたいだ。ご飯はおいしいし、授業はあるにはあるけど余裕があるし、望めばだいたい何でも貰えるし。毎日のように点滴してお薬を飲まなければならないのは嫌だけど、それでも十分過ぎるくらいお釣りの来る生活だった。
外よりも、いいところ。
でも。
わたしたち本当に病気なのかな、とは、もう思えなくなってしまった。
体は今のところ、あんまり問題ない。ときどき少しだるいかなと思うことはある。でも痛かったりとか、そういうことはない。わたしだけじゃなくてみんながそうだ。みんな、それなりに元気だ。それなりに。
だけど、わたしたちは確かに天使病なのだ。
その証明は、鏡を見れば目に入る。
少しずつ、髪の毛の色が抜けて来ているのだ。
まだ、どちらかといえば、黒い。白髪みたいに一本ずつ白くなるんじゃなくて、頭全体から少しずつ色が抜けていくかんじ。だからわたしたちの髪は、今はもう、黒というよりは灰色だった。わたしたちの中では、特に儚の髪の毛が白くなっている。ときどきだるそうにしていることもあって、ちょっと心配だ。
点滴して薬飲んでても、やっぱり病状は進んでしまうんだなぁ……、と分かってしまってちょっとブルー。だけど、病院がいいところだから、何となく救われているような気になれる。ああ、こんなにいい環境なのは、このためにあったんだな、と理解してしまった。うまい話にはやっぱり裏がある。
……ひとりになると、そういうちょっと沈んだ考えが浮かんできてしまう。だから誰かと一緒に散歩に行きたいなぁと思うのだ。今度ちょっと、無理にでも誘おうかな。わたしのことは別としても、病院の庭がきれいなのは間違いないんだし。これ、体験しなきゃちょっと損だ。
外とは大違いの、色とりどりの花畑。天然色の自然絨毯。
そういえば、なんで外にはきれいな花が生えないんだろ。
ちょっと考えて、思い当たった。
黒雨のせいかな。
黒雨も、黒塵のせいらしい。塵が雨に混じって降ってくるんだそうな。これが病気を引き起こすんだそうで、随分多くの被害者が出たらしい(そういえば美加子もそんなことを言っていた)。
今は塵が薄くなったから、それほど深刻ではなくなったみたいだけど。
で、人間が病気になるなら、植物も病気になったっておかしくはないんじゃないかなぁと、そう思うわけなのだ。
もちろん、ここにだって黒雨は降る。だけどたぶん、誰かが頑張って手入れなりしているんだと思う。広いので相当な労力がかかってそうだけど。
たぶん、わたしたちのために。
そんなことを思いつつ、ぽてぽてと歩いていると、ふいに目の前に高い壁が立ちふさがった。周囲は木々に囲まれて薄暗くなっている。いつのまにかずいぶんへんぴなところ、つまり、敷地の端まで来てしまったみたいだ。
壁は、殺風景だった。コンクリで出来た、見上げるくらい高い、垂直の壁。真下から見上げると空しか見えない。てっぺんには、侵入者防止用なんかでよく見かける有刺鉄線つきの返しがついていた。
(ていうか……)なぜあれは、こちら側に反ってますか? 普通逆じゃ。
なんだこれと思いつつも、わたしはすぐその場を後にした。ここはいまいち、好きになれない。壁の近くはあんまり手入れがされてなくて、荒れた感じが寂しいのだ。暗いし。
「あれ? 沙凪くんだ」
「あ」
壁の側、木々の暗がりから庭園のような病院敷地内に戻ると、ばったりと歌撫さまその他の天使さまたちに出くわした。
「……そんなとこで、何してるの?」
へんな目で見られてしまった。
「い、いや。ちょっとぼーっと歩いてたら突っ込んでっちゃったみたいで」
「うっかりさんだね、きみは」
「は、はぁ」
ちょっと恥ずかしい。
「歌撫さまは、今日も散歩ですか?」
このひとはよく散歩しているみたいで、病院内で知らないことはないと言われている……らしい。伊達に五年目、最年長天使さまをやってるわけじゃないみたい。
「うん。今日天気いいし、みんなで外歩こうってなってね。きみも来るかい?」
お誘いは嬉しかったけど、歌撫さま以外はろくに話したこともない先輩天使さまたちだったので、ちょっと気後れした。
「ああ、一人で歩きたいなら無理しなくていいよ。気、遣うと思うしね」
心が読めるのかこのひとは。
「そういえば、あっちのほう、行ったことある?」
そうやって歌撫さまが指す方向には、ちょっとした森みたいになった場所があった。
「いえ、まだです、たしか」
歌撫さまがにやりと笑った。いたずら少年みたいな感じ。
「じゃ、森の中。ちょっと見てみるといいかもね」
「何かあるんですか?」
「それはきみ、行ってみてのお楽しみだよ」
「はぁ」
どうせ目的地なんかないし、行ってみるのはぜんぜん、やぶさかじゃなかった。
「じゃあ、またね」
行ってしまった。
「さて」
じゃあ、行ってみようかな。
