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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

かくて少女は王を乞う

作者: あおい

 

 001


 紅玉(カーバンクル)の意匠が絶たれる。

 挑んだ者は、己の最も信頼する輝きの喪失に、呆然と立ち尽くしていた。現象が理解できないのだろう。そこにあるのは戸惑いと、焦燥ばかり。ああ、味気ない。獣の如くしなやかな少女の沸き上がる欲は、行き場をなくして沈殿してゆく。相手の得物を砕いた片手剣を、もはや不要と投げ捨てた。

 緩慢に、右腿からそれを抜く。

 鉈に近い、短く幅厚の刃物。しかしギザギザと並ぶ牙が、ただ切るだけの道具との差を明らかにしている。それは待ってましたといわんばかりに、夜の産声を上げた。

 少女の唇から白い歯が零れる。

 すらりとした足が、相手を蹴り倒した。

 抵抗の間も与えず跨がり、ひたり、と無数の灰銀の牙を喉に押しつける。有無を言わせず、刃が引かれた。皮膚を抉り、削り取ることに対する絶叫。少女はうっとりと、恍惚の笑みを浮かべる。

 もっと、醜く。

 もっと、苦痛を。

 喚いて、すがって、命乞いして――死になさい。


「わたしの王を偽ったのだもの、当然でしょう?」


 今宵も少女のヒエラルキーに君臨せんとする無謀の偽王は、可憐な細腕に討ち取られたのである。



 002



 少女は所有されるものであった。

 それゆえ少女は、かねてから少女の秩序の頂点に立つ誰かを求めていた。渇望虚しく、真実の王は少女を支配してはいないけれど。


「ねえ、どうしてなの、フェリクス。わたしはこんなにもわたしの王がほしいだけなのに」


 正午、つんと澄ました花が舞う時分。

 男は、またか、と呟いた。そろそろ三十に差し掛かろうといった頃の男の名は、フェリクス=ヘルフェリヒといった。

 朱と白を基調とした屋敷内で唯一フェリクスが寛ぎを感じられる自室に、さも当たり前のように少女が侵入していた。ここが王都から離れた片田舎とはいえ、一領主たるフェリクスの邸内に無断で立ち入る不遜など、少女にはまったく関係ないらしい。束の間の休息を求めるフェリクスに向かって、唇を尖らせ常と変わらぬ風貌で憂いている。

 鎖骨までのたおやかな白金の髪(プラチナブロンド)、同色の睫毛に縁取られた楔石(スフェーン)の潤んだ瞳。白い面には鼻と唇が小さく収まり、何処か貴族然とした淑やかさがある。しかし、少女からはいつでも獣の本能たる、あの濃密な血の匂いが離れないのだ。

 これでは、淑女とは呼べまい。

 フェリクスは沈鬱に額を押さえる。


「君の王は、さぞかし怠慢なのだろうね。君の血の滴りにさえ反応しないのだから」

「フェリクス。あなた、わたしの王を語るの?」

「いいや、そんなつもりはないよ。私は思ったことをそのまま告げたに過ぎない」

「ふうん。そう」


 フェリクスの寝台に億劫そうに腰掛けた少女は、白いシャツに七分丈のズボン、編み上げ靴といった少年のような出で立ちである。そういえば、とフェリクス。少女のドレス姿は、いまだきちんと見たことがなかった。年頃の娘ではあるが、その興味が己を着飾ることに向いていないことはとうの昔に熟知している。

「断ってくれても構わないが」と、前置きに少女の瞳だけが動く。

 美しいが幼さの浮かばないそれ。しかし、続く言葉によって輝くことは、フェリクスには既にわかっていた。


「明晩、私の護衛をする気はないかい?」



 003



 少女にとって王を求めることは、呼吸をするくらいにまっとうなことである。

 少女は母を知らない。父もいない。そんな娘が一度だけ王を持った。支配された。それは少女にとって、斯くあるべき事象となった。


「聞いてないわ」

「何がだい?」


 少女は昨日の迂闊さを呪った。

 フェリクスが自分に護衛を頼むだなんて、その時点で何か裏があると気づくべきだった。瞳の色に合わせたであろう淡いグリーンのドレスが、男の大きな手によって少女の眼前に広げられていた。

