2章、7
そして順調に、わたしたちの症状安定化宣言がなされ。
「みんな、今までお疲れ様。これで全課程修了よ」
点滴スタンドの消えた教室に、浅川せんせの声がこだまして。
ついに、わたしたちが天使さまになる準備が、整ったというわけだ。
「あなたたちは、立派な天使さまになれると思う。自信を持って外に出て行きなさい」
せんせが力強い笑みで激励してくれる。こういうときには定番の台詞なんだけれど、やっぱり定番になるにはそれなりの理由があるんだなと思った。
何とかなるような気持ちに、少しだけなれた気がしたから。
……言う人や状況によっても、変わるものかもしれないけど。
「まあ、まだ最後のしめがあるから。それとも最初のしめと言うべきかしら?」
「宣誓の儀式……ですよね」という儚の言葉に、頷くせんせ。
歌撫さまが言っていた、宣誓の儀式。要するに、天使さまの入学式(学じゃないと思うけど)のようなものなんだろう。詳細不明。特に予行演習なんかはないらしい。
「そう。それを以ってあなたたちは正式に天使になり、外へ出て社会貢献するようになる」
場の雰囲気がぴしっと張り詰めたような気がした。
「明後日やるわよ。楽しみにね」
その日の晩から次の日一日は、その話題で持ちきりだ。
「結局何するんだろうねえ、宣誓の儀式って」
「予行演習がないことだし、そう複雑なことはしないんでしょうね」
日羽はいつも通り、落ち着いている。
「でっ、でも、き、緊張するなぁ……」
対して、どう見ても緊張しすぎな奈緒。いや、気持ちは分かるんだけど、前の日からそんなになっちゃって大丈夫なんだろうか。
「私たちの記念すべき第一歩ね」
そう言って笑う儚は、適度な緊張感を持っているかんじ。
儚自身は楽しそうだったけど、それを聞いた奈緒は更にがちがちになってしまった。記念すべき、という辺りが緊張を催す、のかなぁ。
「みんな無事に天使さまになれて、良かったわよね」
「うん……」
儚と奈緒は和やかに話しているが、わたしと、あとたぶん日羽にも、何か違った意味に聞こえてしまった。
確かに無事は、無事なんだけれど。
儀式前日の夜は、何だか寝付けなかった。わたしがベッドを抜け出してベランダで一人、ぼぅっと真っ黒な夜空を眺めていると、誰かが隣にやってきた。
「眠れない?」
儚だった。
「何だか、ね」
外は寒いので、頭を冷やすにはちょうど良かったのだ。
「日羽と奈緒は?」
「奈緒は緊張しすぎじゃないかしら? 疲れて眠っちゃったみたい」
ふふ、と優しく笑う。
「日羽は逆に、緊張とは無縁かしらね。いつも通りという感じ」
「そうだねえ……」ここに来ていきなり緊張されたら、違う意味で心配してしまう。
「ようやく、天使さまになるのよね、私たち」
「うん」
「待ち遠しかったな……」
わたしはおや、と思った。ちょっとニュアンスが、いつもと違うように思えたのだ。なんだかもっと前、天使病に罹る前から、ずっとそう思っていた、みたいな。
「うん。……私、ずっと『何か』になりたいなって、思ってたの」
何かに、なりたい。
何となく、分かるような気がした。それはたぶん、何のために生きるのか、とかそういうことなんだろう。
「前にも言ったと思うんだけれど、私、ずっと入院してたの」
「うん」
重い症状ではなかったけれど、病院から離れられるわけでもなかった、という話。
「ただ単に入院してるだけって、ほんとうに退屈なのよ」寂しげに笑う。「ここは違ったけれどね。授業とかがあって、それが未来に繋がっていると思えたから」
わたしは小さく、本当に小さく溜息をついた。儚は、気付かなかったと思う。
未来に繋がっている、という言葉。どうなんだろう。
天使さまたちの墓地を思い出す。わたしたちの、未来の姿。
「あの頃の私は、何のために生きているんだろう、って思ってた。他の子たちは学校に行って授業を受けている。その先で社会に出て、誰かのために、働く。でも病院で何もせず、ただ治療だけ受けている私は」
儚の声が、少しずつ硬くなってきたような気がする。
「私はただ、他のひとに迷惑をかけて生きているだけなんじゃないか、って、そう思ってた」
「儚」
