1章、4
「何か見たこともないくらい、豪華な感じなんですけど……」
いま食堂にいるのははわたしたち四人だけ。やっぱり天使さまたちはどこかに出かけているようだ。せんせも何やら忙しいらしく、案内が終わるとどこかに行ってしまった。
だけどそんなことよりも。
ちょっとおかしいくらい豪華な夕飯だった。ご飯に味噌汁、焼き魚……というと基本のように聞こえるけど、どれもぴかーと輝いてる。いや、冗談抜きで。
「確かにこれは……すごいわね」日羽も驚いている。「病院食って、こんなにすごいのかしら」
「ここまでは……」
儚まで驚いているということは、これは本当にすごいらしい。
「とりあえず、いただきまーす」
わたしが言うと、みんなが唱和。
「頂きます」「い、いただきます……」「いただきます」
ご飯を一口。う、うまい! ふっくらもちもちが口の中で弾ける。しかも何だか甘い。配給米のぱさぱさカラカラに比べると、もはや別の種類の食べ物みたいだ。
「これ、日本米だわ……」
感嘆した様子で、日羽が呟いた。まじですか、日本米って言えば超高級品じゃないですか。
「お魚もすごくおいしいわ……」
ほとんど呆然とした様子で、儚。何ていう魚か分からないけど、淡白な中にも脂が乗っていて、確かにものすごくおいしい。
「ひぅっ」
しゃくりあげる声が聞こえたのでどきっとして見ると、奈緒が泣いていた。
「ど、どうしたの、奈緒」
「うぅぅ」
隣に座っていた儚が、すかさず背中を撫でてあげた。大粒の涙をぽろぽろこぼして泣いている。
「どうしたの?」
儚が優しく尋ねると、途切れ途切れに奈緒は答えた。
「ご、ごはん」
「うん」
へんなものでも入ってたのかな……。
「お、おいしいよぉ……」
あまりのおいしさに号泣ですか。
何だか逆に、微笑ましい気分になった。何といっても号泣である。泣くほどかなぁと思わないでもないけど、気持ちはよく分かる。このご飯は、それくらいおいしいのだ。
みんなで顔を見合わせる。やさしい表情だった。
「毎日こんなご飯が食べられるのかなぁ」
それだったら相当幸せなんだけど。
「わたしたちが生まれるちょっと前くらいまでは、これくらいのご飯が普通だったそうだけど……」
奈緒が落ち着いた頃を見計らって、儚がそんなことを言った。
「え、そうなの?」
なんてぜいたくな時代なんだ。
「ていうか、じゃあなんで今はこんなになっちゃったの?」
「……黒塵のせいよ」
儚の表情が、ちょっと曇った。
「黒塵……って?」
何となく儚に聞くのがためらわれたので、わたしは奈緒を見て、日羽を見た。奈緒は知らないらしく、ぷるぷると首を振ったけど日羽は知ってるみたいだった。
「昔、大裂穴っていう大きな災害があったって、聞いたことないかしら」
「うーん、知らないなぁ」ニュースか何かで名前くらいは聞いたことがあったかもしれない。
「十五年くらい前になるのかしら? 世界のいろいろなところで、とつぜん、地面に大きな裂け目ができたのよ」
「へぇ……」
「日本だと、北海道に一つ。当時はずいぶん、沢山の被害者が出たみたい」
そうだ、ニュースで見たのってその大裂穴十周年だかで北海道が映ってたやつだ。
「そして、その裂け目からは塵が噴き出している。それが黒塵」
「そうなんだ。でもそれと食べ物が、どう関係あるの?」
「塵が大気中に巻き上がって、太陽の光を遮ってるのよ。それで作物が育たなくなって、食べ物があまり採れなくなった、ということらしいわ」
なるほど。大裂穴というのはずいぶん重大な災害だったようだ。
「あ、もしかして今、食べ物が配給なのってそのせい?」
「そうみたい。以前はお金さえ払えば、好きなだけおいしいものが食べられたそうよ」
「へぇえ、昔はいい時代だったんだね」
ね? と奈緒に同意を求めると、うんうんと熱心に頷かれた。ちんまいので何だかかわいらしい。
「大裂穴以前は、空もいつも青く澄んでて、きれいだったそうね」
そう言う儚の目は何だか遠く、笑顔はちょっとだけ、弱々しい。
「今は大体いつでも『夕空』っていうけど、昔は夕空って、日が沈む前のほんの少しの間にしか、なかったみたい」
「きれいな空かぁ……そういえば、昔の映画とかの空って青くてきれいだね。何だろうこれって思ってたよ」
空と言えば、灰っぽい青色とか藍色とか、暗いイメージが強い。ときどき真っ赤になってるときはきれいだと思うけど、それも明るいとは言えない雰囲気だし。
「それも黒塵のせい? なんだよね」
