2章、6
完全に白くなってからこっち、どうも体がだるい。といっても、のたうち回るほどでもないけど。夜になると特に痛むので、ちょっと寝苦しいのが一番の悩みごとだ。
わたしだけじゃない。みんな同じ。
これに伴う変化としては、授業が一時的にお休みになったことがある。確かにだるくって授業どころじゃないから、素直に嬉しい。
「大丈夫かね、きみたち」
ふつうの病人(おかしな言い方だ)みたいにベッドの住人と化したわたしたちの元に、歌撫さまがお見舞いに来てくれた。
「それなりです……」
「それなりか。まあ、誰もが経験する道のりだよ。そのうち楽になるから、今はひたすら我慢だね」
誰もが通る道、そうこの痛みはすなわち、生翼の前兆なのだった。
天使病第二段階、生翼。
肩の辺りから小さな羽根、正式名称で言うところの「翼状畸形」が生えてくる症状。
これが完了するまでしばらくの間、今わたしたちが感じてるような、鈍い痛みが続くんだそうだ。今からちょっと不安。
「もうすぐきみたちも、ぼくらの仲間入りだね」
どこから取り出したのか、ポッキーをもふもふしながら歌撫さまはそう呟いた。
「羽根が生えたら、もう身体的には天使さまと同じですね」
儚の言葉で、その事実を意識する。どんどん近付いてくる、天使さまのとき。容赦なく迫ってくる、その刻限。
「そうだね。きみたちとお仕事する日も近い」
なんだか、余り面白くなさそうな声。
「歓迎するよ。本当は歓迎したくないんだけど」
歌撫さまは、歯に衣着せない。その真っ白な歯はまさしく全裸、素っ裸だ。ちなみに今のは、「お仕事一緒にやるのは大歓迎だけど、天使病が進行するのは冗談じゃない」という意味だ、多分。このお方の言葉を完全に理解するには、すこし慣れが要る。
無垢なる御歯をお持ちの歌撫さまは、奈緒のベッドに腰かけると、やおら奈緒の頭を抱え込むように撫で回し始めた。奈緒はくすぐったそうでどこか困ったような、あるいは照れたような複雑な表情でされるがまま。
「ぐるぐるうにうにー」歌撫さまはときどき得体の知れないことを言う。
一通りいじり回された後、奈緒はぽつりと言った。
「……ひゃやく《早く》く天使さまになりたいです」台詞かんだのは回されすぎた後遺症に違いない。
「だとすれば」歌撫さまは異様に満足げだ。「もう少しの辛抱、だね。羽根が生えたなら、残りは最後の締め……誓約の儀式をするだけだよ」
「誓約の儀式?」
何だか宗教ちっくな響きだ。
「そう、誓約の儀式」
歌撫さまは何だか楽しげに口元を緩めて、そう繰り返した。
「あれはなかなか、いいイベントだと思うよ。楽しみにしてるといいさ」
わたしと儚と奈緒は、三人して顔を見合わせた。何だろ。ちなみに日羽は、本から顔を上げていなかった。
「でも、不思議ね」
ちいさくあくびしながら儚が言った。
「何が?」
「うん、もうちょっと早く外に出してもらえても、いいと思うんだけれど……なんだか姿が天使さまになるのを待ってるみたいで」
「ふむぅ……」言われてみれば、そうかも。授業とかスケジュールすかすかだしね。
これに対して歌撫さま曰く、
「生翼が終わるまではあんまり体調が安定しないからね。病院側としてもやっぱり、そんな状態の患者を外に出すわけにはいかないんでしょうよ」
「なるほど」
「……というのもあるけど、儚くんの意見も実は結構、的を射てる」
「え?」
「天使の姿になるのを待ってるって話ね。ほら、ぼくたちの人気って、見た目に支えられてるところ、かなりあると思うし」
ここまではっきりと、自分の容姿を誇るとは。本当に遠慮のない人だ。
「そもそも病人のぼくたちが外に出られるようになってるこの制度自体、なんか変だもんね。そこは浅川先生とかが頑張ったみたいだけど」
「へえ、そうなんですか」
浅川せんせって色々やってるなぁ、本当。
「十年くらい前、当時寮母として着任直後だった浅川先生と、何人かの患者が協力して病院側を説得、この制度を作り上げたって話。まあぼくは直接その現場を見たわけじゃないから詳しくは知らないんだけど、説得材料の中には天使の見た目も入ってたって噂。……まあその真偽はともかく、現状、この見た目が天使の存在を支えてるのは間違いないね」
なるほどなぁ。
「ドラマですねぇ……」
何だか遠い世界の話みたいだ。
「そりゃ、ドラマチックですよ」
歌撫さまは大げさに頷いた。
「誓約の儀式もそのときからだね。あれはすごぅく、ドラマチックでロマンチックですよ。ぼくたちは偉大な先輩を称えなければならないね」
ドラマでロマンですか……。何だかよく分からないけどすごそうだ。
「まあ、楽しみにしていたまえよ」
と、歌撫さまは悪戯っ子の笑顔で言った。
*
それから一ヶ月近くの間、段々と強まる倦怠感と、肩の疼痛にわたしたちはひたすら耐えた。
一日の間でも痛みがピークに達する夜中、背中が痛くて眠れず、うめきながら朝を迎えたこともあった。
あるとき儚が言い出して、わたしたち四人のベッドをくっつけた。
背中が痛いときは手を取り合って、耐えようと。
繋がる手と手、痛みがそこを伝って、どこかに溶けて消えていくような気がした。
あたたかくて柔らかい手を通って、安らぎに満たされるような気がした。
そうやってわたしたちは、四人でつらい時期を乗り越えた。
