はじまりのいと
「そこだー、いけー」
「見、見てないで助け……!」
「文句言えるなら大丈夫だろ。がんばれー」
「そんなぁ!!」
こちらの声が聞こえているだろうにニヤニヤと手を振るばかりの医療師へもう一度泣き言を上げ、グインは足の回転数を上げた。少しだけ背後からの唸り声が遠ざかるがそれも僅かな間で、すぐに距離は詰められて元通りになる。
仲間はもう二人いるが追いかけられているのはグインばかりだ。他の二人——医療師の青年と魔導師の女性は場所を変えず、のんびりと晴れた草原を楽しむ風情である。羨ましい。しかし獣が彼らを襲わない理由もよくわかっている。
——喧嘩を売ってはいけない。
ゆったりと構えていながらも、絶対に敵わないと思わせる強者の余裕が滲んでいるのだ。油断すれば命の有無につながる獣たちはグインよりもよほど鼻が利く。だからこそ、たとえ油断したところでどうにでもなるグインにのみ集中するのだ。
この上もなくナメらているが反論はしない。できない。自分こそが一番理由を理解しているゆえに、情けない気持ちでいっぱいになった。
「おーい、グイン! そろそろどうにかしないと楓ちゃんがやっちゃうぞー」
「!?」
ハッとして医療師・ミストの隣を見れば、いつでも動き出せそうな状態で長杖を握る魔導師・楓の姿がある。どうするのかと、その切れ長の目がグインに向けて問いかけていた。
怖い。それは背後に迫る獣——草原に住む小熊どもではなく、もちろんそれを瞬殺するほどの身体的技術を持つ楓でもなく。正直に言えば、言葉のきつい楓はときどき怖いが。
少しばかり前に痛感した力不足を既に忘れかけている自分の臆病さが、現状に甘んじた時の仲間たちの視線が怖いのだ。そうして彼らに甘えることで『仲間』でなくなってしまうことも悔しい。
——そう、悔しい。この優しい居場所を手放すことは既に不可能だ。例えみっともなく泣き喚くことになったとしても。
始まりは劇的なことなど何ひとつない出会いだったのに。故郷から飛び出して初めて見た外の世界がただ物珍しくて、けれど戦う力を持たない自分だから危険な事には絶対に関わりたくなかったのに。安全かもしれないという下心から同行を始めたはずの楓やミストが、グインにとっていつの間にか無くてはならない『仲間』になっていた。今のグインではまだ、何を間違えても二人を『一緒に戦う仲間』とは言えないのだけれど。
もしも本気で無理だと言えば助けてはくれるだろう。だが今のグインには、精神状態などは別として、この現状をどうにかする能力がある。同じスペックを持つ人間が別にいたとしたら確実に小熊を殲滅できると、グイン本人ですら断言ができる。それならば、彼には努力する義務があった。
「できる、できる……うぅぅ……怖いよー……」
泣が入るのはいつものこと。それでも腰に吊るされた剣を縋るように強く握り、グインは勢いよく振り返った。だがどうやら一度つけられた序列は変わらないらしく、グインが刃物を握ったところでミストたちに対するように自分から逃げることはない。現実は厳しいようだ。
恐らく以前の彼ならばこのまま助けを呼び続けただろう。その頃の自分自身からは考えられない行動に小さく震える。無意識に動かした剣と鋭い爪がぶつかる衝撃を感じつつ、グインは『転換』の原因となった記憶を思い出すことで現実逃避を決め込んだ。
空が青い。緑も青い。森の中に開けた広場には簡素だが20人ほどを収容できる木造の休憩所があり、その裏には湧き水が溜まった池がある。驚くべきことにこの水は手をかけずとも飲むことができるらしい。休憩所の周辺では商人たちがそれぞれ情報交換をしており、時折の笑い声により明るい空気が流れている。
グインもまた狭苦しい馬車の客車内から解放されたうちのひとりだ。しかし本人は決して晴れがましい顔などではなかった。今にも泣きそうなほどにヘーゼルの目を潤ませた彼は青い空の下、焦げ茶色の頭を抱えている。
「いたた……」
「少しだけお待ちくださいね。えぇと……はい」
優しい声とともにぼんやりと温かい力がグインの頭を覆う。その熱はすぐに引き、それと同時に耳元を衣擦れの音が通り過ぎた。視界の端を白く華奢な手が横切る。
