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3章、5

 日羽が単独インタビューを受ける日、すなわちわたしたちの戦いの決行日の朝。ヘリに乗り、発つ日羽を、わたしたちは見送る。

 これから日羽は、わたしたちだけが知っている真実を、テレビカメラの前で口にする。

 相手だって、これだけ大掛かりなことをしておいて、ばれないための対策を取ってないわけはないだろう。

 だからたぶん、日羽は捕まる。

 もしかしたら、もう会えないかもしれない……。

「日羽ちゃん」

 奈緒は涙混じりの声で、日羽に抱きついた。

「また、……会えるよね」

 日羽は奈緒の頭を撫でながら、しっかりと答えた。

「ええ。必ず」

 口元には微笑みがありながら、でも目はちょっと悲しそうだった。

「沙凪も。元気でね」

 まるで学校帰りにまた明日、と言うみたいな口調だった。

 だからわたしは、余計に悲しい気持ちになってしまう。いや、また会える、と日羽は約束したのだ。だからわたしはそれを信じる。信じればいい。信じないといけない。

 あぁ、わたしはだめな人だ。また会えると信じているのに、どうして涙が出てくるんだろう……。

「日羽……」

「そんな顔しないで。私ならうまくやれるわ。私のことはよく知ってるでしょう?」

 知ってる。日羽は賢い。

 でも、こんなときに自信過剰な台詞を吐くなんてことは、知らなかった。

「また会いましょう。少しだけ痛い思いをするかもしれないけど、次に会うときは笑顔になってるわよ、きっとね」

 まだ知らない日羽がいる。だからまだ、お別れには早すぎる。

「うん。絶対、成功させないと、いやだからね? わたし」

「当然、そのつもりよ」

 日羽の笑顔は力強くて、すこしだけはかない。



 そしてわたしたちは、そのときを待つ。

 日羽が映るのは、ちょうどお昼どき。そのとき、動かすべき相手――すなわち天使さまたちは、お昼ごはんを食べに食堂に集まっている。そして食堂にはテレビがあって、それはいつも、天使さまの番組を優先的に流している。だから日羽の姿をみんなに見せるのに、特別なことをする必要は何もなかった。

 これからのことを考える。すると、逆に、ここでのことが思い出されてきた。

 あまり長い間いたわけじゃないけど、この病院にもずいぶんたくさんの思い出ができた。だから、すこしばかり感傷的な気分が湧いてくるのだ。まるで、卒業式みたいな。

 何か、やり残したことはあるだろうか。

 奈緒は墓地セメタリに行った。でもわたしには、あの場所にそこまでの思い入れはない。

 ……やり残したことなんか、何も思い浮かばなかった。

 だからせめて、みんなと過ごしたこの部屋を、記憶に焼き付けていくことにする。

 入院してから今までに、随分とこの部屋にはものが増えた。最初ただの病室でしかなかったこの部屋は、少しずつ時間をかけて、わたしたちの部屋になっていったのだ。

 これからわたしは、ここを出ていく。

 もう二度と、戻れないかもしれない。

 日羽の机は、整然としている、というより必要最低限のものしか置かれていない。それなのに本棚には本が納まりきらず、床にまで溢れ出しているのがすこし可笑しい。

 奈緒の生活空間は、女の子らしくファンシーだ。机の上からベッドの周りまで、大小さまざまなぬいぐるみで溢れていてとてもかわいらしい。

 わたしの場所は散らかっている。どうも整理が苦手なのだ。でも趣味らしい趣味を持たないわたしは、そもそもものが増えないので辛うじて散らかり具合が致命傷レッドゾーンに達するのを免れている。

 そして、

 居るべきもうひとりが、居ないのだ。今、そこにはただ、白くてがらんどうの空気が漂っている。

「……儚」

 ここに儚が居たことを示す痕跡は、今はもう、たった一つしかない。

 それは、キャンバス。奈緒の場所にはぬいぐるみのほかに、布がかけられたキャンバスがある。それはあの子が少しずつ描き続けていた、そして最近は全然進んでいない、儚の絵だ。奈緒は墓地に行く前、それに布をかけていった。