頷く儚。
これについて、日羽が追加で説明してくれた。
「大気に散った塵が、陽の光を反射するのよ。青い光はたくさん反射されると見えなくなって、赤い光が残るから、空が赤っぽくなるのね」
「へえ……く、詳しいね」いまいちよく分からないのは内緒だ。
「ええ……。父の仕事の関係で、よくそういう話を聞かされていたのよ」
日羽は苦笑い。ちょっと喋りすぎた、というかんじの顔だ。
「日羽のお父さんは、学者さん?」
「ええ。そうだったわ」
「だった?」
「もう随分前に、死んでしまったの」
「あ、そうなんだ……」
ちょっと申し訳ないこと聞いたかな、と思ったけど、日羽の顔はそれほど深刻な感じでもなかった。
「昔の話だから、もう気にしてないわよ。だからいいの」
「う、うん。わかった」
こっちとしては、やっぱり多少気を遣ってしまう。でも日羽の態度は本当に気にしてなさそうだった。
「その、黒塵のせいで、なんだか随分色々なことが変わっちゃったんだね」
そうね、と日羽。
暗い話はちょっといやだったので、わたしは話題を変えた。
「えっと。天使さまって、結局どういうことするのかな?」
「ボランティア活動よね。老人ホームとか、児童養護施設に行って話し相手になったりとか、お茶配りとか」
「そういうのって、テレビでよくやってるね」
「そうね。あとは……」
「チャリティコンサート、とか……」
そう、ちいさな声で、奈緒が言った。奈緒が自分から喋るのは、これが初めてだ。この子なりに気を遣ったのかもしれない。
「コンサートって、楽器とか?」
「うん……楽器の天使さまもいるし、歌う天使さまも」
「へぇ……奈緒は行ったことあるの?」
ぷるぷると、横に首を振る奈緒。天使さま好きみたいだから行ったことあるんだろうと思ったけど、ちょっと意外。
ここで儚が話に加わってきた。
「部活、って言ってたわよ」
「部活? っていうか、儚って天使さまと話したことあるの?」
「ええ、入院してたとき、一度だけ天使さまがボランティアで来て。そのときにちょっとだけ、話すことができたの」
まだ少し顔が白かったけど、儚の表情は笑顔だ。いいなぁ儚ちゃん、と呟く奈緒に、奈緒ももうすぐ会えるわよ、なんて返す。もう平気みたいだ。
「……ていうか、部活なんてあるんだ」
「最初から部活として活動してたわけじゃなくて、誰かが冗談で『部活』って言ったのが通っちゃったみたい。わたしたちと同じくらいの年の天使さまばっかりだから」
「なるほど」そういえば、もうふつうの学校へは行けないんだよなぁ。
「いろいろなんだね、天使さまのお仕事って」
「そうね。結局は自分でやりたいことを、やるのかもしれないわね」
やりたいこと、か……。よくわからないな。ちょっとばかり不安が増した気がする。
「さて、ごちそうさまでした」
気がつけばみんなの食事が終わっていた。
色々思うところは、あるにしても。
今はとりあえず、明日からも同じようにおいしいご飯が食べられることを祈ろうと思う。
夕ご飯が終わった後は、お風呂(ホテルみたいにどでかいお風呂だった)。奈緒が妙に服を脱ぐのを躊躇っていたのが印象的。恥ずかしかったのかな。みんながはだかになってしまってようやく、という感じだった。
それが終わると、今日のところは、何もすることがないらしい。寝るにも早い時間だったから、ベッドの上でごろごろしながら話していると、ふいに入口から声が飛んできた。
「あっ、新しいひと、いたよ!」
振り向けば、そこはテレビの中の世界。
病室の入口は真っ白、天使病患者であるところの天使さまたちがひしめいていた。白い髪、白い肌、白い服、女のひとも男のひともみんなものすごい整った顔立ちをしていて、とつぜんその場所だけ昼になったみたいに明るく見えた。
天使さまたちは、うわあやっぱり今回もかわいいなぁ、とか黒髪懐かしいなぁ、などと言いながら次々病室に入って来る。来た。頭を撫でられた。
わたしは大いに慌てて、助けを求めるように奈緒を見た。
奈緒はだめだ。
わたしと同じように頭を撫でられたり、体をぺたぺた触られたりしているけど、目が遠い。口元もふにゃふにゃだった。ここではない、どこかへみたいな。日羽と儚もそれぞれ天使さまにいじられている。どことなく困ったような顔。
白い激流がわたしたちを呑みこんで、どこか遠いところに連れ去ってしまうように思えた。テレビの中の世界とはつまり、夢の中の世界だ。
とんでもないところに来てしまった!