「これで治療はおしまいです。ですが勢いよく当たっていたそうなので、しばらくはあまり頭を激しく振らないようにしてくださいね」
「うん。ありがとう、すごく助かったよ」
「いいえ、私のお仕事ですから」
ニコリと微笑んだのはグインとそう変わらない年齢の少女である。艶やかな長い黒髪が滑り落ちるのは白いケープで、小柄で細いこの少女が一人前の医療師だということを示していた。
(可愛いのに、ちゃんとカッコいいなぁ。……で、それに比べて僕ってやつは)
内心の小さな声が大きくエコーして自分を抉る。グインが受けたものは頭部打撲の治療。しかしそれは野盗や害獣などに馬車が襲撃されたゆえの負傷ではない。
(うぅぅ、カッコつかないなぁ)
6人掛けの座席のうち入り口側に座っていた彼は、休憩所へ寄せるため急角度で曲がった馬車の壁に頭を強打したのだ。とてもいい音がした。他人事ながら心配になった同便の商人が後から来た医療師の少女を呼んでくれた、というのが主な経緯だった。
「では、私はこれで」
「本当にありがとう。お礼は……」
「いいえ、結構ですよ。大したことはしていませんから」
ニコッと微笑むと医療師の少女はグインへ頭を下げて、商人たちの輪へ近づいて行く。ここまでの道で消費したものを補充するのだろう。自分も休憩所を出発するまでに済ませておこうと頷くと、グインは一時の休憩のため裏手にある池へ足を伸ばした。
「さぁて、そろそろ戻っておこうかなぁ。薬草とかも補充しないと……ん?」
あの休憩所にいて先輩旅人たちに絡まれるのは怖いし、商人たちの売り込みも怖い。かと言ってあまり休憩所から離れすぎて害獣に襲われるのはもっと怖い。結果的に裏の池でのんびりまったりと過ごしていたグインが馬車のいる表側に戻ろうとすると、何やら騒がしい様子が耳に届いた。
「だから、俺らのチームに入らねぇかって誘ってんだよ! お前みたいなのがひとりで歩き回るよりは安全だろ。何度も言わすな!」
「い、いえ……ですから、結構、です……」
「チッ……まだお前の立場が分かってねぇみたいだな。俺たちは単に親切で、しかも下手に出てやってるんだぜ? いくら何でもそろそろ堪忍袋の緒が切れそうなんだがなぁ!?」
「俺たちが優ぁしく誘ってるうちに素直に頷いちまった方がいいんじゃねぇの? 可愛い医療師さんよぉ!」
騒ぎの中心には先ほどの少女医療師がオロオロとしている。その周りを体格のいい旅人たちが固めて大声を出しており、グインはつい、そっと様子を窺ってしまった。ずいぶん古典的な脅し文句ではあるが、声が大きく威圧的なだけあってしっかりと怖い。
ちらりと周りを見てみればまるで『またか』と言わんばかりに面倒そうな表情を浮かべた商人たちが目に入る。もちろん同情的に見ている商人や他の人間もいるが、それでも医療師を積極的に助ける気配はない。
商人やただの旅行者たちが見るからに粗暴な男たちを止めないのは自衛のためだとわかっている。しかしグインはそれが歯がゆく思えた。見ぬふりをしている周囲も——踏み出せない自分も。
「ほら、『はい』の一言でいいんだぜ?」
小柄な少女を取り囲む四人の男たちは彼女よりも頭ふたつは高い。だが医療師の少女はぐいっと目線を上げた。
「いいえ、結構です。お気遣いだけありがたく頂戴いたします」
「こ……のっ!」
断りの言葉とともに頭を下げた少女へ男たちの顔が紅潮する。それは羞恥からではなく明らかに激怒からのもので、グインは思わずぎゅっと右手を握りしめた。
(ど、どうする? 『ただの剣士』ですらない僕に止められる? でも今行かないとあの子が……あぁぁ、どうしよう。どうすれば)
小柄な医療師を救いたい。グインは震える膝を叱咤して右足を踏み出した。大きく息を吸う。
「おーい、お兄さんたち。そこまでにしとけば?」
結局、グインの吸った息が声へ変換されることはなかった。グインが震える声を上げようとしたその時に、すぐ横から別の声がかけられたのだ。
スラリと背の高い男がグインの右側に立っていた。並べばグインとの身長差が頭半分ほどだとわかるが、頭部が小さいために実際よりも背が高く見える。くすんだ金の髪は長めに伸ばされ、その隙間から見える碧の瞳がキラキラと輝いていた。
(こ、こんな人いたっけ……? いた、かも?)