 もう描けないかもしれない、儚の絵。

 せめて完成したところを見たかったな、と思う。奈緒、うまかったのに。

 でももう、そんな時間はない。

 最後にもう一度だけ全体を見渡して、わたしは部屋を後にした。

 緊張を胸に――食堂へ。



 天使さまが続々と集まってくる。歌撫さまもいる。みんないる。

 奈緒とわたしは緊張の余り、食事が喉を通らない。

 これから自分たちがどれだけ無茶なことをしようとしてるのか……こんな状況でまともに食事できるひとがいたら、そのひとはよほどの偉人か、ただのおばかさんだ。

 隅っこで二人、明らかにダークな空気を発散させるわたしたちに対し、他の天使さまの様子は当然ながらいつも通りの明るいお昼。このかけがえない日常風景を、今からわたしたちが破壊してしまうと思うと、胃がきりきり痛んでくる。

 でもやらなきゃ。

 というか、もうとっくに賽は投げられてる。日羽によって。

 わたしはぎゅっと、ポケットの中のお守りを握り締める。

 そうして、食堂の賑わいも頂点に達する頃。

 テレビに、日羽が映った。



「さて、今日は新しい天使さまの中でも、特に知的な美しさが光る日野日羽さまにお話を伺いたいと思います!」

 いっそ場違いなくらい明るいレポーターさんの声に、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。

 ついに来た。

 食堂の一角を占めるばかでっかいテレビの中に映る、誰よりもよく知ってる天使さま。

 白くて長い髪、知的な眼差しの、無二の友だち。

「日羽さまはご両親が学者さんの、頭脳派の家系にお生まれとのことですが……」

「はい。今日は私のほうから、天使病について話したいと思います」

 レポーターさんが固まった。

 急すぎる話題転換。

 それとも天使病という単語のせいか、

 食堂が、少し静かになった。

「……」

 日羽は少し無言で、まるでこちらの様子を確かめるように、カメラ目線になった。

「ええっと……?」

 困惑した、レポーターさんの声。

「天使病は……」

 日羽がそう言った瞬間、食堂の喧騒が、完全に消えた。

 誰も喋らない食堂に、ボリューム最大の日羽の声が響き渡る……。

 その手には、喧騒をかき消した最大の原因、

 カッターナイフが握られている。

「作られた病よ」

 カメラの前にはっきりとかざされ、何の言い訳もきかない程にはっきりと、それは映った。

 カッターナイフが手首に当てられ、ゆっくりと――深く――引かれる。

 彼女の手首に刻まれる、三本目の傷。

 じわり――血が、黒い血が溢れて手首を伝う。

 レポータの悲鳴。少し遅れて、画面の外からの怒号。

 それら全てに勝る大声で、日羽は叫んだ。

「天使病なんて病気はないわ! 治療と称して黒塵を体に入れられ、私たちは――」

 そこまでだった。

 画面はノイズに塗り潰され、すぐに放送事故を伝えるそれに切り替わる。

 食堂は、おそろしい静寂に包まれたままだった。

 しばらくの間、誰も、何も喋らなかった。

 そこに、一言。

「――やって、くれたね」

 ただ一人、立ち上がる天使さま――歌撫さまの声が、水面に一滴黒インクを垂らしたように、静かな食堂に染み渡った。

 歌撫さまは蒼白な顔で、凍りついたテレビ画面を、凝視している。

 不意にその顔が、わたしたちのほうを向いた。

「きみたち……やってくれたね」

 じっと、おそろしい目付きでわたしたちを睨みつける歌撫さまに対抗するように、わたしは奈緒と手を握り合って立ち上がった。

「はい。……わたしたちが、やりました」

 食堂の全ての視線が、わたしたちに集中する。ものすごい重圧だった。

「どうなるか、分かってやったの」

「……はい」

「とんでもないことを、してくれたね……」

 歌撫さまの視線はわたしたちに固定されて剥がれない。

「こんな……、こんなことをされたら」

 歌撫さまは、何かに耐えるように、絞り出すように、言葉を紡ぐ。

「目の前で、あんな風に、血を流されたら……っ」

 震えを抑えるように、自分の肩を抱いて。

「こんな、気持ちになったらっ……!」

 大きな痛みに耐えるように、大声で叫ぶ――、


「……動くしか、ないじゃないか!」


 まるでその言葉を合図としたみたいに、天使さまたちが、一斉に立ち上がった。

 一様に蒼い顔をして、でも残らず覚悟を決めたような眼差しで。

「ぼくはきみたちを、恨むよ」

 まるで泣いてるみたいな、歌撫さまの声が胸に刺さる。

「……これから、どうするつもり?」

「ここから出ます。出て、本当のことを言います」

「分かった」

 歌撫さまは踵を返して、食堂から出て行った。他の天使さまたちもそれに続く。

 わたしは人知れず、胸をなでおろす。心中はどうあれ、日羽の目論見、天使さまたちを動かすことには成功したようだ。

 日羽の言葉通り――。

 歌撫さまは、あと一押し、きっかけさえあれば行動を起こすだろうと、彼女は言った。前に歌撫さまに本当のことを言ったときの様子から、そう判断したらしい。曰く、弱々しい声色と態度は、迷いの表れ。

 日羽の目は、確かだった。

 日羽は確かに、彼女にできる行動を起し、そしてやり遂げたのだ。

 彼女はもう、傍観者なんかじゃない。

 そして次は、わたしたちの番だ。

「行こう、奈緒」

「うん」

 頷きあって、食堂を出る。

 そのまま外に出ようとしたわたしたちは、ところが、棟の出口辺りで足止めを食うことになった。

 天使さまたちと、制服を着た警備員の男のひとが揉み合ってる。

(……そんな、もう来たの?)

