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2章、5

 わたしの趣味は、相変わらず散歩だ。……というとちょっとじじむさい感じがするけど。

 年少病棟の側を歩いていると、中学生と思しき真っ白な子たちが何人か、授業を受けている風景が見えた。十人くらいの少人数がノートを取ったり船をこいだりしている。黒板に描かれている、複雑な形の図形。すこし前に習ったような覚えがある、どうやら数学の授業中らしい。

 授業を受ける子たちの肩からは、すでに天使の羽根が生えている。普通に生活してれば高校生だったはずの天使病患者さんは、天使さまになると、終日自由時間ということになる。だけどこの子たちのように中学生以下だった場合は、義務教育が終わるまでは授業が続けられるのだ。

 ちょっとかわいそう。

 そう思いながらわたしは、その部屋の横を通り過ぎる。

 病院の敷地内には、ところで、たくさんの建物がある。わたしたちが生活している病棟を初め、治療や検査を行うための医療棟、医者や看護師さんたちが住む職員寮、あとはわたしたちの生活を補助する部室棟だとか図書館棟、さらには天使ヘリの管制棟、なんていうのもある。

 いまわたしが中を覗いていた年少病棟というもの、これは読んで字の如く、まだ幼い――具体的には中学生以下――の子たちのための、天使病棟だ。上は中学三年生から、下は幼稚園に上がるか上がらないかくらいまで……数は多くないけれど、それくらいのちいさな子どもたちの中にも、天使病が発症してしまったケースは存在しているのだ。

 その中を覗きつつ歩いていたわたしは、ある部屋の横で足を止めた。中にはぱらぱらと、お布団を敷いて寝転がっている、ちいさい子たちの姿。幼稚園児くらいの子たちの部屋、今はどうやら「お昼寝の時間」のようだ。

 その中に、見知った姿があった。

 奈緒がいる。

 子どもを寝かしつけているようだった。こちらに背を向けていて、わたしが見ているのには気付いていない様子。

 そういえば今までこの中入ったことなかったな、と思い出したわたしは、奈緒がいるところに行ってみることにした。



「あ、沙凪ちゃん」

「や、奈緒」

 お昼寝部屋なので、小声で挨拶。

「散歩してたら奈緒がいたから、来ちゃった」

「そうなんだ。沙凪ちゃんがここに来るのって珍しいな、って思った」

 そう言ってゆるゆると微笑む。

「実は初めて。奈緒はよく来てるの?」

「うん。年少組の子たちと、たまにあそんでるの」

「へぇ……」

 そこまで話したとき、奈緒が寝かしつけようとしていた女の子と目があった。きょとんとした目付きでわたしを凝視している。もうすでに羽根まで生えてしまった、四、五歳くらいのちいさな天使さまだ(見た目だけは)。

