EX3-2 司書の日常
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マルタ・ミルフォードは、深緑色の表紙をした魔術書を慎重に開いた。
背表紙の内側に刻まれているのは、細い線を幾重にも重ねた地の魔術陣だった。
マルタが指先から魔力を流し込むと、ただの模様にしか見えなかった陣が淡い黄褐色の光を帯びた。
その光は背表紙から綴じ糸へ、綴じ糸から一枚一枚の紙へとゆっくり広がっていく。
「……これでよし、と」
魔術書を閉じ、傍らに置いていた管理簿へ日付を書き込む。
魔道図書館の蔵書には、劣化を防ぎ、紙や綴じを強くする地の魔術が刻まれている。
もっとも、魔術陣が刻まれているだけで永遠に本を守ってくれるわけではない。
蓄えられた魔力が尽きてしまえば、どれほど精密な魔術陣であっても、ただ線を組み合わせた模様へ戻ってしまう。
だからこそ、蔵書へ定期的に魔力を補充することも司書の仕事の一つだった。
受付での入退館を管理。
利用者対応、写本台の使い方を説明、紙や筆記具を販売。
魔術書の管理。
その仕事は多岐に渡る。
そんな魔道図書館の司書に魔術学院の卒業生が多い理由の一つが、この魔力の補充だった。
もちろん、それだけが理由ではない。
学院卒業生であれば魔術書の扱いに慣れていて、難解な分類名や術式の名称にもある程度対応できる。
何年も学院の生徒として図書館を利用していた者が、そのままここで働くことを希望する場合も多い。
マルタもその一人だった。
学院で学んだ経験。
幼い頃から変わらなかった本への興味。
その二つが重なり、卒業後は魔術を生業とするのではなく、司書として魔術書に囲まれて生きる道を選んだ。
自分に合った選択だったと思っている。
魔術師としての腕は、可もなく不可もなく。
学院を卒業できる程度の知識と技術は身につけたが、研究者や都市防衛隊の魔術師として働けるとは思っていなかった。
それでも、本を読み、その知識を必要とする者へ届け、貴重な蔵書を後世へ残す手助けはできる。
それで十分だった。
マルタは次の本へ手を伸ばした。
分厚い表紙を持ち上げようとして、ふと手が止まる。
見覚えのある本だった。
決して初学者向けとは呼べない魔術理論の本。
マルタ自身、学院にいた頃には内容を理解するだけで随分と時間がかかった。
その本を、小さな両手で抱えていた少女がいた。
椅子へ座っても足が床へ届かないほど幼かったのに、朝から夜まで、何度も何度も頁をめくっていた少女。
「……懐かしいわね」
小さく呟き、表紙を撫でる。
あの子が初めて魔道図書館へ来たのは、マルタが司書になって間もない頃だった。
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最初に抱いた印象は、決して良いものではなかった。
気づいた時には、青い髪をした幼い少女は毎朝のように一人で図書館へやってきた。
年齢は5歳ほど。
小さな身体には似つかわしくない基礎の範疇を超えている魔術書を何冊も抱え、決まって書架の奥にある席へ座った。
「お嬢ちゃん、一人なの?」
初めて声をかけた時、少女は返事をしなかった。
聞こえなかったのかと思い、マルタは少しだけ声を大きくした。
「御家族は一緒ではないの?」
少女は顔すら上げなかった。
ただ、目の前の魔術書を一頁めくっただけだった。
「……聞こえてる?」
もう一度声をかける。
今度は一瞬だけ青い目がマルタへ向いた。
それだけだった。
何の返答もなく、少女の視線はすぐに本へ戻る。
正直に言えば、随分と可愛げのない子だと思ってしまった。
何か一言くらい返してくれてもよいではないか。
そう感じたのは、マルタだけではなかった。
事務作業をしていると、他の司書たちの少女への評価が嫌でも耳に入った。
「またあの子か……」
「放っておけばいいわ。入館料は払っているし、規則を破っているわけでもないもの」
「声をかけても無視されるだけよ」
皆似たような印象を抱いていた。
少女は館内で騒がない。
本を乱暴に扱うこともなければ、規則を破ることもない。