その様子があまりに寂しそうなので、思わず名を呼んだわたしに、儚はごめんねと笑って続けた。
「だから天使病だって言われたときは、嬉しかったわ。天使さまになれる、そうすればみんなのために生きていける。ずっと何の役にも立たなかった私に、居場所ができる」
居場所。でも、それは……。
「天使病は」
きゅうに背後から声が聞こえて、わたしたちはびっくりして振り返った。
日羽がいた。
「日羽……起きてたんだ」
おどかさないでよ、と続けようとしたわたしは、しかし、その声を飲み込んだ。
日羽はずいぶん怖い顔で、儚を見詰めていた。
「天使病は、ただの病気。だから天使になるのは、自分の力で切り開いたわけじゃない、ただの結果論」
まるで責めるような硬い声で、日羽は囁く。
「儚は、そんな風にして得られた居場所でも、構わないというの?」
止めるべきか、と思った。日羽が何故そんなことを聞くのか、わたしには分かる。分かるけれど、これは、儚には余りにもつらい問いかけのはずだ。
そんな、わたしの想いに反して。
儚は、ふわりと笑って、それに答えた。
「偶然でも、構わないわ」
きっぱりとした声だった。
「要するに、私が誰かのために何かをできる、という事実があればいいの。私にとっては、天使病に罹ったというのは、幸運なことだったの。私はその幸運を、めいっぱい活かすつもりよ」
わたしは儚の言葉に、愕然とした。
天使病に罹ったという、幸運……。
……何てことを言うんだろう。
「……そう」
日羽の顔は、相変わらず険しかった。だけど声からは、厳しさが抜けている。肯定でもない、納得でもない、それはまるで、諦めみたいな声音だった。
「儚の気持ちは、分かったわ……あなたは、強いのね」
「……ありがとう。日羽」
日羽は背を向けた。なんだかその背が、ちいさくみえた。
「邪魔したわ。明日、儀式でみっともない姿をさらさないようにしなきゃね」
日羽はおやすみ、といって病室に戻っていった。
「私たちも、そろそろ寝なきゃ」
「あ、うん」
儚は長い髪、細い手足を軽やかに揺らして、日羽に続き病室に戻って行った。
わたしは少しだけその場に止まって、真っ暗な空を一瞥した。
「……原因はどうあれ、か」
儚はすごいな、と思った。彼女は見つけたのだ、自分なりの答えを。迷いない眼で自分と、自分の行く先を見詰めている。
うらやましいなぁと思う。わたしにもいつか、自分の答えを見つけられるだろうか。
*
宣誓の儀式。
出席者はわたしたちと、浅川せんせと、現役天使さまたち。
会場は墓地、の中。巨大な石の十字架の中にある、教会のような雰囲気の小部屋だった。墓地に扉があるのは知ってたけど、施錠されてたから入ったことはなかった。
中央に通路、両脇に十列ほどの長椅子が並んでいる。いちばん奥は壇になっており、壁のくぼみには、純白の天使像が収められていた。
室内の灯りは蝋燭の炎だけで、薄暗いけれどとても厳粛、かつ幻想的な雰囲気になっている。お香が焚かれているらしく、不思議な香りが満ちていた。
わたしたち四人は、最後列にちょこんと座っている。前のほうには現役天使さまたちの列。一番前に歌撫さまがいるのが見えた。そして壇には普段のジャージっぽい姿ではなく、黒を基調とした礼服に身を包んだ、浅川せんせの姿があった。
喋るひとは、誰もいなかった。
静謐な空気が、揺らめく炎に照らされている。
「――では、今期の誓約の儀式を始めます」
浅川せんせが静かにそう告げると、ざ、と前列の天使さまたちが一斉に立ち上がった。わたしたちも慌てて立ち上がる。そうする間に天使さまたちは皆、中央の通路のほうに向き直っていた。
「白河儚」
「……はい」
まず初めに名を呼ばれた儚が、ゆっくりと天使さまたちの間を通って、壇に向かう。天使さまたちの視線はさまざまだったけど、だいたいは優しげな表情で、歩む儚を眺めていた。
儚がシスターのような雰囲気を纏った浅川せんせの前まで辿り着く。
せんせは、誓句を詠み始めた。
白河儚よ。
汝は常に誇り高く、
また尽きることなき慈愛を以って、
この黒き濁世に於いて
浄潔の御手と無垢なる翼持つ
白き癒し手となり
儚き命を全うすることを誓うか?
