終
終 夕空の下の、天使さま。
結論から言うと、わたしたちの行動は、しっかりと実を結んだ。
日羽がきっかけとなって天使さまたちが立ち上がり、わたしが奈緒と一緒にテレビで告発した一連の事件によって、天使病の真実は余すところなく、世間の知るところとなった。正確に言うとわたしの告発の後にも色々(警察の不祥事発覚とか政権交代劇だとか)あったんだけれど、その中心にいたのは天使さまではなく、政府の息がかかってない医者たちだとか、人権団体のひとだとか、世論だとか、警察だとか、そういう人たち。まあ少しからだを調べられたりはしたけど……その詳細にはわたしはあまり、興味がない。
このことについて重要なのは、ひとつだけで。
つまり、わたしたちの願いは、叶えられたので。
もう、白い天使さまは、生まれないのだ。
単身捨身の自傷行為で突破口を開き、テレビ局で囚われの身となった日羽は、何だかんだで無事だった。その場で取り押さえられはしたものの、直後にわたしたちが起こした事件のせいで警備員に一時待機の命令が飛び、更にわたしの告発を契機に、捕えておくのは無駄だと説得、自力で解放させたらしい。
このひとは別にわたしなんかが何もしなくても、勝手に何とかしたんじゃなかろうか。
「沙凪、かっこよかったわよ」
その本人は今、目の前でにやにや、わたしを見ている。
「天使さまのお仕事、大好きです――なんて、私胸を打たれたわ」
わざわざ身振りまでつけ、告発したときのわたしの真似をしてくれるこのサディスト女を何とかしてほしい。
あぁああぁ恥ずかしい……あのときはへんなテンションになっちゃって心の赴くまま喋ってたから、いつもは絶対言わないようなことを言っちゃってたのだ。一体これからどれほど、あのことをネタにいじられるのやら……。
でも、不安ではありつつも、日羽が無事だったのは素直に嬉しい。
事後、わたしたちは入院生活を続けることになった。場所は元と同じところだけど、普通の病院みたいに部外者のお見舞いがオーケーになった。……と言っても山奥だし、更に元々身寄りのないひとが天使さまに選ばれてたという事情もあり、お見舞い客はほとんど訪れない。外部への連絡も可になったから久々に美加子と話をしたけど、すぐにお見舞いに来る、ということには流石にならなかった。
食事は、残念なことに、普通になってしまった。理由は単純で、予算のせいだそうな。今まで滝のようにお金を下ろしてた今回の黒幕、政府がひっくり返ってしまったので普通の待遇になるということ。無駄にお金のかかってた部分は、それなりにコストパフォーマンスを重視したかたちになっていくということだ。
ちなみに、敷地内の楽園のような庭園は、維持されるそうな。天使さまを使った人体実験の副産物として、植物にも効く黒塵効果抑制剤が完成していたらしい。この技術は広く公開され、今後街には少しずつ緑が戻っていくでしょう、という話をわたしはニュースで聞いた。
そう、植物用のがあるということは、当然人間用の抑制剤もあるのだ。だからそれを使って、今度はわたしたちの、本当の治療が行われる。
もしかして髪の色とか、肩の羽根とか、元に戻るのかなと思ったけど、そうはならなかった。残念なような気もするし、このままでいいような気もする、複雑な気分。
でも薬を打っている限り、症状が悪化することはないでしょう、と言われた。
天使病が死病なのは、もう過去の話になったのだ。
それで。
「お爺ちゃん、元気にしてますか?」
「おおー元気だぁ。天使さまが来てくれたんだから二十年は寿命が延びた気がするぞう」
そう言ってわたしのお尻に手を伸ばすお爺さん。別に寿命延びなくても元気じゃないですか、むしろ延びた寿命をわたしが削ってやろうか……いやだめだっ、他の天使さまが見てる。天使さまは慈愛の精神、南無……じゃなくて。
「沙凪ちゃん、笑顔、笑顔」
奈緒に小声で背中をつつかれた。いや、笑顔のつもりなんだけど。
「あおすじ」
日羽がぼそっと一言。気付けばえろ爺さん、引いてしまってます。これはいけない。
「お爺ちゃん、はい、あーん」
むいていた林檎を差し出す。満面の笑顔、これで完璧!