利用者として問題を起こしているわけではない以上、無理に関わる必要もなかった。
結果として、司書たちは少女を遠巻きに眺めるだけになっていった。
マルタも、これが大人でそういう印象の人物であれば同じ対応をしていた。
だが、少女はあまりにも幼かった。
朝早くに一人で現れ、昼を過ぎてもほとんど席を立たず、夜になっても帰ろうとしない。
いくらヴァイスタールの治安が悪くないとはいっても、5歳程度の子供を完全に放置していいとは思えなかった。
だからこそ、そんな使命感を胸にマルタは懲りずに声をかけ続けた。
「おはよう。今日も早いのね」
返事はない。
「そろそろお昼だけど、何か食べなくて大丈夫?」
時間を空けるが、それでも返事はない。
「もう暗くなってきたわよ。帰らなくて大丈夫?」
やはり返事はなかった。
それでも毎日繰り返しているうちに、僅かな違いが見えるようになってきた。
何かを考えているとき、手を動かしている時、そういう時に声をかけると、少女は露骨に不機嫌そうな顔をした。
反対に、一冊の本を閉じた直後などの区切りがよさそうなタイミングであれば、同じように声をかけても不機嫌にはならなかった。
「もう閉館時間よ」
「……そ」
初めて返事らしい返事があった時、マルタは思わず目を瞬かせた。
愛想があるとは言い難い。
それでも、完全に無視されるよりはずっとよかった。
それ以降、マルタはなるべく少女の手が止まる瞬間を選んで声をかけるようになった。
少女が不機嫌そうにしている日は、声をかけること自体を遠慮することもあった。
それでも、他の司書よりは明らかに多く接していたと思う。
そんな日々が続いていた、ある夜のことだった。
閉館の時刻を過ぎても、少女は写本台から動こうとしなかった。
「もう閉館よ」
マルタは少女の羽ペンが止まったのを確認してから声をかけた。
「あと6頁」
「6頁もあるなら明日でもいいでしょう?」
「今やった方が早い」
「明日も朝から来るつもりでしょう。今日はもう帰らないと、御家族が心配するわよ」
「……」
少女は不満そうに本へ視線を落とした。
帰る気はないらしい。
どう説得したものかとマルタが悩んでいると、閉じられていた図書館の扉が開いた。
「セシル」
穏やかでありながら、よく通る男性の声が館内に小さく響く。
そこに立っていた男性の顔を見て、マルタは息を呑んだ。
魔術学院学長、ベルンハルト・フォートリエ。
マルタが学院へ通っていた頃、実際に教壇へ立ち、授業を受け持っていたこともある人物だった。
「約束の時刻は、随分前に過ぎているぞ」
「区切りが悪かった」
「続きは明日にしなさい」
「……」
少女は少しだけ眉を寄せた。
それでもベルンハルトが無言で待っていると、渋々といった様子で本を閉じて、書架の方に向かった。
そのやり取りを見ただけで、2人が親しい関係であることは分かった。
だが、親子にしては年齢が離れているようにも見える。
マルタが戸惑っていると、ベルンハルトは司書たちへ向き直った。
「いつも遅くまで申し訳ない」
「い、いえ。それは全然問題ないので」
「忙しさにかまけてどうしても迎えに来るのが遅くなってしまう。私がもっと時間を割いてやれればいいのだが……あの子は普段、こちらでどのように過ごしているだろうか」
司書たちが互いの顔を見た。
誰も答えようとしない。
少女が毎日来ていることは知っている。
だが、実際に何を読んでいるのか。
どのように過ごしているのか。
そこまで把握している者はほとんどいなかった。
自然と視線がマルタへ集まる。
「え、えっと……」
ベルンハルトの視線まで向けられ、マルタは背筋を伸ばした。
学生だった頃に戻ったような気分だった。
「毎日、朝早くから来館されています。館内の規則はきちんと守っていますし、蔵書も丁寧に扱っています。騒いだことも、他の利用者の迷惑になったこともありません」
嘘は言っていない。
声をかけてもほとんど無視されること。
他の司書からあまり良い印象を持たれていないこと。
その辺りはわざわざ伝える必要のないことだと思い、口にしなかった。
「読んでいる本は、魔術の基礎理論から、もう少し専門的なものまで様々です。休憩を取らずに読み続けてしまうことが多いので、食事や帰宅のお声がけはしています」