 フェリクスは涼しい顔で微笑を浮かべている。透けるような少女とは異なり、フェリクスの彩ははっきりしている。整えられた髪も感情の薄い瞳も、くっきりと栄える琥珀(アンバー)である。橙の強い色ゆえか、実年齢より若く見られ嘗められることもあると嘆いていた。しかし、身に纏う衣装は若者では手を出せぬであろう高価なもの。派手さはないデザインだが、明らかにそこいらのものとは質が違った。妥協を許さぬ男らしい。少女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「嘘つき」

「心外だね。私は君に護衛をしてほしいとは頼んだが、それが何のものかは限定していない。今夜はエルフリーデ嬢がいらっしゃる。だから、君にも同席してもらいたい。そうなるといつものお粗末な服では駄目だろう?」


 宥めるようなフェリクスの声さえ煩わしく、少女は顔をしかめる。謀られることは嫌いだ。王という支配者が不在のいま、少女を所有していいのは少女だけだった。


「君の言いたいことはわかっているよ」

「わかっていて、そうなの? フェリクス、あなたはひどいひとね」

「ああ、それもよくわかっている」


 フェリクスの手からドレスを引ったくり、少女はいま一度鼻を鳴らした。


「なら、名前をちょうだい。わたし、このままでは客人に名乗れもしないもの」


 フェリクスは、しまった、と目を見開く。

 少女はそんな男に向かって、実に艶やかに笑んでやった。



 004



 少女に名はない。

 過去に少女を支配した王が気まぐれに与えた名は、もはや少女のものではなかった。それ以来、少女はただの少女だった。

 本日はひとまず、名のある少女ではあるが。


「リーゼロッテ=ヘルフェリヒと申します。昨日よりフェリクス叔父さまの元で乗馬を習っておりました。お会いできて光栄です」

「まあ、可愛らしいお嬢さんですこと」


 フェリクスの隣で淑女の礼が行われた。

 常の少女から漂う匂いも、フェリクスが用意した薔薇の香水でわからない。王を探す獣の少女ではなく、姪のリーゼロッテ=ヘルフェリヒという役柄を忠実にこなしていた。そのことに、フェリクスは内心舌を巻く。よくもまあここまで、と。

 令嬢を見事に演じる少女の対面、丸い青金石(ラピスラズリ)の双眸を輝かせる人形の如き乙女は、エルフリーデ=コルヴィッツ嬢である。腰元まで波打つ金髪は水面のよう。少女と女性の要素を兼ね備えた美しい貌だが、淡泊な質のフェリクスの欲を刺激しない。彼女が自分に懸想していることは察していたが、応じてやる気もなかった。

 父親(ろくでなし)の駒など、排除対象でないだけましである。

 しかしそれを顔に出さないのがフェリクス=ヘルフェリヒという男だった。意図的にエルフリーデに微笑みかける。それだけで頬を薔薇色に染める彼女に、フェリクスは手を差し出した。他人の駒は上手く利用するものである。


「どうぞ」

「ありがとうございます、フェリクスさま。アルノー、荷を持って着いてらっしゃい」


 護衛の男がのそりと動く。フェリクスは微かな金属音を耳聡く拾った。少女――今夜限りはリーゼロッテという名の娘も、ドレスの下に仕込んだ得物に指を滑らせていた。

 まだ、君はいい。目配せすれば、リーゼロッテは是と応じる。それは、洗練された応答であった。何ともやりきれない気持ちで、フェリクスはエルフリーデを先導する。夜会ではないため、ダンスホールではなく客室へと歩を進めた。花と比喩されるエルフリーデに合わせ、テーブルには鮮やかな花々が飾られている。


「貴女のために用意しました、エルフリーデ。気に入って頂けましたか?」

「まあ! こんなにたくさんのお花を、わたくしのために? 嬉しい……フェリクスさま……」


 まったく、茶番に嗤うリーゼロッテの声が聞こえそうだ。フェリクスは苦笑いを隠し、エルフリーデをソファーに座らせる。寄り添う護衛。最後にフェリクスの隣へ腰を下ろしたリーゼロッテに、エルフリーデはぱちくりと瞳を瞬かせた。