「沙凪ちゃんそれナイフ!」
「え?」
「ナイフとフォーク間違えてるから!」
「お、おぉ」これはうっかりさん。
「おぉじゃなくって!」
奈緒に林檎ごとナイフを取り上げられた。
「わ、わはは、わっははは、お嬢ちゃんお茶目だなぁ!」
笑ってないで爺は少しくらい反省してください。
というわけで。
わたしたちは変わらず、社会貢献している。結局、わたしたちの生活で変わったところなんて、ほとんど何もなかったのだ。天使さまはまだ、天使さまである。テレビにも出る。むしろ人気は前より、盛り上がったかもしれない。
でもたぶん、それは一時的なことで。
人気なんか関係ない。わたしは今、自分の意志でこうしている。恥ずかしいからもう言わないけど、天使さまが好きでいる。
それがたぶん一番だいじなことで、それだけでいいんだと、そう思う。
*
「あのときの沙凪ちゃんは、ちょっと怖かったよ……」
最近どんどん口数が増え、しっかりしていってる奈緒に、わたしは怒られっぱなし。
「ナイフ突きつけるなんて……」
「そのうっかり加減がまた、沙凪の魅力なのよ」
日羽がしたり顔で説明する。天然はかわいいって言いたいのか。
「あら、不満?」
心底不思議そうな顔。どう見ても作ってるけど。
「こ、これからはもう少ししっかりしますよ」
くちびるを尖らせて反論するけど、どうしても弱いわたし。
一時はどうなることかと思ったけど、病室でまた、こんな風に他愛無いやりとりができて本当によかったと思う。食事グレードダウンは不満だけど、最初に予想してた内容に比べれば、基本的には文句のない結果だ。
「テレビでお話したときは、すごかったのに……」
奈緒がナチュラルにわたしの急所を突き刺した。この子こそ天然。
「そうそう」サディスト女、日野日羽が喜悦に歪んだ表情で相槌を打つ。このひと本当にこの話が好きだな。「白くてやさしい、天使さまでいたいのよね」
そう一字一句覚えてるんだよこのひと! 陰湿だっ。
「天使さまは、慈愛のこころ……」
奈緒がぼけっと呟く。わたしはさらに恥ずかしくなる。
かくなる上は。
「ね、ねえ、助けてよ――、」
「――儚」
「私も沙凪は、格好いいと思うわよ?」
ふんわり花咲くように、お人形さんみたいにきれいな天使さまが、ベッドの上で微笑んでいる。
「いやぁ、ぼくもあれはすごく良かったと思うよ。切々と、涙ながらにぼくらの悲境を訴える……ひとりの立派な天使さま!」
少年みたいな口調の、だけど誰より女の子らしい容姿の天使さまが、その隣で大げさに頷いている。
「いやそれフォローになってませんから!」
突っ込みつつも、こうしてまた和やかにお話ができることを、わたしはろくに信じてもいない神さまに感謝したい気持ちだった。まあいいよね。一応「天使」だし。
そう、儚も、歌撫さまも、ちゃんと生きてる。末期発作で黒くなった羽根は、外科手術で取り除かれ、きれいになくなっている。症状に関しても、ちゃんとしたお薬を打ち始めているせいか、とても安定している。
二人の手首には、黒いバンド。まだ安静にしてなきゃならないけど、わたしたちと同じ白いバンドに戻る日は、そう遠くないという話だ。
あの日、発作を起こした儚は、末期患者のための緩和ケア病棟に運ばれていった。そこは当時立入禁止だったから会いに行くこともできず、結局再会できたのは、わたしたちが起した事件の後だ。
歌撫さまも、同じく元気。
また、みんなで、天使さまができる。
これ以上は望むべくもない、すてきな結果だと思う。
「ところで、あそこのあれって、奈緒の描いた絵かしら?」
ふと、儚がそんなことを言った。
「あっ、うん」
慌てて奈緒が、病室の隅に立てかけておいた絵を取りに行く。
「やっと完成したから、見てもらおうと思って……」
布に包まれたそれを両手で抱えて、奈緒はぱたぱたと戻ってきた。そして儚のかたわらに座り直すと、ゆっくりと、包みを解いていく。
「わぁ……」
ちいさく歓声をあげたのは、誰だったか。
だいじに額に入れられた、水彩画。
淡い色彩のやさしい絵。
本物の純白の翼を生やした天使さまが、ゆるく目を閉じ、夕空の下で微笑んでいる。
輝く天使の輪を戴いた、白い髪の、儚の絵だ。
「素敵な絵……」感極まったように、儚が呟く。
「ほう、うまいね」歌撫さまが感心する。
「本当、才能あるわよこれ」日羽も掛け値なしに褒める。
「えへへ……」奈緒は顔を真っ赤にして照れている。
わたしたちが立ち上がった日を境に、もう二度と描かれないかもしれなかった儚の絵が、いま儚自身の手の中に収まっている。
それはもしかしたら、実現しなかったかもしれないこと。完成しなかったはずの絵が、ここにある。
これもわたしたちの行動の、ひとつの結果なんだ。
「ね、奈緒。この絵の題って、もうつけたの?」
「あ、ううん。まだだよ」
「そっか」
わたしたちは、最後の白い天使さま。
だから、黄昏どきに、幸せそうな表情で微笑む真っ白な天使さま……今のわたしたちに、これほど相応しい絵もないと思う。
「じゃあさ、こんなのはどうかな――」
みんなが、わたしを見てる。ちょっと緊張したけど、わたしは思い切って、その言葉を告げた。
白い天使さまの最後を飾る、そのきれいでやさしく、そして少しだけ切ない、絵の名前は。
『夕空の下の、天使さま』。