1章、2
わたしが天使病に罹ったことを、育ての親である叔父夫婦に言ったときのことはあまり思い出したくない。というか、そもそも叔父夫婦にまつわる思い出で良かったことなんて殆どないんだけれど。
天使病だった、入院する、と言ったときの顔。
嬉しそうだったな……。
わたしの存在は、あの人たちにとって、金銭的にかなりの負担になっていたみたいだ。天使病患者の治療や生活、一言で言うと何もかも全部、にかかる費用は全て国が負担してくれるそうなので、叔父夫婦はわたしを養う必要がなくなる。
つまり、あの人たちにとって、わたしの存在が消えてなくなるのと同じなのだ。
惜しまれることは全然期待していなかったけど、それでも、ああもあらかさまに嬉しそうにされるとショックだった。人間、やっぱり、お前居なくてもいいです、むしろ居ないほうがいいです、と言われたらかなしい。
まあわたしのほうも気楽にはなるんだけれどね。……とか、無理矢理にでも前向きに考えないとだめだった。
*
入院日は、あっという間にやってきてしまった。家での生活に惜しむようなことはほとんどなかったから、それは良い。むしろ美加子とか、学校関係のほうが後ろ髪引かれる思いだった。
面会謝絶だって言われたから。
メンカイ、シャゼツですよ……。はぁ。
だから余計に。やっぱりというか、最後は泣いてしまった。でもちゃんとお別れをしてこれた、と思う。これからどうなるか分からなくて不安だけど、わたしはその思い出を胸に、やっていけると思うのだ……たぶん。
事前の説明によると、何も持っていかなくていい、というより持ってくるなということだったので、わたしはほとんど手ぶらだった。一番痛かったは携帯NGだったこと。まあ病院だし、それは仕方ないのかもしれない。とりあえず生活必需品は全部用意してもらえるらしい。
いまはお昼過ぎ。わたしは近くの小学校の校庭で、お迎えを待っている。待ち合わせ場所にここを指定されたからだけど、理由は不明。ちなみに日曜日だから、誰もいない。
落ち着かない気分だ。お迎えか、文字通りだよね、とか暗い気分で笑ってみたり。笑った後でため息が出た。
天気は良かった。雲はなく、空はお昼過ぎにしては珍しいくらい深い茜色に染まっている。いつもはもっと薄い、紫とか藍とかそれ系の色なのに。
茜色は、なぜか切ない。
どうにも今の心境に合い過ぎていて、もし神さまでも居るなら、もしやわたしのために用意してくれたのか、なんて普段は全然考えないことに思いを馳せたりしていた。
その夕空の中を、一機のヘリコプターが飛んできた。こちらに向かってくる。ヘリは真っ白だった。天使さまの色。もしかして、と思うわたしの予感を裏付けるように、それはゆっくりとわたしの目の前に舞い降りた。なるほどだから校庭、とかわたしは一人で納得。
ヘリから大人のひとが出てきて、名霧沙凪さんとご家族の方ですね、と聞いてくる。叔父夫婦がすかさずにじり寄って挨拶した。見たこともないくらい愛想がいいその姿をできるだけ視界に入れないようにしながら、わたしはさっさとヘリに乗り込んだ。彼らに最後の挨拶はしなかった。何だか捨て鉢な気分だった。
ヘリの中ってどうなってるんだろ、と思いながら体を引き上げると、目が合った。
先客がいた。
何故か誰もいないと思いこんでいたわたしは、面食らって一瞬固まってしまった。
「はじめまして」
先客であるところの女の子は、何だか大人びた口調でそう言った。
「あ、は、はじめまして」
わたしはぎくしゃくした動作で、外見通りに狭い内部を縦断して、その子の隣に腰を下ろした。
「日野日羽よ。よろしくね」
短くて覚えやすい名前だなぁと思いつつ、お返しにわたしも自己紹介。
「名霧沙凪です。よろしく……あの、あなたも?」
「日羽でいいわよ。あなたの思ってる通り、入院」
やっぱりそうかぁ、とわたしは納得した。
だってものすごい美人なのだ。肌はきめ細かくてきれいだし、長い髪は絹みたいにサラサラでしっとり真っ黒。切れ長の瞳。純和風美人。わたしははぁ、と溜息をついて思わず自分の貧相な胸を見下ろした。わたしと同い年くらいだと思うんだけどなぁ。