「あの、フェリクスさま。彼女は……」

「ああ、これのことは気になさらなくて結構ですよ。置物だと思って頂ければ」


 リーゼロッテが無言で笑む。エルフリーデは微かな恐怖をその瞳に浮かべた。フェリクスは真綿で絞めるように、やんわりとエルフリーデを追い詰めにかかる。

 フェリクスとて、茶番劇は早々に終えてしまいたいのである。


「エルフリーデ。本日はどのような用件でこちらに? 急なアポイントには驚きましたよ」

「ごめんなさい、フェリクスさま。今宵はあなたさまのお父上、ハーロルトさまの使者として参ったのです。戻ってこい、と。それをお伝えしに」


 やはり。予想通り過ぎて、いっそ笑える。

 フェリクスは微笑を崩さないまま、首を横へ振った。麗しいエルフリーデは、ソファーから身を乗り出して熱弁する。


「何故ですの、フェリクスさま。お父上はご心配なのです、こんな田舎であなたさまのような俊英を埋もれさせてしまうことが。差し出がましいことですけれど、わたくしも、あなたさまにはここは相応しくないと実感いたしました。ここでは、法の行き届かぬ部分も多いと伺います。フェリクスさま、お願いです。どうぞ王都へ、お父上の元へお戻りくださいませ。わたくし、あなたさまの身にもしものことがあったらと思うと、夜も眠れな……」

「飽きた」


 段々と笑みがなくなり、常のつまらなさげな表情に戻ったリーゼロッテが、爆弾を投下した。フェリクスは頭を抱える。固まるエルフリーデを尻目に、だって、とリーゼロッテがフェリクスを見やった。


「こんなの付き合いきれないわ。馬鹿みたい。あなたがわたしの王なら、最後まで我慢していただろうけれど」

「君はまだ怒っているのかい?」

「やられたらやり返すのがわたしの流儀だもの」


 ああ、これだから。フェリクスは嘆息した。どう足掻いても穏便に済まなくなったというのに、この娘の愉しげな表情といったら。

 項垂れるフェリクスの顔を上げさせたのは、エルフリーデの悲壮な懇願だった。


「フェリクスさま、ああ、わたくしのフェリクスさま。どうか素直に戻るとおっしゃって。そうすればわたくしがあなたさまを守って差し上げますから」

「なにそれ。フェリクスは誰にも所有されない。いまも、これからも。だってフェリクスは――」


 やめなさい、フェリクスが制止する間もなく。

 跳躍。痩躯は軽々とエルフリーデを越え、控える護衛へ肉薄。細腕が後ろで組まれていた男の丸太の如き腕を取り、骨が軋むまで捻り上げる。呻き声と共にナイフが落ちた。刀身には、たっぷりと芳しい毒が塗られている。エルフリーデが真っ青になってリーゼロッテを見つめた。

 唇から、獣の牙が零れていた。


「かつてのわたしの王だもの」



 005



 かつての少女の王は、冷徹な少年だった。

 血を嫌い、俗世を憎み、気まぐれに少女を所有した。リーゼロッテ。ギザギザの刃を持つ小振りな刃物。お前は私以外に所有されるな、と。その三つだけが、少女が王の手ずから賜ったものである。

 少女の王はひとりだけ。

 共に過ごすうちに支配されるしかない少女の在り方を悲嘆し、自ら王を辞した――フェリクス=ヘルフェリヒに他ならない。


「フェリクスはもうわたしの王ではないけれど、名をくれたのだから、いまだけはそうだと思っていいでしょう? だから、ちゃんと所有して。支配して。ねえ、フェリクス。わたしの王よ」

「君は自由だと言ったはずだ、リーゼロッテ。私の小さな女の子」

「フェリクスはわかっていない。わたしは自由より支配がほしい。とびきり甘い、あなたの支配が」

「やめて!」


 絶叫。エルフリーデだ。

 リーゼロッテが億劫そうに首を巡らす。


「そのひとはわたくしのものよ! 王都へ戻れば、わたくしと婚儀を上げるのだから!」


 ふうん、とリーゼロッテ。不機嫌である。

 ようやく護衛の腕を離してやる。捻り上げたままにしていたので、骨がぱっきりいっているようだ。リーゼロッテは躊躇すらなく、爪先で掬い上げた毒刃を反撃に出ようとした護衛の腹に埋めた。かひゅ。男の喉が鳴る。どうやら即効性の毒物らしい。何があるかわからないので、エルフリーデが持ち込んだ荷は部屋の隅へと蹴り飛ばした。

 さて、と。少女らしく膨らんだドレスから、ぬらりと灰銀の刃物が現れる。ギザギザの牙。楽に死なせる気などない、拷問具にも等しいそれ。刀鋸。


「アルノー、起きなさい! アルノー!」

「はい……お嬢、さま」


 足元の男が蠢く。リーゼロッテにはそれを待ってやる義理もない。晒された首筋にヒールを渾身の力で叩き込む。嘔吐。いや、吐血か。衝撃で舌を噛み切ったようだ。常になく痙攣する護衛のさまに、エルフリーデは甲高い悲鳴を上げた。ぶるぶると震えている。