これほど目立つ容姿の青年が今まで目立たなかったことにグインは驚いていたが、そんな彼に片目を瞑って見せるると、青年は男たちと少女へ近づいて行く。その足取りは先ほど投げた声と同じくらいに軽く自然な様子で、調子を崩された男たちは怒るよりも先にポカンと口を開けていた。
「ここまで放置してた俺が言うのも何だけどさぁ、あんまりみっともないことしちゃダメでしょ、いい大人が」
「よ、余計な世話だ!!」
医療師の少女へ一番脅しかけていた男が、ようやくハッと気づいて反論する。今更ながらに自分たちへ集まる視線へ気付いたらしい仲間の男たちが周囲を威嚇し、リーダー格の男は青年へと凄んだ。
「お前こそ、そのおキレイな顔に傷が付く前に街に帰れよ。あんまり邪魔するとどうなるか……わかるだろ?」
決して弱々しくはないのだが、男と並ぶと青年の体は薄い。男がその気になればただの一撃で青年の骨を折ってしまえるだろう。
しかし青年は怯むどころか晴れ晴れしい笑顔を男へ向けた。
「んー? あぁそう。ありがとう、褒めてくれて」
「……っ!」
脅しつけてもサラリと受け流す青年によって馬鹿にされたことを悟り、男が顔をさらに赤く染める。その懐へスルリと近づくと、青年は男の耳元で何事かを囁いた。
「——っ! そんなことできるはずが」
「俺は別に試してもいいよ。もしも本当だったら恥をかくのはお兄さんだけど、それでもいってみる? 俺はどっちでもいいけど、ね!」
グインたちには彼らが何を話しているのかは分からない。分かるのは、青年の妙に歯切れいい言葉が男にとっては歓迎できない内容らしいということのみである。
「ちっ……おい、行くぞ」
「あ、おい」
「待てよ!」
「あれま、行っちゃうんだ。せっかく実験台見つけたと思ったのに」
くるりと身を翻して休憩所の裏手へ向かうリーダー格の男に驚いて、男の仲間たちが慌てて追いかけていく。彼らの馬車はまだ出発しないが、それでも男にとってこの場にいることが堪え難いのだということはグインにも理解できた。
男の突然の行動へ仲間たちは戸惑っているが、グインにしても理解が及んでいない。周囲の乗客たちだけでなく当事者の医療師ですら同じだろう。グインはただ、ニコニコと笑いながら戻ってくる青年を呆然と眺めていた。
「お疲れ」
「あ、はい、お疲れさまです……?」
「うん、苦しゅーない!」
まるでそれが当然という態度で親しげな挨拶を寄越した青年にグインは流される。その曖昧な返事へ愉快そうに笑うと、青年はグインの肩を叩いた。
「お姫様を助ける役を取っちゃってゴメンねー。カッコ良く助けたらカッコ良くアピれたのにね」
「そんなつもりじゃ!! ……あれ、何これ、急に暑くなったような」
「おっ、もしかして一目惚れ? 俺もしかして甘酸っぱい何かをつついちゃったかな」
可愛らしい医療師への自覚していなかったほど淡い想いをからかわれ、純情な剣士の顔は一気に赤く染まる。少年の慌て様を青年はニマニマと観察していた。その愉快そうにたわんだ目元からは、全く申し訳ないと思っていないどころか、わざとグインの邪魔をしたことが窺える。
だが当の本人はそれに気づかずむしろ大きく安堵の息を吐き出した。
「僕のことは、まぁ……ともかく。僕だったら一回殴られて終わりだったと思いますし」
「お、おー? そうかぁ……?」
どうにか取り繕って澄まし顔のグインだが、青年はどこか釈然としない表情をした。どうやら見せ場を取られたグインから純粋に礼を言われたことに戸惑ったらしいが、それも一瞬だけですぐに先ほどまでの笑顔へと仮面を付け替える。
「ま、いいか。俺はミスト。そっちは?」
「え?」
「名前だよ、名前。同じ便の馬車だったろ? せっかくだし終点までは仲良く行こうぜ」
「あ」
今の今まで全く目立たなかったために思い出せなかったが、確かにこの青年はグインと同じ馬車でここまで来た。そうなれば自動的に出発も同時で、最低でも今日の夜に次の街へ到着するまではお互いの顔を見続けるのだ。剣士の少年は慌てて頭を下げる。
「グインです。よろしくお願いしますね、ミストさん」
「ま、多分短い間だけどよろしくな」
からからと明るく笑う青年が右手を差し出すことはない。それがミストの答えであり、もしかしたら人に対する考え方の表れなのかもしれないと、その時のグインはぼんやりと考えた。