 日羽の行動を知った病院側が、わたしたちの動きを警戒するだろうとは考えていた。だけどこんなに動きが速いのは、想定外だ。

 取り押さえようとする警備員の怒声と、抵抗する天使さまの悲鳴が混じって騒然となった、病棟の出入口。

 警備員の数は二人。でも、これからもっと増えるだろう。

 取り押さえられそうになってるのは、集団の先頭に居た、歌撫さまだ。

「――放せっ! 放せったらっ!」

 必死で抵抗しているけど、女の子の腕力じゃ大の男の手を振り解けない。

 潰される。

 せっかく天使さまたちを動かすことができたのに、その流れが、せき止められる。


 だけど、そんなのは、とっくに予想済みだ。


「奈緒……」

「……うん」

 わたしたちはポケットの中のお守りをぎゅっと握り締めたまま、混乱する天使さまたちを掻き分け、警備員の矢面に立った。

 わたしは大声を張り上げる。

「こっちを見て!」

 警備員だけじゃなく、天使さまたちまでわたしを見る。

 視線が集中する。

 その真っ只中でわたしは、持っていたお守りを、<使用> する。

 日羽のことを想う、

 彼女はこのために、三度も手首を切って、痛い思いをした。

 三度もだ。

 日羽だけに、そんな痛い思いは、させない――。

 お守り、すなわちカッターナイフを、わたしは手首に当てる。

 見せ付けるように、はっきりとかざし。

 決意と覚悟と力を込めて。

 日羽が教えてくれた、わたしたちの、わたしたちだけの武器を、

 わたしは、体の中から取り出した。


「この血はっ、黒塵から出来ているんだ!」

 切り裂く激痛、手首を中心に脈動する、鋭い寒気。脂汗が吹き出る。視界が少し狭まる。でもそんなの、大したことじゃない。

 溢れる黒血で手首を濡らし、わたしはそれを、歌撫さまを押さえる敵、警備員に向けて突きつけた。

「これがつけば、あなたも病気になる!」

 呆気に取られてわたしの自傷を見ていた警備員は、その言葉を聞くなり顔面を蒼白にして飛びのいた。解放された歌撫さまは、機を逃さずその場を離れる。

「ほらっ!」

 そのまま詰め寄ると、小さく悲鳴を上げてその場から逃げて行った。思ってた通り、いやそれ以上の、黒塵がもたらす病気への恐怖が、その顔には貼り付いていた。

 まるで、化物を見るような顔……。

 もう一人の警備員は、同じく泣きながら腕を切った奈緒が追い払っていた。

「……沙凪くん、奈緒くん」

 歌撫さまが、乱れた天使服の裾を直しながら呟いた。視線はわたしたちの腕に向けられている。

 今でもまだ蒼い顔で、歌撫さまは少しの間、じっとしていた。

 と思うと、わたしの手からカッターナイフをひったくる。

「きみたちにばっかり、いいところ持ってかれるわけにはいかない」

 止める間もなく刃を出して、

「ぼくだって……!」

 歌撫さまは、腕を切った。

「うっ……!」

 顔をしかめる。

「痛いな、もう……!」

 見る見る黒く染まる腕を押さえて、歌撫さまは悪態をつく。すこし、涙目になっていた。