「やっぱり人それぞれよね……」
「何がっ?」突然日野日羽がしみじみと呟くものだから、わたしはどきっとして彼女を見た。思わず胸に両手を当てて。彼女はそんなわたしをきょとんとした様子で見ている。
「あ、いえ。あなたも随分落ち着いているようだったから。私の周り、私が天使病だって分かったら大騒ぎだったのよ」
ああ、そういうこと。
「それだったら、わたしの周りもすごかったよ」
わたしは主に美加子を思い浮かべながらそう言った。
「ただ病気になっただけなのにね。そんなに騒ぐことかなぁって」
「同感ね。それだけ、天使の人気がすごいということなんでしょうけど」
日羽もわたしに似て、天使さまに対する接し方が割とドライなようだ。すこし共感を覚えて、ちょっと安心する。入院先でみんな天使バンザイしてたらわたし、やってけないかもだし。
それにしてもそんな二人が天使さまになるとは、何というか皮肉な結果だ。どうせならすきなひとがなったらよかったのに。いや病気だし、よくはないけど。
ヘリが浮き上がった。そういえばヘリに乗るのは初めてだったけど、意外に怖くない。もっとぐらぐら揺れたりするものだと思ってたけど。
ところで。
「なんだか、それっぽいヘリだね……」
わたしはヘリの中を改めて見回した感想として、そう述べた。医療器具っぽいのがそこらの壁に取り付けられていたり、天井からぶら下がっていたりしている。救急車ならぬ、救急ヘリ?
「このヘリ、天使がいつも移動に使っているのをそのまま転用してるみたいね」
なるほど、天使さまは病人だからして、移動中に具合が悪くなっても対応できるようにということですか。
「わたしたち、病気……なんだよねえ……」
今のところ、特に気分が悪いとか具合が悪いという自覚が全くないのでした。だからこういうのを見ても、自分がそのお世話になるところが全然想像できない。
「そうよね……病気、なのよね」
日羽は何だか沈んだ顔で黙ってしまった。わたしと同じで実感がないのか、それとも病気になってしまったことを憂いているのか、よく分からない。
きゅうに雰囲気が暗くなったので、わたしはちょっと焦った。
「ま、まだ全然悪いとこないのに、入院でカンヅメなんて大げさだよね?」
自分でも妙に思えるくらい明るい声で、そんなことを言う。言ってからちょっと失敗したかもと思った。彼女にはどこか悪いところがあったのかも。
だけど幸いというか、日羽はにっこり微笑んで普通に返してくれた。
「そうよね。でも自覚症状がないっていうだけで、水面下では結構進行してるとか……」
「えぇっ」
わたしは思わずのけぞってしまった。なぜなら日羽の笑顔がちょっと怖いかんじ、すなわちにっこりからにやりに変わったからだ。
「お、おどかさないでよ」
「ふふ、言ってみただけよ」
このひとは……。
「大丈夫よ。自覚なくても強制入院で検査なんて、天使病じゃなくてもよくある話よ」
「そうなんだ」でもそれは大丈夫でもなんでもないような。
「病院ってどんなところなのかなぁ」
「そうね、分からないけど……住みやすいといいわよね。噂では結構いいところらしいけど」
「へえ、そうなんだ」
わたしの天使さま知識はほぼ全て美加子から聞かされたものであり、美加子は病院に関する話をぜんぜんしてくれなかったのでその噂の内容は分からなかった。
「これから一生病院暮らし、なんだよね」
「そうね」
「治らないのかな?」
「そういう話、聞かないわよね」
「そうだねえ……」治ってたらニュースになってそうだし。天使さま引退式とか。
うーむ、治らない病気なのにこんなに自覚がないって、アリ? いや痛いより全然いいんだけども。
そんなとりとめのない会話をしばらく続けていると、ヘリが下降した。またどこかの学校に着陸するようだ。
窓から外を眺めていると、中年くらいのおじさんと、その隣に、小柄な女の子の姿。遠目でよく見えないけど、女の子はわたしたちより少し下、中学生くらいに見える。あの子がそうなのかな?