「はじめまして」

 にっこり笑って挨拶してみる。

「……」

 女の子、ぼーっとわたしの顔を見てる。聞こえてないのかな……と、笑顔でありつつ不安になるわたし。

 奈緒に助けを求めようと思い始めた頃に、ようやく口を開いてくれた。

「お姉ちゃんも、あそんでくれるの?」

「う、うん」何して遊べばいいのかよくわからないけど。

 すると女の子はとっても嬉しそうな顔で、わらった。

「じゃ、なおとかなと三人であそぼ!」

「だっ、だめだよ架那かなちゃん。今はお昼寝の時間だから」

 奈緒はちょっと慌てたようにそう言って、次にわたしを見て、

「沙凪ちゃんも……。今はお昼寝の時間だから、寝かしつけないとだめなんだ」

「あ、あぁ、そうなんだ……ごめん」

 普段と違って、しっかりしたお姉さんみたいな雰囲気の奈緒だ。意外な一面。

「なお……。やっぱりぜんぜん、ねむくないよぉ」

「だめよ架那ちゃん、ちゃんとお昼寝しないと」

 えー、とかぶうたれながら、かなちゃんはわたしと奈緒の顔を見ている。そ、そんな縋るような目で見られても、困る。

「今おやすみしたら、晩ご飯がもっとおいしくなるよ。だからね、おやすみしよ?」

 奈緒は辛抱強く、かなちゃんを寝かしつけようと頑張っている。うーん、立派だ。

「な、なに? 沙凪ちゃん」

 その柔和ながらもしっかりとした横顔をじっと見ていると、奈緒は照れたような困ったような顔で、わたしを見た。

「いや、しっかり子どもの相手してるし、すごいなぁと思って」

「そ、そんなことないよ、わたしなんか……」

「いやいや、立派だよ。わたしにはちょっと無理だなぁ……」

「それは慣れれば……」

「なおぉ」

 かなちゃんが奈緒の袖を引っ張った。ずいぶん懐かれてるような気がする。

「やだー、なおとあそぶぅ」

 今度はお布団の上でばたばたと暴れ出した。お転婆な子だ。

「だっ、だめだよ暴れちゃ。他の子が起きちゃうでしょ」

 奈緒が慌ててかなちゃんを制止しようとした。

 その拍子に、かなちゃんの病衣がめくれて、その下の素肌が見えた。

 一瞬だけ。でも、はっきりと見えてしまった。

 凍りつくわたし。奈緒は素早く乱れた病衣を正すと、すこし強い調子でかなちゃんを寝かしつけた。

 奈緒の奮闘の甲斐あって、やがてかなちゃんも、安らかにおねむとなった。

「……ね、奈緒」

 奈緒も当然のように、わたしが気付いた、ということに気が付いていたようで、どこか沈んだ雰囲気を漂わせつつ頷いた。

「……うん」

「さっきの、かなちゃんの、お腹……」

「……うん」

「あれってさ……」

 奈緒はゆるく首を振った。その先は言わないで、というように。

 わたしだってそんな言葉は口にしたくなかった。だから何も言わなかった。

 かなちゃんの病衣の下に見えたのは。

 真っ白で、きれいなはずの、肌の上に散らばっていたのは。

 傷。青痣。火傷みたいな、引き攣れた皮膚。

 お腹いっぱいに……。

 口が、からからだった。動悸がする。

 奈緒がぽつりと、衝撃の事実を口にする。

「こういう子、結構、たくさんいるんだ……」

「……本当に?」

 思わずそんな言葉が口をついて出る。奈緒は頷く。顔がすこし、蒼い。

「なんで? まさかここで、……?」

「ううん、違うよ」

 わたしは一瞬、天使病棟で酷いことが行われているのかと思ったけど、奈緒ははっきりと否定した。

「ここに来る前。家に居た頃のこと」

 安心した。ここでそんなことが行われているなんてことになったら、わたしはどうしていいか分からない。

「じゃ、とりあえずは大丈夫、か」

「うん」

 それはそれとして、別の疑問が湧いてくる。

「結構いるって、世間ではそんなに……流行ってるの? その……」

 虐待、という言葉を口にしたくなかったから、どうしても口ごもってしまう。荒んだ世の中だから、これさえも「よくある話」なんだろうか。親がいないのと同じように。でもわたし自身はそんな子を、一人も知らない。

「……分からない、けど」

「けど?」

 それは奈緒の、不意打ちの告白。

 ほとんど聞き取れない、か細くて消えてしまいそうな弱々しい声で、彼女は言った。

「わたしも、同じだった……よ」

「同じって……」

 でも、奈緒の体に傷はない。一緒にお風呂に入っているから、それは確かだ。

「ご飯が、貰えなかったの」

 不意に、わたしは思い出した。

 病院に来て初めてご飯を食べたとき、奈緒がとつぜん泣き出したことを。

「わたしの体、すごく痩せてるよね。お父さんが、ぜんぜんご飯くれなかったんだ……」

 奈緒は、右手でかなちゃんの頭を、左手で自分のお腹をゆるゆると撫でながら、哀しそうに微笑みつつ、淡々と、喋っている。

「お腹空いたっていうと、怒るから……」

「奈緒」

 たまらなくなって、わたしは奈緒の話を遮った。

「あ、ごめん……沙凪ちゃん」

「ううん。いいよ。……でも、わたし」何を言っていいか分からない。

「今は、大丈夫だよ。ご飯はお腹一杯食べられるし、みんな優しいし……」

 奈緒はちょっと涙ぐんでいた。

「それに、天使さまになれるから。だから大丈夫……」

 天使さま。奈緒はずっと憧れていた、と言っていた。天使さまになる、ということに対して一番頑張っているのも奈緒だった。

「……お腹が減ったとき、テレビをつけると、天使さまが映ってるの」

「……うん」

「天使さまは病気なのに、いっぱいの笑顔で、天使さまと話したひとも笑ってた」

「……うん」

「病気でつらいはずなのに……死んじゃうかもしれないのに、どうしてこんなに笑えるのかなって、思ってた」

「……うん」

「天使さまのお姿を見て、お腹減ったくらいでへこたれてちゃ、だめだなって、そう思ってたの……」

「……うん」

「天使さまになれば、わたしも強くなれるかなって、そう思ったから……」

「……そっか」

 奈緒が天使さまに憧れる理由。一生懸命な理由。つらかったんだと、思う。完全には理解できないけど、でも想像することくらいはできる。奈緒はきっと、天使さまに自分の姿を重ねて、ようやく今まで生きてきたんだ。