「何てことを! (けだもの)め……!」


 エルフリーデが懐剣を抜く。多少のたしなみはあるのだろう、切っ先がぶれることなくリーゼロッテの心臓を狙う。だが、それだけだ。半身を捻ってかわせば、エルフリーデはたたらを踏んだ。この花の化身たる淑女には似合わぬ罵倒を口ずさみ、再びリーゼロッテへ踏み込む。

 長い腕が、それを止めた。

 傍観者ではいられない、フェリクスそのひとである。


「エルフリーデ」

「ああ、フェリクスさま。これはなんて野蛮な娘なの。わたくしはあなたさまを説得したかっただけですのに。この娘が、アルノーを……!」

「エルフリーデ、あの護衛は誰が貴女に?」

「あ、あなたさまのお父上が。わたくしの身を案じてくださって、ですけれど、あんなナイフ、わたくし知りませんの。ほんとうです」

「わかっていますよ、エルフリーデ。今日のことは悪い夢です。忘れなさい」


 フェリクスの琥珀の瞳(アンバー)が妖しく瞬く。

 エルフリーデは恍惚に頬を染め、そのまま崩れ落ちた。フェリクスは華奢な身体をソファーへ寝かせる。やれやれ、と仄光る双眸をリーゼロッテに向けた。痩躯を畳み、王に跪く少女へと。


「リーゼロッテ。今宵だけ君に命じよう。屋敷に侵入した鼠を殺せ、一匹たりとも逃がすな。できるね?」

「仰せのままに、わたしの王よ」


 リーゼロッテは、花が綻ぶように微笑んだ。



 006



 からっぽの少女には王が必要だった。

 孤高の王にも少女は手離せないものだった。

 恋ではなかった。愛でもなかった。危ういまでの執着だった。歪んだそれを正したくて少女を捨てたのに、少女はそれが歪みであると理解できない。斯くあるべき事柄が覆らないのと同様に。


「ああ、リーゼロッテ。私は君の王になりたいわけではないんだ」


 フェリクスは悔やんだ。荒れた自分の気まぐれでひとりの少女を歪めたことを。だから、少女の手を離したあとも、こうして傍に寄ってくることを拒絶できない。したくない。

 少女のそれは愛ではない。けれど、それでも――


「愛してる、リーゼロッテ」


 ああ、ここで眠るのが君だったなら。

 フェリクスはエルフリーデの豊かな髪を撫で、キスを落とした。いとおしい少女に捧げられないものを補おうと。けれど、やはり何の感慨もない。エルフリーデはとことんフェリクスの欲を揺さぶらない。否、どんな美姫でもそうだろう。リーゼロッテだけが、あの獣の娘だけが、いまなおフェリクスを囚えている。

 これではどちらが王かわかったものではない。

 フェリクスを縛り続ける少女は、フェリクスにとっての絶対だった。

 もしもあの子が、王としての自分でなく、フェリクス=ヘルフェリヒそのものを求めてくれたのなら。決して起こらぬであろうそれを夢想する。そのときは、閉じ込めてしまおう、と。可憐な薔薇は誰かに摘み取られてしまう前に、花瓶に生けてあげるのがいい。いまは小さな獣だが、やがて極上の薔薇になることはわかっている。そうなれば、周囲がこぞってリーゼロッテを欲するだろう。そんなことは、許さないけれど。

 リーゼロッテは私のものだ。

 王に立たないいまでも、それは変わらない。

 フェリクスは苦笑する。自分はきっと狂っている。リーゼロッテが王に執着するのと同じように、ただ、斯くあるべきように。それが真実の王のすべてだった。



 006



 少女は王をなくしたとき気づいた。

 わたしの王は、他の誰でも駄目だと。このフェリクス=ヘルフェリヒだけが、自身の王たる生き物なのだと。

 ゆえに、少女は許さない。少女から王を奪おうとするものなんて――死ねばいい。


「うぎゃあああっ!」


 これで何人目だったかしら?

