3章、2
「日羽」
わたしはあのことについて問い質すことを決心した。自分でも驚くほど、無感情な声が出た。
日羽は声に出しては返事せず、視線だけでわたしの言葉に反応した。そしてちら、と奈緒のほうを見る。彼女はベッドの上で、膝を抱えて塞ぎ込んでいた。このところずっとそうだった。
だけど、この話は、奈緒にとっても無関係じゃない。
「前に言っていた話」
日羽は何も言わない。
「天使病が」
決心したはずなのに、それを実際に口に出すのには抵抗があった。苦労して喉の奥から、言葉を引きずりだす。
「偶然じゃないかもしれないって話」
奈緒がはっとして顔をあげた。怯えるような表情。
ずいぶん長い間、日羽は黙っていた。その間、わたしは日羽の目を見詰め続けた。
やがて、根負けしたように、日羽は目を逸らした。
彼女が口を開く。
「天使病なんて病気は、無いわ」
「証拠は?」
わたしは言う。疑っているわけじゃなかった。単にそれは、日羽が掴んでいるであろう証拠の提示を、求めただけだ。
それを聞くと、日羽は机の中からカッターナイフを取り出した。そして自分のマグカップの上に、手首とカッターをかざす。
ぎち、と音を響かせて、日羽はカッターの刃を出した。
不吉な空気が、場に満ちる。
「……日羽。何するつもり」
わたしの言葉も半ばに、日羽はその手にもったカッターで、自分の左手首を、ざっくりと切り裂いた。
血の気が引くのを自覚する。奈緒が隣で悲鳴をあげる。
「何、してるんだっ」
手当てしようとしたわたしを、日羽は蒼白な、だけど強い視線で睨みすえて制止する。
「黙って、見ていて」
確かな意志の光に中てられて、わたしは動けなくなった。
黒い――真っ黒い血が、日羽の左手を伝い、ぽたぽたとマグカップの中に落下していく。雫、雫、黒い血の珠……。
長い、長い間そのままでいた日羽は、ふいに傍らのタオルで手首を押さえると、手際よく止血して包帯を巻いた。
そして病室の隅に歩いていき、花瓶から一輪、緋色の薔薇を抜き取った。
日羽の手から薔薇が放たれ、マグカップの中に、落ちる。
日羽の――いや、わたしたち天使さまの血に、薔薇が触れる。
少しの間、変化はなかった。
始めに起きた変化は、音。
きちきち、
きちきちと、
何かが擦れるような音がする。
小さい音だった。誰かがお喋りしていたら聞き取れないだろう、そんなかすかな――薔薇の悲鳴。
日羽の白い指が、マグカップの中の薔薇をつまみあげる。
姿を現した薔薇は……真っ黒に濡れて、雫を垂らすそれは……、
もう、薔薇とは似ても似つかないかたちになっていた。
枯木が折れるような不吉な音色を撒き散らしながら、歪にねじれ、ささくれ立ち、割れて枝分かれしては一部が剥がれて落ちて行く……、そしてまた、生え変わる。
見たことのある変化。
これは、まるで……、
まるで儚の羽根と、同じ様子だった。
やがて変化は落ち着き、後には枯れた、一輪の薔薇が……。
「見たことないかしら。この、花の様子」
言われてわたしは思い当たる。確かに、見たことがある。
「道端の……」
日羽が小さく頷く。
「道端の、草の姿」
そう、その薔薇の、黒く干乾びたような姿は、雨晒しの草の、成れの果てにそっくりなのだった。日羽が手を放し、黒く枯れた薔薇は落ちていく――着地したそれは、粉々に壊れてばらばらになった。
天使さまの血に浸された薔薇の花が、儚と同じような変化を経て、雨晒しの草のような姿になった。
つまり……。
「私たちの血は、黒塵と同じ反応を示す」
日羽は淡々とした口調で、しかし厳然と宣言した。
「同じ畸形を、生命にもたらす……」
念を押すように、同じ内容の言葉を繰り返す。
もう、分かっている。日羽が何を言いたいのか。そして日羽は間違ったことを言っていないことを。目の前に、紛れも無い証拠が示されていると。
でも。反論しなければならない。でないと。
「黒塵が、わたしたちの血の中に溶けてるって言いたいんだよね」
日羽は頷く。
「でもそれは、天使病がそういう病気だっていうだけの話じゃないの? たまたま、血が黒塵みたいになる病気」
「自然発生した病気が、偶然黒塵と同じ反応を示すなんて、有り得ないと思うわ」
「じゃあ、……今でも黒塵は大気中に散ってるんでしょ? それが取り込まれただけなんじゃ」
「それも違うわ。天使病が確認され始めたのが約十年前、その頃には黒塵の濃度は落ち着いていて、それによる病気の報告も殆どなされなくなっていたもの。今に至るまで、新たな天使病発症者が出ていることが説明できない」
「……体に入った黒塵が、勝手に増殖したとか」
「黒塵はウィルスじゃないわ……自己増殖したりしないの。そうでなければ、濃度が薄まっても、被害は収束しないはずだもの」