「点滴の比じゃないぞっ……」

 当たり前ですよ……。

 見ると、何人かの天使さまは、わたしや奈緒のカッターナイフを受け取って自分の体を傷つけ、血を流していた。

「……行くぞっ!」

 歌撫さまの号令一下、天使さまは外へ向けてあふれ出そうとした――が。

「待ちなさい」

 背後からの声。わたしたちは一斉に振り向いた。

「浅川、せんせ」

 廊下を、わたしたちに向けて駆けてくる、わたしたちの教師、浅川せんせ。

 せんせはわたしたちから少し離れたところで、立ち止まった。

 歌撫さまがせんせに近いところまで出てきた。

「何しに来たの? 先生」

 棘のある声だった。

「もし、邪魔しに来たって言うなら……」

「場合によってはね」

 せんせは感情の掠れた声で、そう言った。

 と思えば、わたしや奈緒、歌撫さまの腕を見て、哀しそうに顔を歪める。

「全く……馬鹿なことを……」

 このひとは味方だ、と、わたしは直感的に思った。だけど本当にそうかどうかは、分からない。歌撫さまは警戒を解いていない。

「一つだけ、確認させて」

 せんせはわたしたちの傷から、目を逸らさない。

「……日野がテレビで言っていたこと。本当、なのね?」

 よく見ると、せんせの体はちいさく震えていた。顔色も悪い。

「本当です」

 わたしは、はっきりと答えた。

「証拠もあります。わたしたちの血に植物を浸せば……」

 せんせはじっと、わたしの目を見た。

「……分かった」

「せんせ……」

「あなたたちは単なる思い込みでこんなことをしてるわけじゃない。そうね?」

「そうです」

 わたしはしっかりと頷いた。

「分かった……、私もあなたたちと、一緒に行く」

「先生は、天使病の本当のことは知らなかったんだね」

「知らなかったわ……今更こんなことを言っても何もならないけど。知ってたら、止めてた」

 せんせの顔が苦しげにゆがむ。

「……こんな……馬鹿なこと」

 やっぱりせんせは、わたしたちの味方だ。

「あなたたち、これからどうするつもりなの?」

「外に出ます。出て、天使病の真実を世の中に知らせます」

「そう……分かった。私がヘリで連れていくわ」

 願ってもない申し出だった。

 せんせの協力によって、目の前に明るい道が開けたような気がした。逃げると言っても、実際のところ、山の中を走って行くのではあまり現実味がなかったし。

「ねえ、行くなら早く。もたもたしてるとどんどん人が集まってくる」

「は、はい」

 歌撫さまの焦った声に急かされ、わたしたちは今度こそ、外へと溢れ出した。



 目指すはヘリの発着場。警備員が現れては行く手を遮るけど、わたしたちは血塗れの腕をかざして、彼らを押しのける。

 怒涛のように。

 わたしたちは、白い波になった。まっさらな体に、黒い毒を塗りつけて。怒りと哀しみを原動力に。全ての間違いを飲み込んで、粉々に砕こうと。

 わたしたちは、走った。


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