2章、1
二 天使さまの体には、黒蜜が流れている
「気持ちのいい朝だ!」
翌朝。軽やかにベッドから飛び降り窓に駆け寄ると、かしゃーと一息にカーテン全開。射し込む朝日。陽光は元気と笑顔の素だよね。
「はいそれじゃ気持ちよくお薬飲みましょうねー」
空気が読めないにも程がある台詞に振り返ってみれば、看護師さんと思しき白衣の女性が何やら袋を持って、部屋に入ってくるところだった。
「これ、毎食後に飲んでくださいね」
何とも微妙な気分で袋を受け取る。うわぁいっぱい入ってる。
「はい朝ですよ、起きて起きて」
まだ寝ていた他の三人を叩き起しながら薬袋を押し付ける看護師さん。鬼。
「……ふえ?」
寝ぼけ眼で手にした薬袋を眺める奈緒。あ、倒れた。寝起きはよくないようだ。
「あと血採っちゃいますねー」
奈緒ががばっと起きて、この世の終わりのような顔で看護師さんを見つめた。笑顔で注射器を構えた白衣の天使は、奈緒の目には白衣の悪魔に見えているに違いない……。
四人分の採血を手早く終えた看護師さんは、来たとき同様さっさと去って行った。
「なんだかずいぶん、突然よね」儚は苦笑いしてそう言うと、起きだして身だしなみを整え始めた。
日羽は不機嫌そうな顔で薬袋を見つめている。気持ちは分かる。
*
朝ごはん(やっぱり豪華だった)を食べに行って幸せな気分で部屋に戻り、少し話していると、さっきの看護師さんが再びやって来た。
そして看護師さんは不幸になる呪文をとなえた。
「それじゃ、点滴しますねー」
「えぇっ!?」
悲鳴を上げたのはわたしと奈緒だ。さっきの今でまた注射!?
「大丈夫だいじょうぶ、チクッとするのは一瞬だから」
うそだ! 針長っ。見なきゃよかった!
痛い痛い痛いもう看護師さんなんて信じない!
「おはよう」
そこに浅川せんせがやって来た。
「早速やってるわね」やられてます。
「検査なんかは、ないんですね」
そう聞いた儚は、もう腕に点滴チューブ装着済。早い。慣れてるせいか。
「うん、天使病の初期治療は、だいたい確立された手順に沿ってやることになってるらしいから。でも採血はあったでしょう?」
浅川せんせが説明する傍らで、看護師さんがそうですよー、なんて言ってる。
そうこうする内に全員への針刺しが完了。看護師さんは病室から出て行った。
「さて、あなたたちのお勉強の話なんだけど」うわ。
……やっぱり、やるんだなぁ。
「あなたたちは全員義務教育を終了してるから、参加は任意なのよ」
「勉強しなくてもいいんですかっ?」
わたしの言葉に、浅川せんせ、苦笑い。嬉しそうな声出ちゃったのがちょっと恥ずかしい。
「まあまあ、勉強の内容聞いてから答えなさい」
「は、はい」
……というか、全員義務教育終了ってことは、奈緒って高校生だったんだ……中学生だとばかり思ってた。だってわたしの肩くらいまでしか背がないから(ちなみにわたしは普通だ)。
「で、内容だけど。基本的には、一言で言えば、天使になるための訓練ね」
ああ、やっぱりそうなんだ。
「あなたたち、天使については知ってる?」
もちろんだ。みんな頷いた。
「最近は知らない子、ほとんど居ないわね。それじゃ一般的なことは省いて、少し詳しい説明をするわ」
せんせは一拍置いて、天使さまについての説明を始めた。
「あなたたちが罹っている病気、通称天使病には、症状にいくつかの段階があるの……」
せんせが言うには、こうだ。
天使病の症状にはいくつかの段階があって、それは主に外見に表れる。
最初の変化が、髪や肌が白くなる、「白化」。
その次が、肩の辺りからちいさな羽根が生えてくる、「生翼」。わたしたちがよくテレビで見ていた天使さまは、症状がこの段階にある人たちだ。
ここまでいくと、しばらくは症状が安定するらしい。そして、この状態にある患者さんは、薬や点滴の必要があるとはいえ、健康な人と大体同じように動ける。
「そこで、希望者はボランティアなんかで社会貢献、というわけ。動けるということは、他の誰かのために、何かができるということだから」
(ふむ?)わたしにはちょっと、よく分からなかった。話が飛んでいる気がした。