本当だったのだ。ここが天使さまたちの巣だというのは真実だったのだ。今の今まで、実は信じていなかった。ちょっと豪華なところに入院することになったなくらいの気持ちだった。でも違うのだ。ただの病院ではないのだ。
ここは天国、天使さまのまします白い楽園だったのだ!
というぶっ飛んだことを考えてしまうくらいすごい光景だった。全員白くて超美形、後光が差して見えるのだから、仕方ない。ないのだ。
わたしの頭の中まで、ついでに真っ白になった。結局、天使さまたちが満足するまでしばらくいじり回されてから、ようやく解放された。もう、半ば放心状態。
奈緒の状態がいちばん酷かった。
「ぅふふ〜ぅ……」
枕に顔を埋めてなにやら奇声を上げている。笑い声らしい……。ときどき思い出したように足がばたついていた。不気味だ。
「奈緒が、壊れちゃった……」本気で心配そうな声をあげる儚。
「しばらく放っておけば大丈夫よ」冷静な日羽。
そんなみんなをぼうっと眺めながら、わたしはようやく実感していた。
これから本当に、天使さまたちの仲間入りをするんだ。
*
入院最初の夜は、なかなか寝付けなかった。たった半日で、ものすごく色々なことがあった気がする。
何だかずいぶん、遠いところにきてしまったような……。
まったくの異世界だった。入院するのは初めてだったし、同年代の子と共同生活みたいなことをするのも初めてだったし、あんなにおいしいご飯食べるのも初めてだったし、生で天使さまを見るのも初めてだったし、あれ? いいことばかりな気がしてきた。
でも明日からは治療とかするんだろうし、というか、わたしは病気なのだ、自覚ゼロだけど。……やっぱりいいことばかりじゃなさそうだ。はぁ。
ベッドの中でぐるぐる考えながらもぞもぞしていると、他のベッドからも同じような音が聞こえてきた。全然眠くないわたしは声をかけてみた。一応小声で。
「ね、起きてる?」
「起きてるわ」これは日羽の声だ。
「私も」「……うん」何だ全員起きてるじゃん。
「何だか眠れないんだよね」
わたしがそう言うと、皆がそれぞれに同意した。皆同じ気持ちなのかなぁ……。
「ねえ、みんな寂しくない?」
これは儚の声だ。
寂しい、か。わたしはそんなに寂しいとは思っていなかった。美加子とかの友達と会えないのは寂しいけど、親はもういないし。
まず日羽の声が聞こえてきた。
「私は寂しくないわね。こういうときはホームシックになるものかもしれないけれど、私には親がいないし」
お母さんもいなかったのか……。でもやっぱり、そんなに深刻な感じがしない。もう気持ちに整理がついてるかんじの声。
だから、その雰囲気に乗っかって、わたしも自分のことを言ってしまう。
「日羽もそうなんだ。わたしもそうだから、あんまり寂しくはないなぁ。みんな、いい感じだし」
「ふふ、そうね。ここに来るまで不安だったけれど、良かったわ」
「そう言う儚はホームシックとかどうなの?」
「わたしは、慣れてるから」
ずっと入院生活だったから、あまり状況は変わっていないんだと言う。彼女の声は明るい。
「わ、わたしも……」
奈緒の声だった。
「心配してくれるような親、いないから。……ここのほうがいいな……」
消え入りそうな声で言う。曰くありげな雰囲気だった。まぁでも、むしろそれが普通かもしれない。わたしたちみたいにすっかり割り切れてるほうが、珍しいかも。
それにしても。
「みんな、ホームシックとは無縁みたいね」
日羽がどこか楽しそうな調子で、そう言った。わたしも何だか妙に高揚した気分だった。連帯感?
「明日から、いっしょにがんばろうね」
仲間意識らしきものを感じたわたしは、勢いに任せてそう言った。それぞれに返ってくる同意の言葉。
同じ立場の人がすぐ近くにいる、安心感とか。
明日からどうなるか分からない、不安とか。
いろんなものが閉じた目蓋の裏に浮かんで消えて、わたしはいつしか眠りに落ちた。
目覚めれば、明日が来る。