3章、1
三 天使さまの体には、黒い血が流れている
褪めた月の光が、眩い夜だった。
音が聞こえる。
ちいさく、かすかな、軋む音。
夢うつつのちいさな吐息。
ぼんやり目を開けば、そこは灯りの落ちたいつもの部屋。月の光がカーテンの隙間から細く射し込み、わたしたちのベッドを蒼白く照らしていた。
何の音……?
誰の声?
きちきち、きちきちと、硬いものが、擦れ合うような音。
不安を誘う音……、
時折響く、押し殺した声が誰のものなのか、その意味するところが何であるのか、理解したわたしは、飛び起きた。
「儚!?」
お腹の底がひっくり返るような、嫌な感覚がする。
「は、う、うっ……」
目覚めた意識にくっきりと刻まれる、苦しそうな喘ぎ声。
外からの仄かな光に照らされ、かすかに浮かぶ儚のベッド。その上に、何か大きなものが、のし掛かっているのが見えた。
なに……あれ……。
暗闇に同化する黒いもの。うつぶせの儚の背中にとりつく、いびつな形の大きな何か。そこから聞こえてくる、異様なくらい耳につく、枯木が折れるような不吉な音色。
「どうしました?」
部屋の入口から、場違いに間延びした声が聞こえてきた。
少し遅れて、灯りが点く。一気に緊張する、入口の気配。
儚の背にあるものが、蛍光灯に照らされた。それはまるで、奇妙にねじれた異形の彫刻。でもどこか生物的な質感を持っていて、そしてそれは濡れていて、黒い雫を、シーツの上に、ぽた、ぽた、と垂らしていた。
それは、儚の肩の辺りから生えていた。
天使の羽根の替わりに、生えていた。
黒くて大きい、いびつな翼。
そこから時折、割れるような音が聞こえては小さく揺れ、黒い飛沫を散らしながら、きちきち、ぱきぱきと、細く枝分かれしていく。
儚の肌は、いつもと変わらない白……だけど羽から散った黒い何かで汚れ、無残な斑に染まっていた。
「は、ぁ、うっ、ぐぅっ……!」
一際大きな苦鳴が漏れると、それにともない翼が揺れる。
ベッドはすでに、真っ黒だった。
「あぁあぅ、うぁぁっ!」
ずる、と、片側の羽が傾いだ。そのまま肩から剥がれて床に落ちる。ごりごりという音が聞こえて折れた羽が生え変わっていく。
泣きながら駆け寄ろうとした奈緒が、いつのまにか増えていた看護師さんに取り押さえられる。泣き叫ぶ声が、わたしの鼓膜を震わせる。
わたしは無意識のうちに、自分の体を抱き締めた。
担架に移され、運ばれていく、儚の体。
顔は苦痛一色で、汗と涙に塗れていた。
儚は、戻ってこなかった。
儚の血で汚れた一切はすでに清められて、元の通り、真っ白になっている。看護師さんたちが、掃除していった。ゴム手袋つけて。汚いものでも扱うように。こんなに激しく、急なのは初めてだ、とか、言っていたけど、そんなのは知ったことじゃない。儚の血は汚くなんかない。でも怒る気力はからっぽだった。
持ち主の居なくなった、ベッド、机、クローゼット、本棚、その他諸々。何もかもそのままなのに、一番肝心なものだけがなくなってしまった、生活の抜けがら。
日羽も、奈緒も、ずっと無表情で黙っている。そしてわたしも。
食事も喉を通らない。
最低限の反射だけで進める、反復行動としての日常生活。
停滞した空気が、重さを持ったように、わたしたちの上にわだかまっている。
とても大切なものが、欠けてしまった。
分かっていたはずだった。
はずなのに。
わたしたちは天使病。
いずれ死に至る、不治の病の犠牲者なのだ。
けして目を逸らしていたわけじゃない。だけど、現実は想像していたよりも、もっとずっと、酷かった。
こんなにすぐに。
あんなにも、辛そうな。
儚の姿。お人形さんのようにきれいな彼女に、あんな、怖ろしい形の何かが生えるなんて。
痛がってた。苦しんでいた。目を閉じ、歯を食いしばって、耐えていた。
どうして。
どうして儚が、あんな目に遭わないといけないんだ。
子どもの頃から入院していて、天使さまになれると分かって喜んでいた儚。
天使さまになって、ようやくみんなのためになれると、張り切っていた儚。
いつでも優しく笑って、空気を和らげてくれた、わたしたちの大切なともだち。
儚が何か、悪いことをしたのか?
病気だから仕方ない?
天使病に罹ってしまった現実を、嘆くしかない?
いつかこうなる運命だったと、受け入れるしかない?
――いや、そもそも。
天使病に罹ったことは本当に偶然だったのかと、そう言ったひとが居た。