誰かのために何かをする、みたいなことを、わたしが真面目に考えたことなかったせいかもしれない。
やれることがあるならそれをやる、というのは、分からないでもない気もするけど。
「ボランティアと言っても色々あって、一口には括れないんだけど、基本的な考え方とか、行く場所によっては訓練が必要になったりするの。あ、あとテレビに出るときの心得とかね」
そう言えば、天使さまといえば、テレビに出るんだ。
「すごい人気ですよね、天使さまって」
儚のこの発言に対して、せんせはちょっと苦そうな笑いを浮かべた。意外な反応。
「あれは、ちょっと予想外だったけどね。こんなにおおごとになるとは……。でも、テレビに出てる天使たちを見て、心の支えにしてる人もいるって聞くから、結果的には良かったのかもしれない」
「私、そうだったんですよ」「……わたしもです」儚と奈緒が控えめに、そう言った。そうだったのね、と答えるせんせの顔はさっきより少し、満足そうだった。
「で、そんな感じの諸々を、生翼の段階になって症状が安定するまでの間に勉強するわけね」
分かった? と言うように、せんせはわたしたちを見回した。
「質問が」
日羽が小さく手を挙げつつ、言った。
「どうぞ」
「勉強は、天使のためのものだけですか?」
その質問にわたしはどきっとした。
「いいえ。ここではあなたたちの希望は、できるだけ叶えるようにしてるの。だからやりたいことがあれば、私たちはできるだけのサポートをする。……まあ、あまり専門的なことだったりすると無理だけど。高校の勉強くらいなら大丈夫よ」
最近はとくに、普通の勉強をやりたがる子がいなかったから説明を省いてしまったけれど、ということらしい。
「何をするにも自分の気持ち次第、何もしなくてもいいということですか?」
「その通り」
高校の勉強って言われて不安になったけど、そういうことならひとまず安心。
ていうか、何もしなくてもいいんだ……。すごいところだ。
「……質問はもう、いいかしら?」
みんな頷いた。
「それじゃ、こっちから逆に質問。あなたたち、天使のための勉強、する?」
ちょっと散歩でもする? みたいな軽い口調だった。
「はい」「やりたいです」
奈緒と儚は即答だった。わたしはすぐに答えられなかった。なりたいか? と聞かれると、よく分からない。絶対ならなきゃいけないものだと思ってたし。
日羽も答えなかった。
わたしたちが何か言う前に、せんせが再び口を開いた。
「さっきも言ったけど、天使になる必要は全然ないし、別のことがしたければしてもいいの。全部あなたたちの自由だし、今やると言ったからって途中でやめちゃいけないということもない」
せんせの顔は、優しい。
「一応言っておくと、ここに来た人全員が天使になるわけじゃないから。天使やらない人もいるから。だから気軽にね」
本当に自由らしい。わたしはちょっと悩んだ。いっそ強制って言われたほうが楽かもしれないと思った。
「私も、やろうかしら」
日羽がそう言った。儚と奈緒は何だかほっとしたような顔をしている。
二人の視線がわたしに集中。そ、そんな目で見られたら。
「じゃ、じゃあわたしも」
って言うしかないじゃないか。
「オッケー。何度も繰り返すようで申し訳ないけど、これは自由だから、それだけ忘れないでね」
まあ、とりあえずやってみるくらいなら損はないかな。ものは試しということで。
「じゃあ、今日はとりあえず自由行動。病院の敷地内は、立入禁止って書いてあるところ以外は自由に歩き回っていいわよ。授業は明日からということで――」
そのとき。
「あっ、こっちかぁ」
入口から女の人の声が聞こえた、と思うとそのひとはずかずかと踏み込んできた。天使さまだ。
「何しに来たの、綾菜」
「いやあ、新しい子たちを見に来たんですよ。ゆうべは疲れてすぐ寝ちゃったし今朝は三度寝したからご飯も食べ損ねちゃって、結局今の今まで会えなかったから」
すごい早口……。
「まだこっちの話が終わってないのよ。後にしなさいな」
「かたいこと言わないでくださいよ。教室のほうだと思ってわざわざ無駄に一往復しちゃったぼくの身にもなってください」ぼく?