*
「天使さまに、なっちゃったね。わたしたち」
白い髪。白い肌。そして肩からちいさな羽根が生えて。
専用の服――「天 使 服」という、背中に羽根を通すための穴が開いた天使さま用の制服、というか病衣を着て。手首のバンドが、白に変わって。
わたしたち四人は、もうすっかり、天使さまの出で立ちになった。
さて、わたしたちの中では奈緒がいちばん、天使さまになることを待ち望んでいたわけなので。
「うふふ」
今いちばん様子がおかしいのも、当然、奈緒なのだった。
「もう、一時間くらい経たない……?」
「え、ええ……」
「よっぽど嬉しいのね……」
鏡の前でくるくる回り続ける奈緒を遠巻きに眺め、儚は心配そうに、日羽は呆れた様子で、言葉を交わす。奈緒は自分の姿を確認するのに忙しい。頬は緩みっぱなしで、えへへとかうふふとか奇声を発しつつ自分の顔をぺたぺた触ったり、髪を撫でたり、羽根を引っ張ったり。最初は微笑ましかったけど、さすがに一時間も経つとそろそろ止めるべきかという気になってくる。
わたしはふと、自分の肩から生えてきた新しい自分、「天使の羽根」に触れてみる。
感覚は、薄い。耳たぶみたいにわずかな感触があるだけだ。それはやわらかくて、ふさふさした白い羽毛に包まれていて、まるで本物の羽根みたい。
羽根にもそれなりに個性があるようで、例えばわたしの羽根よりも日羽のほうがすこし大きいし、儚のはさらさらした感じだけどわたしのはちょっとぼさぼさだ。髪質ならぬ羽根質とでもいうんだろうか。
わざわざお手入れすべきかどうかは、悩みどころだけど。
「あ、ちょっと動く」頑張ると羽根が動かせた。
「あら、本当」
儚もぴこぴこ羽根を動かしてみてる。あ、わたしより大きく動いてる。
「儚、かわい〜」
一生懸命はばたく小鳥みたい。
そうやってひとしきり遊んだ後。
「いよいよ天使さまとして外に出る時間が、近付いてきたわね」
「うん」
儚の言葉に、奈緒が嬉しそうな声で振り向いた。いつもはもっと控えめなのに。今日は本当にご機嫌だ。
「ようやく、ね……」
儚は感慨深げな様子で呟く。
わたしはわたしで、天使さまをやるということに対して少しずつポジティブな気持ちになれていたので、前ほど二人のやりとりに距離を感じることはない。
でもわたしは二人と違って、手放しでは喜べない。
体の様子が変化したという事実が示す別の側面、すなわち、天使病が進行しているということ。それを思うと、わたしはどうしても気分が沈んでしまうのだ。
肌の白さ、肩の羽根は、消えゆくいのちを表しているようで。
しかもそれは、……偶然じゃないかも、しれないわけで。
そう、あの日の日羽の言葉が、わたしの中にはずっと、消えない棘として残っている。
天使病は偶然じゃないかもしれないという話。
その話をした人、日野日羽は、相変わらずどこか冴えない表情で日々を過ごしている。表面的にはふつうに話しているし、何も問題なく生活してるんだけど、あの話を聞いてしまったわたしとしては、どこか引っかかるような気持ちが抜けきらない。
このひとは天使さまをやることについて、どう思っているのか。
とりあえず、外に出ていく気はあるみたいだけど……。
ともかく、そんな心配事未満の引っかかりのせいで、わたしは儚や奈緒みたいにはしゃぎ切れないのだった。
「でもやっぱり、不安だなあ……」
ようやく鏡の前から離れた奈緒がふと、小さな声で呟いた。たった今考えていたこととおかしな具合にシンクロしてしまい、どきっとしたけど、奈緒が言ってるのはもちろんそういう意味じゃない。
「大丈夫よ。奈緒は一生懸命だから」
儚がやさしく笑ってフォローする。
「一生懸命さは相手にちゃんと、伝わるものよ。いろんなことをして、みんなに元気を出してもらうのが天使さまのお仕事なんだから、一生懸命さって一番大事なことなんじゃないかしら」
「そうかなぁ……」
そう言いつつもちょっと安心したような表情の奈緒。なごやかなやりとりだ。
……それはいいけど、一生懸命とか言われると、今度はわたしが不安になるなぁ。
「ふふ、沙凪は大丈夫よ。相手の気持ちが分かるひとだもの」
儚はそう言うけれど、わたしにはいまひとつ自覚がない。
「私もそう思うわ。沙凪とはとても話しやすいのよね」
日羽がそんなふうに思ってたなんて初耳だ。
「無意識の内にフォローしているというか。空気が読めるっていうのかしら? いい意味で気を遣えるひとよね」
儚の言葉に深く頷く日羽。
「沙凪ちゃんはすごいと思うよ……」
奈緒まで。ちょっと、やめてください、くすぐったいですから。
「儚こそ、天使さまに向いてるって。やわらかい雰囲気でどんな機嫌の悪い人も一瞬で天にも昇る気持ちになるよ」
なんだこの褒め合戦。
「そうかしら」儚は気弱そうに微笑んで、「天使さまになってひとのためになれるのは嬉しいんだけれど、うまくできるかどうかはそれとは別問題だから……」
「大丈夫だって。わたしが保証するよ」
儚に話しかけられて嫌な気分になる人なんかそうそういないだろう。
「自分で言ったじゃない、一生懸命が大事だって。ひとのためになれるのが嬉しいって思うなら、その辺りはオーケーなんじゃない?」
「そうね」
儚はちょっとだけ、元気の出た顔で笑った。