3章、4
歌撫さまの部屋は、病棟の四階にある。造りはわたしたちの部屋と同じだけど、今ではあのひと一人だけで、その部屋に住んでいる。
歌撫さまはベッドに座って、ぼぅっと外を眺めていた。今日の空はそれほどきれいでもない。斑な雲が薄青く沈んでいる。
「きみたちから訪ねてくるとは珍しいね……」
緩慢に振り向いて、そう言った。
「儚ちゃんのことかな?」
いつも強気な歌撫さまには珍しい、気弱な微笑みだった。
「知ってたんですか」
「そりゃ、まぁね。姿消す理由なんて、ここではあれくらいしかないし」
わたしは空いているベッドの一つに腰掛けた。奈緒が隣に座る。日羽は立ったままだ。
歌撫さまは、膝を抱えた。
「分かったでしょ? ぼくらが、天使として、しっかりやってかなくちゃいけない理由」
「……それは」
大切なともだちの死に恥じないように、とか。
遠くはない未来に死ぬ自分のために、とか。
でも。
「……歌撫さま」
「何?」
「もし」
「うん?」
「もしも、ですよ」
どうしてわたしは「もしも」なんて言うんだろう。
天使としてしっかりしなくちゃ、なんて話をされたせいだろうか。
これからわたしたちは、それを壊すための話をしようとしているから。
「天使病の、正体が……」
「天使病にはいくつかおかしなところがあるって?」
わたしは目を見開いた。隣に座る奈緒も身を固くしたようだ。
「知ってたんですか?」
「伊達に四年もここで過ごしてないよ。そんな話は毎年出るしね」
面白くなさそうな、いやむしろ、怒っているような調子で、歌撫さまは吐き捨てる。
「美形揃いだとか、病状の進行速度が……特に生翼までの時間が似すぎだとか、他にもいろいろ。くだらない。証拠なんか、何もないのに」
「証拠、」
わたしはそんな歌撫さまの気配に威圧されて、喉に言葉を引っ掛けてしまった。
代わりにそのことを告げたのは、驚いたことに、奈緒だった。
「証拠なら、あります」
歌撫さまがものすごい勢いでこっちを見た。見たこともないような、驚き、の形相。
「……何だって?」
その顔に驚いて、奈緒は少し腰が引けてしまったようだった。
だからわたしが代わりに、ついさっきわたしたちが日羽に見せてもらったことを話した。血を流してみせることはしなかったけれど。
聞き終えた歌撫さまは、しばらく、蒼い顔で黙り込んでいた。
「そんなに……簡単なことだったのか……」
ちいさくちいさく、呟いた。
信じてもらえたようだ。歌撫さまにも、もしかしたら思い当たる節があったのかもしれない。もし信じてもらえなかったら、今度はわたしが血を流すつもりでいたから少し安心した。
歌撫さまの反応は、無理もない。
血が証拠だなんて、知らなかったら分からない。ここでは血が出るような事故なんてほとんど起こらないし、天使さまの人数はとても少ない。さらに少しばかり血がかかったくらいでは、あの変化は起こらないのだ。
……儚の容態が急変したときは、血が沢山出たけど。あれは、例外中の例外だったらしいし。
「わたしたちは、戦います」
わたしは静かに宣言した。
「歌撫さまも、いっしょに」最後まで言えなかった。
「それはできない」
大きな声、硬い、拒絶の言葉。
「……どうしてですか?」
ようやく、それだけを言った。
「ぼくはね」
死人みたいに青白い顔に、死地に向かう兵士のような決意を浮かべ、
「死んでいった子たちのために、最高の人生を送って、ぼくも笑って、みんなの笑顔に囲まれて、死んでやろうって決めたんだ」
歌撫さまは、自分の想いを吐き出した。
「ぼくたちには、天使にはそれができるからね。……きみたちがやろうとしてるのは」
急に話が自分のほうを向き、わたしはうろたえた。
「天使の生活を、壊そうとすることだ」
その通りだ。
そんなことは、分かっている。
いや、分かっていたはずなのに。
いざその生活を守ろうとするひとを目の前にして、
その余りに重い四年間を前にして、
天使さまを続けるということの、本当の意味を、わたしはちゃんと分かっていなかったのだと思い知った。
「……」
でも。
でも、だ。
分かっていなくても。いや、まだ分かっていないからこそ。
「儚は、たまたま病気になったんじゃないんです」
わたしたちは、退くわけにはいかないんだ。
「儚だけじゃない、わたしたちだってそうです。わたしたちは……これまでの天使さまたちみんな……、殺されたような、ものなんです」
歌撫さまはじっと、わたしの目を見た。怖かった。だけど目を逸らすわけにはいかなかった。
ふと、歌撫さまの目線が逸れた。奈緒と、日羽を見ている。二人もわたしと同じように、歌撫さまを見つめている。
心強かった。わたしはひとりじゃない。
「……わかった」
わたしはその言葉を聞いて、一瞬ほっとした。
勘違いだった。
「手伝うことはできない。でも、せめて、今の話は忘れてあげる」
歌撫さまは膝を抱えた腕の中に、顔を埋めた。
わたしたちは、動けなくなってしまった。ショックだとか。何とかならないか、とか。
すると、ずっと黙っていた日羽が、言葉を発した。
「一つだけ、聞かせてください」
歌撫さまは、顔を上げない。
「放っておけば、これからも私たちと同じ境遇の子が生まれる。それでも、いいと言うんですか?」
歌撫さまは、返事をしない。
返事を、しなかった。
長い間そうしていたあと、歌撫さまは一言だけ、ぽつりと呟いた。
「……出てって」
肩の羽根が、少し震えていた。
日羽は踵を返し、わたしたちだけに聞こえる小声で言った。
「……行きましょう」
わたしたちは静かにベッドから腰を上げると、音を立てないように入口に向かった。