いつか、どこかで聞いた――いや、見た言葉。
それは天使さまたちの墓碑銘と対になった、誓いの言葉だった。
わずかだけど長い沈黙の後、
「――誓います」
と、儚は静かに、力強く、応えた。
浅川せんせはそれに頷きで返答すると、
「では、頭を下げて」
と言った。
儚が言われた通りに、少し頭を下げると、せんせ自身の手によって、そこに白い花で作られた冠が載せられた。白い花の、天使の輪だ。
「これであなたは正式に、天使として認められました。今の気持ちを忘れず、尽くしなさい」
「……はい」
儚はこちらに背を向けているので表情は分からなかったが、想像はできた。声が少し、震えていたから。
今、また一人新しく、純白の天使さまが誕生したのだ。
果たして戻ってきた儚は、目を赤くしながらも薄く微笑んでいた。わたしは自分の番がまだだというのに、もらい泣きしそうになってしまった。
「名霧沙凪」
「は、はいっ」
わたしは反射的に答えると、慌ててせんせの元へ向かった。天使さまたちの間を通るときはものすごく緊張した。壇の直前で歌撫さまが笑いながら「もうちょっと落ち着きなよ」、壇に辿り着くとせんせがやっぱり少し苦笑いで「大丈夫よ、リラックスして」と小声で言ってくれた。そうして儚のときと同じ誓句を詠み上げた。
わたしはできるだけの気持ちを込めて、
「誓います」
と言い、言われるがままに頭を下げ、花の冠を載せてもらった。
緊張で頭が真っ白になってしまった。顔が赤くなっているのがはっきり分かってしまい、そのせいで更に恥ずかしくなる。悪循環。
ほうほうの態で元の場所に戻ったわたしは、すぐに椅子に座りたくなったけど、みんなが立っているのに一人だけ座るわけにもいかない。
「立派だったわよ」
と、一足先にやることを済ませて余裕の儚から声をかけてもらい、ようやく落ち着いた。あぁ、終わったんだなぁ。
わたしが後遺症に四苦八苦している間に、日羽は立派に役目を終えた。日野日羽はソツのない女だ。
そして最後に、奈緒が呼ばれる。
彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと壇に歩み寄った。
そして問われる。誓うか? ――と。
少しの間があった。
後ろから見る奈緒の顔は、しっかりと、前を向いている。
「誓います」
清冽な鈴の音のような、凛と響く誓約だった。あの奈緒が。ずっとおどおどしていた奈緒が、誰よりも立派に、誓いを約している。
最初はおどおどしてて、頼りなさそうな子だなと思っていた。
だけどいちばん天使さまに憧れていたのは、奈緒だった。
そしていちばん努力していたのも、奈緒だった。
天使さまをやるということに対して、わたしたちの中でいちばん真摯に向き合っていたのは、このちいさな女の子、穂ノ村奈緒だったと思う。
白い冠を載せられた奈緒が、こちらを向いた。
真っ直ぐな目。
そこには確かに、一人の立派な、天使さまの姿があった。
そして厳かに告げられる、儀式の終わり。
わたしたち四人は、こうして、天使さまになった。