と思っていたら、果たしてその子が乗り込んできた。
その子は不安げな瞳でわたしたちを見ると、なぜか慌てたように目を逸らして離れた席に、しかもこちらに背を向けて座ってしまった。わたしは日羽と顔を見合わせると、連れ立ってその子のところへ歩いていった。
「こんにちは?」
そっと声をかけたつもりだったんだけど、後ろからだったせいか、その子は痙攣したみたいにビクッとなってこっちを振り向いた。
その子も、やっぱりというか、とても可愛かった。肩くらいまで伸びた髪に陽が反射して、輪っかを作っている。何というか小動物系。笑ったら、見ているだけで幸せになりそうな気がする。
するんだけど……。
なんだかものすごくおどおどしているのだ。わたし、何かした?とか不安になるくらい。見た目がかわいらしいので余計に心配になってしまうのだ。虐められてないかなぁとか。すこし変な気分になる表情だ。
「初めまして。日野日羽よ」
日羽の落ち着いた声で、正気に返るわたし。
「あ、わたしは名霧沙凪」
「あっ、ほ、穂ノ村、奈緒です」
かわいい声だなぁ。
「よろしくね。奈緒も入院? あ、丁寧語じゃなくていいよ」
わたしの質問に、がくがく頷く奈緒。激しく人見知りするタイプなのかな。
日羽と二人で、奈緒の近くに腰を下ろす。奈緒は俯いて固まってしまった。どうしようか、という気持ちを込めて日羽を見ると、目が合った。同じことを考えてたと分かって、二人で苦笑い。
「ね、奈緒は天使さまになるって聞いて、どう思った?」
とりあえず無難そうな話題を振ってみる。
「あ、わ、わたしは」
すると、俯いたままではあったけど、奈緒の声にほんのすこしだけ、力がこもった。
「ずっと、憧れてたから……」
そして頬を桃色に染めて、とても幸せそうに、口元を緩めた。
やっぱり笑うと可愛いなぁ。
「すごく、嬉しいなって……」
あぁ、この子も天使さまファンなんだなぁ。
わたしはまたも日羽と顔を見合わせてしまった。どちらかというと奈緒みたいな子のほうが多いって、分かってはいたけども。
それにしても、世の中には病気になって嬉しいという子がたくさんいるのだなぁ。天使病限定だろうけど。どうなんだろ、それって。
「でも、わたしなんかが、ちゃんと天使さまになれるのかなぁ……」
小さい声、また不安げな表情に戻ってしまった。それはきっと身体的なことじゃなくて、ちゃんと天使さまとして社会貢献できるのかなという意味なんだろう。
「それはわたしも、ちょっと心配だな」
だいたい天使さまは具体的に何するのかさえよく分かってないし。
「訓練も何もなくて、いきなり天使やってください、とはならないと思うわよ」
日羽は気楽な構えだ。わたしも彼女を見習おう。
「でも……」
奈緒はやっぱり不安みたい。
「まあ、きっと大丈夫。よくわからないのは同じだし、これから一緒にがんばっていこうよ。仲間なんだし」
ね? と奈緒に向かって首を傾げると、彼女はちょっと驚いたように目を丸くした。わたし何かへんなこと言ったかな。
「うん……」
俯いてしまったけど、でも、その後で安心したみたいに表情を緩めた。
「そうだよね……がんばる。がんばろう」
そしてうんうん頷いて、えへへと笑った。ほわんかオーラがちいさい体からふんわり放射。なんだか和む。
奈緒の緊張もずいぶんほぐれたみたいで、それからは普通の雰囲気になった。わたしはほっとした。これから一緒に天使さまやるのに、ずっとおどおどされてたんじゃちょっといやだしね。