歌撫さまが指した森へ行く途中に、部室棟と呼ばれる建物の近くを通った。中からはクラシックなアンサンブルの演奏する音だとか、人の声、多分演劇、なんかが聞こえてくる。いわゆる部活というやつが行われている棟なのだ。その方面の才ある天使さまたちが集まって、こうして練習しては天使楽団だとか天使劇団といってチャリティ公演を行っている。ちなみにわたしたち四人は、今のところ、誰も参加していない。
そんなどこか遠くて懐かしい音をBGMに、森の中に突入。落ち葉の積もった柔らかな地面を、しゃくしゃく踏みしめて歩いていく。木は結構生えてるけど適度に間隔が空いていて、そんなに歩きづらくはなかった。
やがて、向こう側に、ちょっとした空き地が見えてくる。
森を抜けて、その先にあるものを見たわたしは、思わず足を止めた。
*
おあつらえ向きなことに、次の日は快晴だった。
「ね、みんな、外に散歩しに行かない?」
わたしはそう言ってみんなを誘った。他でもない、昨日歌撫さまに言われ、わたしが森の中で見つけたあるものを、みんなにも見せたかったからだ。
「そうね」日羽は外に目を向けると、ぱたりと本を閉じた。「珍しい天気だし、こんな日くらいは外に出ようかしら」
「確かに、今日外を歩かないと損かもしれないわね」儚も同意。
「あ、じゃあ、わたしも」奈緒も一緒に行くと言ってくれて、これで全員が揃った。
わたしはなんだか、ほっとした。
そしてみんなと一緒に、昨日と同じ場所に立ったわたしの目の前には、大きな石造りの建物がそびえている。
一年の内でもいちばん日が長くなる季節、その昼間にだけ、たまぁに今日みたいな澄んだ青い空が見える。雲ひとつない青一色を背景に、周りを緑の木々に囲まれて、その建物は強烈な存在感でもってわたしたちの前に佇んでいた。
見上げるほどに大きな四角い柱、その中央から少しだけ上寄りから、左右両側に向けて四角い梁が出っ張っている。
それは巨大な、十字架だった。
つまりそれは、天使さまたちの、墓地だった。
長い間風雨に曝されたせいか、ところどころが黒ずんで汚れている。直視できない陽光が、その威容をはっきりと照らしている。
わたしたちの誰もが、口を開かなかった。
たぶん、わたしたちの誰もが、厳粛な気持ちで、それを見上げていた。
「ね、これ見て」
わたしは十字架の根元に歩み寄ると、そこにある石板、すなわち墓碑銘を指し示してそう言った。
みんながそれを見る。
そこにはこう書いてあった。
+
黒き濁世にて、浄潔の御手、無垢なる翼以て
誇り高く、儚き命を全うした
白き癒し手達 此処に眠る。
汝等の御霊は黄昏から解き放たれ
永久の光の中に還るだろう
+
そして少し離れたところに、違った字体で、
救い在れかし
と書いてあった。
「救い、あれかし……ね」
日羽がちいさく呟く。そのとき声を出したのは日羽だけだった。だけどたぶん、心の中には、みんなそれぞれに思うところがあったんだと思う。
わたしの視線は、日羽とは違うところに向いていた。
儚き命。
わたしはまた、巨大な十字架、天使さまたちの墓標を見上げた。
これは、わたしたちの未来の姿なのだ。しかも、そう遠くない未来の。
いま目の前に、厳然として在る、死。まわりの皆はわたしが天使さまになったと知って、元気に騒いでいた。ここに来て初めて見た天使さまたちは、みんな明るかった。病院は楽園みたいに、いいところだった。だからわたしは、忘れていられた。
天使病が、不治の死病だということを。
わたしはこれから、そう遠くないうちに、この大きなお墓の下に入る運命なのだ。わたしはその事実の存在感、あまりの大きさに圧倒されて、何だかとても、怖くなってしまった。
みんなは、どうなんだろう。
怖く、ないんだろうか?
儚と奈緒は、強い目つきで、巨大な墓標、死、を見据えている。まるで強大な敵に挑む戦士か勇者か、そんな雰囲気が滲んでいた。
そう死とは敵なのだ。彼女たちはその手ごわい敵に対し、天使さまとして精一杯がんばる、そんな決意を武器として立ち向かおうとしている。この強い視線は、まさにその意志の表れなのだ。
ではわたしはどうだろう、わたしの武器は何?
分からない。わたしは天使さまになろうと授業を受けているけど、それはわたし自身が決めたというよりみんなに流されたからだ。わたしの意思は、この強大な敵に対抗するための武器とするには、あまりにも、頼りなかった。
日羽はどうだろうと視線をやれば、この人はそもそも死が敵だとか、そういうのとは別のことを考えているようだった。何やら疑わしげな様子で眉を顰め、墓碑銘を凝視している。その様子は、わたしや儚、奈緒とは異質な感じで、正直言って何を考えているのか分からない。
やがて、唐突に、日羽は踵を返した。
「……私は、部屋に戻るわ」
そう言ってさっさと立ち去ってしまう。
わたしたちは顔を見合わせた。
「……ちょっとナーバスになっているのかしら」
と、儚が言った。
確かにそうかもしれない。げんにわたしはナーバスになっている。
でも、ほんとうにそれだけなのかな、と思う。妙な胸騒ぎがする。
そのときはそれをきっかけとして、みんな部屋に戻った。
その日から、少しだけ、日羽の元気がなくなった。