「そうか。ありがとう」
ベルンハルトは静かに頷いた。
それから、マルタ以外の司書たちへ一度だけ視線を向けた。
「どうやら、あの子は随分皆に心労をかけているようだな」
心臓が跳ねた。
誰もそのようなことは言っていない。
だが、答えられたのがマルタ一人だけだったこと。
司書たちが少女を見つめる目。
それだけで察してしまったらしい。
「ご、ご迷惑をおかけされたりは——」
「いや。あの子の普段の態度を考えれば、無理もない……あの子はセシル。私の姪だ」
そこで一度、ベルンハルトの声が僅かに沈んだ。
「少し前に両親を亡くしてな。叔父である私が引き取り、今は共に暮らしている」
「御両親を……」
「この年齢で突然環境が変わったこともあり、他人とどう接すればよいのか、本人も分かっていないのだろう。引き取った直後は、何を見せてもほとんど興味を示さなかった。この図書館へ連れてきて、ようやく自分から何かをしたいと言うようになったのだ」
ベルンハルトは苦笑した。
「だからといって、無礼が許されるわけではない。皆に不快な思いをさせていることは、私から謝罪させてほしい」
「そ、その必要はありません」
マルタは慌てて首を横に振った。
「セシルちゃんは、本当に何も問題を起こしていません。私たちが、どのように接すればよいのか分からず、勝手に戸惑っていただけですから」
「……そう言ってもらえると助かる」
ベルンハルトは穏やかに目を細めた。
「今後も迷惑をかけることがあるかもしれない。その時は、遠慮なく私へ知らせてくれ」
「は、はい。承知しました」
それから少しして、セシルちゃんは戻ってきた。
何を言うでもなくベルンハルトの横に並ぶ。
ベルンハルトは司書たちへ軽く頭を下げ、図書館を出ていった。
閉じられた扉を見つめながら、マルタは何も言えなかった。
こんな事情を聞いてしまえば、無愛想で可愛げがないという印象だけで遠ざけることなどできなかった。
翌朝。
いつも通り早い時間に図書館へ現れた少女へ、マルタは声をかけた。
「おはよう、セシルちゃん」
少女の足が止まった。
「……誰に名前を聞いたの」
「昨日、お迎えに来たお父さんからよ」
「……父親じゃない」
「……そっか。そうよね、ごめんね」
「……ふん」
セシルはそれだけ言って、いつもの席へ向かった。
相変わらず愛想はない。
それでも、返事はしてくれた。
それから、マルタは以前よりもセシルを気にかけるようになった。
そこで初めて、彼女がただ本を眺めているわけではないことに気づいた。
セシルが読んでいたのは、マルタが学院に在籍していた頃、理解するまでに何度も読み直した魔術書だった。
初めは内容までは理解せず、書かれている文字を追っているだけなのだと思った。
だが、そうではなかった。
難しい箇所では遅くなる。
一度前の頁へ戻り、別の記述と見比べる。
そして何かに気づくと、写本台に移動して紙に何かを書き込んでいく。
内容を理解しているのは明らかだった。
マルタは本を書架へ戻すふりをしながら、書かれた内容をそっと覗いた。
そこに並んでいたのは、本文を書き写した文章ではなかった。
どれも本の内容を理解していなければ生まれない疑問だった。
5歳の子供が、マルタが学院で何年も学んだ末にようやく読めるようになった本を理解している。
言葉にしづらい感情を抱いてしまうのは言うまでもなかった。
「……そこ、分からないの?」
思わず声をかけていた。
セシルはちょうど羽ペンを置いたところだったせいか、不機嫌そうにはしなかった。
「……ただ気になることがあるだけ」
「そこは私も学院でこの本を学んだことがあるから、教えてあげられると思うわ」
学院卒業生としての自負はあった。
いくらセシルが聡明に見えても、まだ5歳の子供だ。
平凡な自分でも教えてあげられるはずだと思った。
「……この式の結論は分かる。でも、前提が変」
セシルは紙の一部を指差した。
「この本は、周囲の魔素濃度が一定なら、流路が長いほど収束効率が落ちるって書いてる。でも、その前の節では、魔素は場所と属性で偏るって書いてあった」
