2章、2
そんな次第で、わたしたちの新しい日常が始まった。
朝は点滴。ときどき採血ほか、簡単な検査。点滴スタンドを押し押し、四人で教室に向かう。そのまま授業だ。最初は針刺したまま動くのが気持ち悪かったけど、すぐに慣れてしまった。
午前は授業。「教室」と呼ばれる病棟内の一室で、四人と浅川せんせだけの、ゆるゆるとした、ちいさな授業。病衣の生徒と点滴スタンドが立ち並ぶ授業風景はちょっと異様だけど、居心地はわるくない。
午後は自由。みんなそれぞれに好き勝手なことをしている。日羽と儚は読書、奈緒は絵描きで、わたしはテレビ見たり病院内を散歩……というかうろうろしたり。
夜はおやすみ。わたし以外は趣味が趣味だけに、午後と同じような感じで生活している。でもわたしが居るから、このときはみんなで話をしていることが多い。
そんな毎日。
「穂ノ村、起きなさい?」
がばっと身を起こす奈緒。かわいそうに、よだれを拭うのも忘れて目をぱちくりさせている。すかさず儚が横からハンカチを差し出し、奈緒の口元をふいてあげた。
「最近、よく寝てるわよね。大丈夫?」
「す、すいません……」
ちなみに、授業中。黒板にはでっかく「天使のおしごとは、がんばるな」なんて衝撃の文句が書いてある。つまり、基本的な心構えの授業。黒板の言葉は「無理してもいいことないからほどほどに」とかそんな感じの意味だ。
「もうちょっとだね……」
お説教の気配を察知。
「ちょっと待って、せんせ」
こうなってしまうと、奈緒の性格では何も言えなくなってしまう。だからわたしは奈緒をかばった。
「奈緒が寝不足なのは、夜遅くまでがんばって勉強してるからなんだよ」
毎晩布団の中に灯りを持ち込んで、「はじめてのボランティア」とかそんな感じの本を読み耽っているのをわたしたちは知っている。布団から透けてくる灯りは、夜遅くまで消えないのだ。
「だからあんまり怒らないでやってよ」
「奈緒は確かにがんばってるわね。たぶん、私たちの誰よりも」
日羽がわたしの言葉を裏付けるようなことを言い、
「私からもお願いします、先生」
儚が静かな声でお願いすると、淺川せんせの態度は軟化した。
「しかたないわねえ。でも、寝不足は体によくないから。ほどほどにしなさいね」
「ご、ごめんなさい、先生」
奈緒がおずおずと謝り、わたしたちには気弱な微笑みを投げかけてくれる。
そんな和やかな風景も、いつのものこと、になりかけてくる。
二週間というのは、それくらいの時間だった。
「さっきはありがとう……沙凪ちゃん」
慣れてもやっぱりおいしいお昼ご飯どき、奈緒がそう言ってきた。
「いいよ別に。大したことじゃないし」
「でも、すごく助かったから」
そう言ってうっすらと笑う。可憐、という言葉が頭の中をよぎっていった。
「ああやって口に出して助けられるって、すごいことだと思うよ……」
わたしは照れた。
「いや、まあ。知った人しかいないからね。四人しかいないし。普通の学校みたいに三十人とかいたら、無理だったかも」
「いいんじゃないかしら。こういうのは結果が大事なのよ。沙凪は奈緒を助けた。それで十分だと思うわ」
儚が追い討ちをかける。あぁ顔赤くなってないかなぁ。
「そうそう。沙凪は格好いいわ」
日羽め。何ですかそのにやにや笑いは。
「そこ、面白がらない」
「ごめんなさいね」
にやにや笑いが止まらない。こいつめ、反省の色なしだ。
でも、突っ込みを入れてちょっと落ち着いたのは確かだ。
「あ、天使さまが出てる」
そう言う儚の視線の先には、食堂備え付けの大画面テレビ。画質もきれいでめちゃくちゃ高そうなやつだ。こんなところまで至れり尽くせりなのだ。ただし番組の選択権は、なかったりする(国営放送《NHK》固定)。
街角の花壇に、水をあげる天使さまたちの姿が映っている。花の名前は分からないけど、天使さまにちなんでいるのか、ぜんぶ真っ白だった。今映っている天使さまが、すぐそこでご飯を食べていたりする。どうやら今回は録画の様子。……特に目立った反応もないのは、もう慣れてるせいだろうか。
しばしお喋りをやめて、みんなでテレビに見入った。
「何ていうかさ……」
最近天使さまを見ると、思うことがある。
「実際これから天使さまになるんですよって言われると、見る目が変わるっていうか」
遠い存在、自分とはぜんぜん関係ないと思ってた天使さま。だけど今、わたしたちは天使さま予備軍になった、というか、なってしまったというか。前に比べると、注目度が全然変わったのだ。例えば、実際天使さまってどんなことしてるの?って気にするようになったとか。
「そうね。見てるだけじゃなくて、これから天使として活動する立場になると、やっぱり心構えというか、見方も変わってくるわよね」