 足元の骸を蹴りつけ、首を傾げた。

 リーゼロッテは踊るように宵闇を舞う。フェリクスを連れ戻すために人を雇ったのだろうが、どうにも弱すぎた。フェリクスの邸はもはやリーゼロッテの庭に等しい。夜目も利く。灯りを落とした屋敷内でリーゼロッテと同様に動き回ろうだなんて考えそのものが間違っていることに、なぜ気づかないのか。男の頭を廊下に飾った壺に捩じ込んで、リーゼロッテは息をついた。今宵の鼠は馬鹿ばかりね、と。

 刀鋸をきつく握る。

 ぺろり。紅い唇を湿らせた。

 立っている鼠は四人。うちひとりは壺に顔を突っ込んでもがいている。こちらに突進してくる一体の鳩尾に、刀鋸の柄を押し込んだ。少しずれて、肋骨が砕ける。仕方ないので半身を捻り、相手を後方へ流す。追撃の一振りは、そのがら空きの後頭部へと叩き落とされた。「ぐうお」くぐもった悲鳴。倒れた身体は痙攣し、すぐにただの命なき肉となった。

 残りの鼠たちがざわめく。

 しかし、逃がしてなるものか。

 リーゼロッテは速い。壺と格闘中のそれを上段蹴りで沈め、奥の二人に肉薄する。後退した方を追うように身を滑らせ、足払いを仕掛けた。体勢を崩したところを刀鋸が襲う。キザギザの刃が鼻から左目にかけて、ぞり、と一文字に抉った。今度の悲鳴は甲高い。肉と血、そして筋肉。混ざり合ったものが刃にこびりつくが、リーゼロッテの追撃は止まない。緩まない。倒れ込んだところに馬乗りになり、肩を軋むほどに押さえた。頸動脈に狙いをつけ、刀鋸を当てる。この間、およそ三秒。斬られた本人でさえ、ろくに反応できていない。次の瞬間には、首にいまだかつて味わったことのない激痛が走り、のたうち回るだけの無能にされていた。じきに死ぬだろう。

 リーゼロッテは最後の一匹の後ろ姿を睨んだ。

 仲間が無惨にやられたとわかると、一目散に逃げ出したその背中を。ふー。長い呼吸。リーゼロッテは獣の俊敏さで、牙たる刀鋸を振り上げ迫った。動揺したそれに追いつくことは容易かった。右肩から袈裟懸けに抉られ、相手は肩から床へ突っ込む。リーゼロッテのヒールが傷口を無遠慮に踏んだ。うっそりと笑む。獣はようやく、言葉を発した。


「フェリクスはわたしの王。あげないわ」


 絶叫。やがて邸から鼠は一匹もいなくなった。



 007



 フェリクス=ヘルフェリヒの屋敷には、今日も今日とて少女がいた。

 だが、常のつまらなさそうな表情は鳴りを潜め、にこにこと年相応に愛らしい微笑みを浮かべている。ふんわりとしたシフォンのドレスは獣の少女には甘すぎるが、年頃の娘の顔をしていればよく似合っている。もう一着誂えてもいいか、と呟いた屋敷の主の服の裾を、甘えたように引っ張る白い手。


「フェリクス。ねえ、もう一度」

「リーゼロッテ」

「もう一回」

「リーゼロッテ。……もういいかい?」

「いやよ。せっかくフェリクスがわたしに名前をくれると言ったんだもの。もっと呼んで」

「あのね、リーゼロッテ。私は君の王にはならない。でも友にはなりたいから名は返す。その名はあの日から君のものであって、私がいま与え直したわけじゃない。わかっているよね?」

「細かい男ね」


 言いながら笑みを浮かべる。少女は機嫌がよいようである。先日の騒動以来、ここに顔を出す度にドレスアップさせられるようになって辟易していたのが嘘のようだ。逆にそれが、眼前の男を不安にしていることに気づいているのかいないのか。つい、と上目遣いで見上げる少女。


「フェリクス」

「なんだい?」

「わたしの王は、あなただけなの」


 甘ったるい告白に、答えを躊躇う男。

 そのさまに、ああそれでいい、と少女は内心ほくそ笑んだ。迷いは隙だ。そこにつけ込むことに罪悪感など感じはしない。この男が、再びの王となってくれる可能性が少しでもあるのなら。

 フェリクス=ヘルフェリヒは少女にとっては唯一無二の王だ。それは揺るがない。どこまでいっても。彼女が彼女である限り。


「だから、ねえ、フェリクス」


 少女はかつて自分のヒエラルキーの頂点に君臨していたその男に乞う。いつものように。彼の姿に恍惚を覚えながら。


「――わたしの、わたしだけの王になって?」


 彼女は未来永劫、その言葉を繰り返すのだろう。

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