「……」
反論は、ことごとく潰されてしまう。
「それに」
日羽は、望んでもいない駄目押しを呟く。
「天使病が偶然だとしたら……天使の持つ共通性、例えば誰もが身寄りがないか家庭に問題があったり、おかしなくらい美形だったりすることの説明がつかない。初めから、そういう人間を選んで連れてきていると考えるのが自然だわ」
何か反論したい。日羽の言うことを認めたくない。
それなのに、わたしの中からは何も出てこない。
「私の父は、黒塵の研究者だったの。ちいさい頃の私は父の研究室によく出入りしていた。その頃に父は死んでしまったから、それが私に残る、父の唯一の記憶。だからよく覚えてる。この……黒塵の反応のことは」
そして、黙りこむわたしの気を知ってか知らずか、日羽は、言葉を継いでいく。
ため息を、つきながら。
「……もう、分かるわよね」
分かりたくない。
「……自然に発生したものではない、体内で増えもしないとすれば」
その先は聞きたくない。
でも……。
「外から入れられるしかない――つまり」
……日野日羽は、残酷な女だ。
「私たちが毎日受けていた、点滴。あれに、塵の成分が入っていたんでしょうね」
だとしたら。
「儚、は」
口の中がからからだ。舌がうまく回らない。
「儚は……病院に、病院のせいで、あんな目に遭った、ってこと?」
「儚だけじゃないわ」
日羽はあくまで淡々と、言う。どうしてこんなに冷静なんだ。
「わたしたちも。今までの、天使たちも」
日羽は髪をかき上げた。
その左手首には、白い包帯が巻かれている。
ああそうか、とわたしは悟った。
前に日羽が、わたしにこの話をしたとき、そのときも彼女は左手首に包帯をしていた。
日羽はそのときも同じことをしてたんだ。あのときもう、天使病が偶然ではないという証拠を確認してたんだ。
もうずっと前、わたしたちが白くなった頃から、知ってたんだ……。
だったら。
「どうして」
知ってた、のに。
「どうして、止めなかったの」
もっと前に止めておけば、儚は、あんな苦しい思いをせずに済んだんじゃないのか。
点滴なんかしなければ。薬なんか飲まなければ。
「どうして、止めなかったんだ!」
そうすれば、儚はもっとずっと、天使さまで居られたんじゃないのか!
「どうして!!」
「やっ、やめて、沙凪ちゃん!」
気がつけばわたしは日羽に手を伸ばしていて、その腕に、涙でぐちゃぐちゃになった奈緒がすがりついていた。
「やめてよ……けんかしないで」
「……ごめん」
急に気持ちがしぼんだわたしは、離れてベッドに座り込み、膝を抱えた。
沈黙。
やがて日羽が、ぽつぽつと、喋り始めた。
硬くて痛いものを吐き出すような、告白……。
「……私は、どうしていいか、分からなかったの」
こんなときでさえ、いつもと変わらない、冷静な日羽だと思っていた。
そうじゃなかったと、わたしはこのとき初めて理解した。
「私は、やめさせるべきかもしれないと思った。でも、儚と奈緒の顔を見ていたら」
奈緒が顔をあげ、赤い目で日羽を見た。
「やめさせたら、天使になれなくなる……。だから、私は」
日羽の声が、そのとき初めて、ふるえた。
「とめられなかった」
いつもと変わらない、冷静な日羽なんかではなかった。
それはただ、どうしていいか分からないから、いつも通りにしかできないだけだった。
無表情な日羽の目から、涙がひとすじ、つ――と落ちた。
「私には、できなかったの……」
「……日羽」
日羽だって、つらくないわけじゃない。
そんなの当然だ。日羽だってわたしと同じ気持ちなんだ。一緒に羽根が生える痛みに耐え、天使さまとして手を取り合った、たいせつな友だちなんだから。
「ごめん、なさい」
「ううん、日羽……こっちこそ、ごめん。言い過ぎたよ」
「でも」
それでも納得しない日羽に、わたしは首を振った。
「第一、日羽のせいじゃない。わたしだって……」
そう、わたしだって日羽の話を聞いていたのに、結局何もしなかった。やろうと思えばわたしにだって、止められたはずだ。
日羽のせいじゃない。日羽の話を本気にしなかった、わたしにも責任はある。
「それに、途中で点滴やめたって、本当に止まったかどうか」
「……そう、ね」
日羽はまだ、申し訳なさそうな顔をしている。
その表情一つ見ても、よく分かる。日羽はわたしたちと、同じ気持ちだと。
本気に決まってる。でなければ、わざわざ自分の手を切って――こんなにも沢山の血を流してまで、事の真偽を確かめたりしない。
「日羽のせいじゃ、ないよ……」
何度も念を押して、ようやく日羽の表情は、すこしだけ和らいだ。
「……ありがとう。沙凪」