「私は自分に置き換えて想像してしまうわ。今だったら、お水上手にあげられるかなぁとか」
「あー、それはあるね」流石に水くらい、ふつうにあげられるだろうけど……。
奈緒はどう、と聞こうとしたら、彼女は相変わらず、じぃっとテレビを凝視していた。
この子はほんとうに、天使さまが好きなんだなぁ……。
「奈緒?」
ちいさく名前を呼ぶと、大げさにびくっとしてこっちを振り向いた。
「えっ、あっ?」掬いっ放しのまま放置されてたシチューがぼとりとこぼれ落ちた。
奈緒、真っ赤。わたしたち、苦笑い。
「奈緒って本当、天使さま好きだよね」
「う、うん……ごめんなさい」
いやいや、謝らなくても。
「何かわけとかあるの? 儚みたいに、前に天使さまと話したことあるとか」
「ううん、お話ししたことはないんだ」
「あ、そうなんだ」
そこで言葉が途切れた。俯いて、上目遣いでわたしたち三人をちらちら見ている。
言うのが恥ずかしいのかな。でもちょっと面白いのでそのまま見ていようとか思ってしまう、意地悪なわたし。
日羽も当然のように放置で、儚だけがその場の雰囲気をどうしたものかと迷っているようだった。
「あ、あの奈緒」「て、天使さまってかっこいいからっ」
結局二人でほぼ同時発言。
奈緒は勢いつけて喋ったせいで、止まれなかった模様。「あ……」と言ったきり俯いてしまった。
「かっこいいって、なんだか珍しい意見だね」
「そ、そうかな」
「ふつうは、きれいとかかわいいとか、そんな感じよね」
日羽の言葉にみんなで頷く。
「あ、男の天使さまの話?」
男の子あるいは男の人の天使さまも、いるにはいるのだ。少数だけど。
「ううん、天使さま全部」
「へえ〜……」
かっこいいか……。
「どういうところが?」
「うぅんと……」
上目線で考え中、のポーズ。うまく言えない風だ。
「天使さまって、病気……だよね」
「うん」
「それなのに、立派で……わたしとぜんぜん、違ってて……」
ええと、それはつまり……。
「働くおとうさんみたいなイメージ?」
我ながらどうかと思うたとえだ。それを聞いた儚がショックを受けたような顔をして、それを見たわたし自身もショックを受けた。
「え、えっ? ……うん……え?」
奈緒までショックを受けてる。なにこのショックスパイラル。……わたしのせいだけど。
「病気というハンデを背負ってるのに、立派に社会の役に立ってるから格好いいということかしら?」
「あ、うん……そんなかんじ」
密かにヘコむわたしを尻目に、日羽が奈緒の信頼を勝ち得ている。なんか悔しい。
「わたしはぜんぜん、だめだから……」
そう言って自嘲する奈緒。夜更かしして頑張ってる姿を知るわたしたちとしては、そうとも思えないんだけどな。
「奈緒はいちばん頑張ってるじゃない? だからだめってことはないと思うけどな」
「でも……」
「私もそう思うわ。奈緒ちゃんはじゅうぶん立派よ」
「努力は、報われるものよ」
みんなそれぞれの励ましを受けて、奈緒の顔がうれしそうにほころんだ。
「あ、ありがと……」
えへへと照れ笑い。素直でいい子だ。
「ところで、今日はみんなどうするの?」
午後は自由時間。ちなみに点滴は午前中に落ち切るので、自由時間は体も自由だ。
「私は今日も、本を」
「わたしも読みかけのがあるから、続きを読もうかなって」
日羽と儚はいつも通りの様子。どうも敷地内の図書館には相当な数の本があるらしく、初日に見に行ってきた後の二人の興奮ぶりはちょっとすごかった(と言っても日羽はやっぱりクールだったけど)。
「奈緒は?」
「わたしは、絵を描こうかなって」
そう、奈緒には絵心があったのだ。希望すればだいたい何でも叶えてもらえる天使病院、奈緒は自由時間のお供に画材一式を所望したのだった。まだ下書き段階のようだけど、どうも儚を描いてるみたい。
「結局みんな、いつも通りかぁ」
「沙凪はどうするの?」
「うーん……」
外は晴れてて、いい天気だ。
「散歩しようかな」
「私も、本が読み終わったら一緒に行くわ」
それはうれしいかも。
「うん、一人でうろうろするよりそのほうがいいな。広いし、見たことないきれいな花とか咲いてて結構面白いよ」
「私もたまには外に出ようかしら……」
日羽が外を見ながらそう呟いた。このひとは常に家の中に篭ってそうなイメージがある。実際、ここに来てからはずっと病室で本を読んでいる。
「植物図鑑でも持って行ったら?」
冗談交じりでそう言うと、
「それはいい考えね」
と普通に返されてしまった。
「奈緒も、そのうち外で写生とかどう?」
「う、うん。行きたいな」
誘ってあげると、とても嬉しそうな顔をするんだ、この子は。いざ外でお絵かきとなったら、わたしも一緒にやってみてもいいかも。絵心ないけど。むしろ壊滅的だけど。
「じゃ、今日もいつも通り、ということで」