「それは……この箇所では、計算を簡略化するために一定としているのだと思うわ」
「どこまでなら簡略化していいの」
「どこまで……?」
「小規模な術式なら差が出ないのか。補助陣を2つに増やしても同じなのか。違う属性を同じ流路へ流した場合は。使用者の属性適性が極端に違う場合にこれは無視できるものなのか。そういうのが書いてない」
セシルは別の紙を取り出した。
そこには、元の魔術陣を僅かに変えたらしい図が描かれていた。
「この形なら、補助陣の外側で流路が重なる。一定として計算したら同じ結果になるけど、実際には属性の偏りでここの抵抗が変わるはず」
マルタは何も答えられなかった。
セシルの言っていることが間違っているとは思わない。
だが、正しいとも即答できない。
その場合のデメリットもあったはずだ。授業で教わったおぼろげな記憶でしかないが。
「えっと……それは、すぐには答えられないわね」
「そ」
「でも、調べれば——」
「いい。帰ったらあの人に聞く」
セシルはあっさりと話を打ち切り、再び本へ視線を戻した。
それ以降、マルタが魔術の内容を教えようとしても、セシルから質問されることはほとんどなかった。
一度答えられなかったことで、頼る相手から外されてしまったらしい。
学院卒業生としては、少しだけ傷ついた。
だが、不思議と妬ましいとは思わなかった。
それ以上に、驚かされていた。
学院にいた頃ですら、これほどの者には会ったことがない。
マルタより優れた魔術師は何人もいた。
だが、5歳でこれほど深く魔術理論を理解し、既存の記述を疑い、自分の考えを組み立てる者など見たことがなかった。
朝から夜まで本を読む集中力も、マルタには真似できない。
食事の時間すら惜しみ、必要最低限の休憩以外は、ひたすら魔術書を読み続ける。
その姿を素直にすごいと思うと同時に、僅かな畏怖も覚えた。
魔術へ向ける執着も、思考の深さも、何もかもが違い過ぎる。
それでも、一番強く抱いていたのは心配だった。
そもそも、これだけの知識を身に着けるために、この子は何を犠牲にした。
セシルの近くに、友人の姿はない。
同じくらいの年頃の子供が、学院近くの通りを楽しそうに歩いていることがある。
セシルも、そうした子供たちへ視線を向けることはあった。
ほんの一瞬だけ見て、すぐに本へ戻る。
遊びたいのか。
話してみたいのか。
それとも、本当に何も感じていないのか。
マルタには分からなかった。
セシルが7歳になっても、状況は何も変わらなかった。
少しだけ背が伸びた。
以前よりさらに難しい本を読むようになった。
変わったのは、その程度だった。
友人は、できていないと思う。
毎朝図書館へ来て、閉館間際まで魔術書を読み、ベルンハルトが迎えに来れば帰っていく。
ある日の夜。
いつものようにセシルを迎えに来たベルンハルトへ、マルタは意を決して声をかけた。
「学長先生。少し、よろしいでしょうか」
「——もちろんだ。セシルのことかな」
「はい」
マルタは、少し離れた場所で本を戻しているセシルを見た。
「セシルちゃんを、魔術学院へ入学させてあげることはできないのでしょうか」
ベルンハルトは驚かなかった。
困ったような顔で、静かに息を吐いた。
「やはり、君もそう考えるか」
「学院へ通えば、魔術を体系的に学ぶことができます。それに、同じように魔術を学ぶ方々と接する機会も増えます。セシルちゃんにとっても、よいことなのではないかと思いまして」
「……私も、既に勧めたのだ」
「……そうなんですか?」
「ああ。だが、断られてしまった」
ベルンハルトは苦笑した。
「学院で教わる内容は、既に自習で終えている。知っていることをもう一度教わるために、金と時間を使う意味を感じないそうだ」
「全部、ですか?」
「少なくとも、卒業に必要な範囲を理解していることは知っている。私への質問が既に教師たちがしている研究のような内容に移っているからな。実技に関しても、年齢による身体的な問題を除けば、基礎課程へ入れる意味は薄いだろうな」
「そんな……」
7歳で。
概ね12歳程度から入学し、平均でも卒業まで6年ほどかかる学院の内容を。