後ろから聞こえてくる、か細い声。
「……ぼくの気持ちを、覆さないでほしい」
聞いたこともない、弱々しい声だった。
「あ――――…………」
病室に戻ると、わたしはばたりとベッドに突っ伏した。
めちゃくちゃ疲れた……、精神的に。
まさか、こんなにはっきりと拒絶されるなんて思ってもみなかった。天使さまであるということは、わたしの予想を遥かに超えた重みを持っているということか……。
だけどわたしたちにも、譲れないものというのが、あるのだ。
「あとは浅川せんせくらいかなぁ……」
他の天使さまも歌撫さまと同じ気持ちかもしれないし、だいいち余り面識がないから話を聞いてもらえるかどうかさえ分からない。
「先生もきっと、駄目だと思うわよ」
日羽の声は冷たい。
「なんで? 話してみないと分からないじゃん」
簡単に諦めるわけにもいかない。やれることはやらないと。
「……先生に話すのは、歌撫さんに話すのよりリスクが高いってこともあるわ」
「せんせがグルだってこと?」
日羽は回答を避けた。わたしはせんせがそうだなんて考えたくないし、たぶん日羽も同じなんだろう。
でも……。確かに日羽の言うことは、一理ある。
……そもそも、誰がどこまで知ってるんだろう。わたしたちが真相に気付いている、ということを「敵」に気付かれたら終わりなんだから、その辺りはっきりさせておきたいところではある。
と言っても、当たって砕ける方法しかわたしには思いつかない。
「う――――…………」
砕けちゃ困る。今のところ仲間は三人しかいないのに、率先して欠けるわけにもいかない。
「……少し落ち着いて、これからのことを考えましょう。捕まったらお終い、焦りは禁物だと思うわ」
わたしは一刻も早く、この馬鹿げた真実を暴いてやりたい、
だけど今は、日羽の言う通りにするのが正解なんだろうな……。
結局、いい案は思い浮かばずに。
わたしたちは真実に気付いていることを隠すために、薬も点滴も、今まで通り続けることにした。
*
平行線を辿った一週間後、日羽がとんでもないことを言い出した。
「テレビで告発するわ」
「え?」
わたしと奈緒は驚いて日羽の顔を見た。
「来週、私だけが生中継で取材を受ける予定が入ったから。そのときに」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それは駄目だって言ったの、日羽自身じゃないか」
日羽の目は、本気だ。
「……玉砕する気?」
「もちろん、そんな気はないわ」
「じゃあ、どうするつもりなの?」
日羽は賢いひとだ。無謀なんて言葉は、似合わない。
今も、きっとそうだ。
「目的は、告発そのものではないの」
でも、その考えはわたしには分からない。
「どういうこと?」
「目的は、ここの皆を、動かすこと」
「ここの皆……天使さまたちを?」
ええ、と日羽は頷く。
「どうやって……いや、それよりも、そんなことしたら日羽の身が危ないんじゃ」
捕まって……二度と外に出られなくて……。
「承知の上よ」
「そんな」
日羽らしくない。
こんな風に、まるで捨て身みたいに、自分から虎の穴に飛び込むような真似……。
「私たちだけじゃ無理でも、ここの皆で一斉に動けば、きっとここから逃げられるはず。そこで今度こそ、本当の告発をするのよ」
「待って、だめだよ、日羽だけにそんな危ないこと……だいたい皆で一斉に動いたからって本当に逃げられるかどうか……。そんなあやふやな計画」
わたしは何としても、日羽を止めたかった。
「沙凪」
でもそんな風に強い調子で名前を呼ばれたら、黙るしかない。
「誰かが、やらないといけないのよ」
じっとわたしの目を見て、日羽は告げる。
彼女の覚悟を。
「このままでは何もできない。壁に囲まれたまま、いずれ、私たちも儚と同じようになってしまう。だから、誰かが、壁に穴を開けなければならない。そして、真実を明るみに出すための、流れを作る。その役がたまたま、私だっていうだけの話よ」
「でも……それなら、わたしも」
「だめよ。私がやろうとしているのは、ただの布石に過ぎない。それにこれは、私だけがやれば済む話よ」
彼女はいつでも、論理的だ。だけど、今回ばかりは。
「でも、そんな、理屈で納得できることじゃない」
そう言うと、日羽は、少し哀しげに目を伏せた。
「……私はずっと、動かなかった」
「え?」
「真実に気付きながら、ずっと傍観者のままだった」
「……日羽?」
「もう、そんな自分は、嫌なのよ」
日羽の目は鋭く、虚空を睨みつけていた。まるでそこに、自分の嫌う自分が見えているかのように。
「私はもう傍観者では居たくない。私は自分の手で壁を壊して、道を作っていきたい」
日羽の気持ちが、わたしを打った。
このひとはもうやると決めてしまったのだと、理屈ではなく、納得した。
気持ちは同じだ。儚のために。わたしたち自身のために。もう新たな天使さまを、生み出させない。
その気持ちをかたちにしようとしているひとを、どうしてわたしは止められるだろう。どうしてその想いに、応えないでいられるだろう。
「……分かった」
日羽の表情が和らぐ。
「日羽ちゃん……大丈夫、だよね」
不安そうな奈緒の言葉に、日羽ははっきりとした声で応えた。
「当然。無策でなんて、臨まないわ」
そこにあるのは、確信的な笑顔。
日野日羽は、冷徹な論理に裏打ちされた女だ。
だけど今回ばかりは、その笑顔はまるで、強がりみたいに見えた。
それでも、わたしたちはやらなければならない。それがあやふやな、計画とは呼べないきっかけでしかないとしても。
何も変わらないまま死ぬなんて、できないから。