「それはあなたの都合で」
「やあ、初めましてみんな!」
浅川せんせを完全無視して、綾菜さまと言うらしいその天使さまはわたしたちに片手を挙げて挨拶した。手首の白いバンドがきらりと光った(ような気がした)。
「ぼくは歌撫。よろしくね」
やっぱりぼくって言った。世の天使さまファンの何割かに「ぼく」を広めた張本人、ぼく天使さまは、どうやらこの人みたいだ。
「ふむう、みんな天使になるのかな?」
そこそこ長い髪の一部を三つ編みおさげにした、垂れ目がちの二重が愛らしい、少年みたいな口調だけど見た目はとても女の子な歌撫さまは、わたしたちの顔を順に見回しながらそう言った。
「一応、授業は受けるそうよ」せんせがそう答える。
「そっか。じゃあ、そのうち一緒に外に出ることもあるかもしれないね」
「そうそう。だから今は綾菜だけ外に出ててもらえるかな?」
そう言って、歌撫さまの背中を押して病室の外まで運んでいく浅川せんせ。歌撫さまはぶうぶう言いながらもつつがなく追い出されて行った。
「い、いいんですか? あれで」
わたしがそう言うと、
「いいのよ。まあ、その内また会うしね」
との談。
その内とはすなわちその日のお昼ご飯のことだった。
「ここいいかな?」
と言いつつ誰の返事も聞かないで着席する歌撫さま。
「さっきはちゃんと話せなかったけど。よろしくね」
溌剌笑顔でご挨拶。うーん、きれいだ。わたしたちより少し年上っぽいので、まさしく美人、という感じ。喋り方は男の子みたいなので不思議な雰囲気。
「やっぱり黒髪はいいね。初々しくって」
そんなものかなぁ。
「世間では白いからいいんだって言われてますけど」
「あは。まあ他のひとから見たらそうかもね。でも私たちにとっては白が普通だからね、ずっとここで暮らしてると黒が新鮮になるのだよ」
そういうものですか。
「歌撫さまってここ、長いんですか?」
何だろ? そう言うわたしを歌撫さまはちょっと面白そうな目で見た。
「うん。今年で五年目になるよ」
「歌撫さまは、今いる天使さまの中ではいちばん前からいる方なんだよ」
奈緒がおずおずと話に入ってきた。なるほどさっきの歌撫さまの視線は、わたしが知らなかったのが興味深いってことか。
「天使さまのお仕事って、たいへんですか?」
儚のその質問は、全員の気になるところだろう。
「や、全然楽」
「えええ」
意外な答えだったので思わずわたしは変な声を上げてしまった。
「だって介護とか、そういう重たいことはしないしね。私たちのやることは、せいぜい話し相手になるとか、雑用とか、それくらいだもん」
でも仕事が簡単すぎると段々だらけてくるとか、どっかで聞いたような。
「それってダレたりしないですか?」
そう言うと、突然、歌撫さまの視線が鋭くなった。
「いや、それはないね」
雰囲気が引き締まる。不意打ちだったので、絶句してしまった。
「ま、きみたちにもその内、分かるよ」
そう言った歌撫さまの顔は、もう元のお気楽表情に戻っていた。うむぅ、何なんだろう。