3章、6
ある分岐路に差し掛かったとき、きゅうに歌撫さまが進路を変えた。
「歌撫さま!? ヘリはそっちじゃ」
「分かってるよ!」
怒鳴り返されて、わたしは怯んだ。
歌撫さまが行こうとした先にあるものは……。
「年少病棟……?」
「そうだよ。きみらの考えなしの行動のせいで、ちいさい子たちがおかしな扱いを受けるかもしれないんだ」
わたしは大きな衝撃を受けた。歌撫さまの言う通りだった。
「だからぼくは、あの子たちのところに行く」
「わ、わたしも」
「ばかっ!」
反射的に歌撫さまについて行こうとしたわたしは、一喝されて子どもみたいに首を竦めた。
「きみらが行かなくて、誰が行くんだ」
歌撫さまは真っ直ぐにわたしを、奈緒を、睨みつけている。
「言いだしっぺなんだから、しっかり責任取ってよ」
歌撫さまは真っ青な顔で、でも乾いてきた血を補充するために、また腕を切った。
「痛い……! この痛み、無駄にしたら、許さないからな!」
警備員がまた、迫ってくる。一体どこからこんなに湧いてくるのかと思うほどの数だ。
「ほら、早く行って!」
追い払うように、大きく腕を振る歌撫さま。
「沙凪ちゃん……」
奈緒に袖を引かれる。
彼女こそ、年少病棟にいる子どもたちのことが心配なはずだった。なのに先に行こうとわたしを引っ張っている。
奈緒には、自分のやるべきことがちゃんと分かってる。
わたしは……。
「……行こう」
まだ少し後ろ髪引かれる思いがしつつも、わたしは歌撫さまと、歌撫さまに続いた天使さまたちに背を向けて走り出した。
と、数歩も行かない内に、その歩みは止められた。
「放せ……っ!」
歌撫さまの苦しげな声が聞こえてきたからだ。
思わず振り返ると、年少病棟のほうに向かった天使さまたちが、警備員に取り押さえられているのが見えた。
「なんで……」
今までの警備員全員、血を突きつければ怯んで道を開けたのに。どうして急に?
(あ……)
警備員たちの向こうに、白衣を着た大人が見えた。警備員たちの指揮を取っている。何か叫んでいた。
遠くて全部は聞き取れない……だけど、断片から、何を言っているのか分かった。
曰く、患者の体には、治療のための抑制剤が点滴されている。
多少患者の血液に触れたくらいでは、黒雨のような病は発症しない。
――それはわたしたちの武器を無効にする、最悪の情報だった。
その言葉に力を得て、警備員たちは次々と天使さまたちを取り押さえていく。
「そんな……」
腕を取られ、地面に組み伏せられる天使さまたち。
苦しそうな、悔しそうな顔がいくつも地面に押し付けられる。
交錯する悲鳴と怒号。
絶望的な空気が流れる。
だけど、そのとき――。
歌撫さまの様子が、変化した。
「うっ……」
それはもしかしたら、取り押さえられ叩き伏せられるよりも、もっとずっと深い絶望かも知れず。
「うう、うっ」
だけど確かに、どこにも行けなくなりかけた、この状況を打破するもの。
「う、あ、あぁ……っ!」
急速に歌撫さまのシルエットが肥大する。
誰もが口を噤む。
一瞬のうちに静寂が満ちたその場、
ちきちきと、ちきちきと、枯木が折れような不吉な音色が、虚ろに響く。
歌撫さまの肩から生える翼の色は、絶望色、すなわち黒。
「ああああ……ッ!!」
絶叫と共に、
「ひっ……!」
歌撫さまの翼から大量に、真っ黒い液体が飛び散り、
「ひああああ……ッ!」
歌撫さまを取り押さえていた警備員がそれを頭からかぶり、パニックを起こして飛びのいた。
儚と、同じ症状。
天使病の、末期段階――黒変。
「はっ、はっ、はっ……」
浅く速く、繰り返される呼吸はちいさいはずなのに、わたしの鼓膜を強烈に打ち据える。
ゆっくりと――歌撫さまは、黒い翼を背負ったまま、立ち上がった。
天使さまたちは歌撫さまに寄り添い、今にも折れそうな体を支える。
敵は慄き、遠巻きに退いた。
「はっ、はっ、ハ――」
今や全身血塗れの、真っ黒な天使さまになった歌撫さまは、聞いたこともないほど悲痛な声で、絶叫した。
「近付くな……!!
早く、行けっ!!」
「はっ、はいっ!」
それが届いたかどうかは、分からない。
反射的に返事をしたわたしは、奈緒の手を引いて、歌撫さまの声に、姿に、背中を押されるように駆け出した。
歌撫さま。歌撫さま。歌撫さま。
ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。
わたしたち、やります。きっとやり遂げてみせます。
だから、どうか、
どうか死なないでください。
ヘリの発着場まで辿り着いたのは結局のところ、わたしと奈緒と浅川せんせの三人だけだった。ほとんどが歌撫さまと一緒に年少病棟に行ってしまったし、少しだけわたしたちについてきてくれた天使さまも、みんな取り押さえられてしまった。
逃がしてくれた天使さまたちが、どうなるか。歌撫さまの容態や、日羽がどうなったかも心配だ。
だけど、それは今のわたしにはどうにもできないこと。
できるのは、わたしたちが置かれた状況を正しく伝え、天使病なんていう馬鹿げた病気に罹るひとを、もう二度と生み出さないようにすることだけだ。
言うなれば、わたしたちの希望を乗せて、ヘリは飛び立った。
「……話はついたわ」
しばらくの間、外と連絡を取っていた浅川せんせがそう言った。
外とはすなわち、民放局だ。邪魔が入らず、大勢の目に触れ、かつ即時性のある情報伝達手段として、せんせが民間のテレビ局を提案してくれたのだ。
せんせの言葉に、わたしたち二人はしっかりと、頷く。
「私に出来ることは、もうお終い」
「いえ、十分過ぎるくらいです……ありがとうございました、本当に」
奈緒と一緒に、お礼を言う。
偽らざる気持ちだった。
わたしは、もしかしたら浅川せんせが敵かもしれないと思い、このことを話しに行かずに行動を起こしたことを後悔していた。
天使病患者の教師役を買って出てくれたのは、浅川せんせだった。
患者が天使さまとして外に出れるよう病院側に無理を押し通したのも、せんせだった。
いつでも浅川せんせは、わたしたちの味方だったのに。
最後に信じ切れなかった、自分が嫌だ。
「ごめんなさい、せんせ」
「何を謝ってるの?」
「色々です。……疑っちゃったこととか」
浅川せんせが笑ったのが、気配で分かった。
「いいのよ」
「でも」
「むしろ私は、あなたたちが自力でここまでのことをしでかしたことに、尊敬の念すら抱いているのよ」
せんせに尊敬されるほどのことなんて、何もしてない。
「それに、気が付かなかった、私にも罪はある」
「せんせは悪くないです!」
少しの間、せんせは黙った。
「……今からあなたたちがやろうとしてることは、あなたたちにしか出来ないこと」
わたしの言葉に答えずに、せんせは続けた。
「こんな状況に対応する術は、教えられなかったけど」
悔しそうな声だった。
「……あなたたちは、間違ってない。胸を張って、告発しなさい」
かすれる、その声に、
「はい」
わたしたちは、はっきりと返事をした。
真っ赤に染まる夕空の下を、ヘリコプターは飛ぶ。
今度こそ、邪魔の入らない状況で、みんなに天使病の真実を伝えるために。