 ちいさくてかわいらしい姿の中に詰まっている、酷い過去。

 わたしはとつぜん、奈緒の頭を抱きしめたくなった。

 実際、その通りにした。

「さ、沙凪ちゃん?」

「……奈緒」

 腕の中ですこし動く、あたたかい、奈緒の体。

「な、なに?」

「奈緒はきっと、いい天使さまになれるよ」

「……う、うん」

「だから、大丈夫」

「……沙凪ちゃんも」

「えっ?」とつぜん自分に話を振られて、わたしは大いに戸惑った。

「沙凪ちゃんも、一緒に……」

「わたしも?」

「沙凪ちゃんとか、儚ちゃんとか、日羽ちゃんも一緒じゃないと、わたし……」

 すこし、奈緒の体が震える。腕ごしに伝わってくる。

 不安なんだ。

「わたしも……不安だよ」

 天使さまになることも。病気のことも。

 生きてる限り、不安だらけだ。

「でも、奈緒たちと一緒なら、頑張れると思う」

「……うん」

「一緒なら」

 みんなと一緒なら、不安だけど、何とか、やっていける。


「……何してるの? あなたたち」

「わっ」

 びっくりして奈緒から離れた。

 声のしたほうを見ると、怪訝そうな目付きでわたしたちを見ている、知らない大人のひとが一人。

 恥ずかしいところを見られてしまった。顔が赤くなってるのが分かる。あ、奈緒も真っ赤だ……天使さまに近付いて肌が真っ白になってるので、ものすごく、目立つ。天使さまになるのもいいことばっかりじゃない。

 ところで、この人は誰?

「せ、先生、ごめんなさい」

 奈緒が謝る。せんせか。

「いえ、いいけれど……子どもたちはみんな、寝た?」

「はい」

 奈緒がそう答えると、せんせらしき大人のひとは、にっこりと笑った。

「そう、ありがとうね。いつも助かるわ」

 どうやら保母さんらしい。奈緒はよく来てるせいか、すでに顔なじみになってる様子。

「そっちの子は?」

 保母さんはわたしを見てる。そういえば、勝手に入ってきたんだった。

「あ、名霧沙凪っていいます。ごめんなさい、奈緒がいるの見て、つい」

「あぁ、今年来た子ね。あなたも手伝ってくれたの?」

「は、はぁ」そういうつもりでもなかったけど、はっきり否定するのも何なので、曖昧な返事になってしまった。

「ありがとうね。あなたたちが来てくれると、子どもたちも喜ぶのよ」

 保母さんの笑顔がわたしにも向けられる。

 それを見た瞬間、わたしの胸が、ひとつどくんと波打った。不思議な気持ちが、じわりと広がる。欲求のような、曖昧な何か。

「子どもたちと遊んであげるくらいなら、いつ来てもいいから。またお願いするわ」

 保母さんは子どもたちがみんなすやすやと寝ているのを確認すると、どこかに行ってしまった。

「天使さまも、ここに来てるの?」

 わたしは奈緒にそう聞いた。さっき保母さんが「あなたたち」と言ってた意味は、そういうことなんだろうと思ったから。

「うん、ときどき来てるよ」

「そっか」

 子どもたちの相手をすること。そして、保母さんに感謝されたりすること。

「ね、奈緒」

「なに?」

「天使さまのお仕事ってさ、こんな感じなのかな?」

「うん……よく分からないけど、多分そうなんじゃないかな……」

 天使さまは、お仕事で、児童養護施設に行ったりもするらしい。さっきみたいに子どもを寝かしつけたり、一緒になって遊んだり。

「そっか……」

 不思議な気持ち。保母さんの笑顔、子どもたちが喜ぶという言葉。

 今日わたしは、ただ奈緒がいたからと理由でここに来て、結局何もできなかった。だから保母さんの笑顔、感謝の気持ちは、わたしには受け取れない。

 だから……と、少しだけ、思う。

 その気持ちを受け取れたら、満たされた気持ちに……わたしも、嬉しくなれるのかもしれないな、と。

 こういう気持ちのやり取りが、天使さまであるということなのかも、しれない。

 またここに来てみようかな、と思った。今度はちゃんと話を聞いて。お手伝いとして。


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