既に全て自習で終えている。
ベルンハルトが学院へ入れることを諦めた理由は理解できた。
「マルタくん」
不意に名前を呼ばれ、マルタは顔を上げた。
「君は、セシルをどのように思っている?」
「……どう思う、ですか?」
「ああ。頻繁に声をかけてくれているそうだな」
「なぜそれを?」
「毎日話しかけてくる司書がいると家で顔をしかめていたからな」
ベルンハルトの口元が僅かに緩んだ。
それは、嫌がられているのだろうか。
セシルが自分を認識し、ベルンハルトへ話していたこと自体が意外だった。
「君は、あの子をどう思う?」
マルタは少し考えた。
取り繕った言葉を返しても、ベルンハルトには見抜かれる気がした。
「セシルちゃんは、私にはないものをたくさん持っています。学院で何年もかけて学んだことを、あの年齢で理解しています。私では思いつかないような疑問を持って、自分で答えを探しています」
「そうだな」
「少し、怖いとも思います。このまま成長したらどこまで行ってしまうのか、私には全く想像できません」
ベルンハルトは黙って聞いていた。
「でも、それ以上に心配です」
マルタは、書架の奥にいるセシルへ視線を向ける。
「セシルちゃんは、ずっと一人です。朝から夜まで本を読んで、それ以外のことには興味を示さなくて。同じ年頃のお友達と話すことも、遊ぶこともありません」
「……ああ」
「セシルちゃん本人が望んでいるなら、無理に変えさせるべきではないと思います。それでも、あの年齢の子が一人で過ごしているのを見ると、本当にこれでよいのかと思ってしまいます」
「妬ましいとは、思わないのか」
「え?」
「君が何年もかけて身につけた知識を、セシルは幼くして修めている。自分にはない才を、あの子は持っている。そうは思わないのかね」
マルタは再び考えた。
だが、どれだけ考えても答えは変わらなかった。
「思いません」
はっきりと答える。
「私が努力してもセシルちゃんにはなれませんし、セシルちゃんも私ではありません。あの才能は、セシルちゃんのものです。それを私が妬んでも、何かが変わるわけではありませんから」
「……そうか」
ベルンハルトは静かに頷いた。
その表情は、どこか納得しているように見えた。
「君は、学生の頃から変わらないのだな」
「学生の頃……って、覚えていらっしゃるのですか?」
思わず大きな声が出そうになり、慌てて抑える。
滅多にないベルンハルトが教壇へ立つ機会。
学長自ら教鞭を執る授業を受けたい生徒は大勢いた。
特に優秀だったわけでもないマルタのことを、覚えているとは思っていなかった。
「覚えているとも」
ベルンハルトは穏やかに笑った。
「実技で、同じ班の生徒が君より先に術式を完成させたことがあっただろう」
「……それは、たくさんありました」
「君は自分が悔しがるより先に、その生徒の術式を褒め、どこを調整したのか教えてほしいと頼んでいた。その後、自分より遅れていた生徒の練習にも最後まで付き合っていたな」
そこまで細かく覚えられているとは思わなかった。
マルタ自身、言われるまで忘れかけていたほど昔のことだった。
「君の魔術の才が、突出していたとは言わない」
あまりにも率直な言葉に、マルタは少しだけ肩を落とした。
ベルンハルトは小さく笑いながら続ける。
「だが、他者の才を妬まず、その価値を素直に認められる気質は、容易に得られるものではない。努力で魔術の技量を高めることより、難しい場合すらある」
「それは……」
「だからこそ君は、セシルの才を恐れながらも、遠ざけずに見ていられるのだろう」
ベルンハルトは、書架の奥にいるセシルへ目を向けた。
「一つ、頼みたいことがある。少しでいい。これから先も、あの子を少しだけ気にかけてもらえないだろうか」
「……私でよろしいのですか?」
「君がいい」
「……分かりました」
マルタは頷いた。
「司書として、セシルちゃんがここへ来ている間は、きちんと見守ります」
「ありがとう」
それからマルタは、毎日セシルに声をかけるようになった。
当然返事がなかったことも多い。
だが、それでよかった。
嫌がられても構わない。
返事がなくても構わない。
それからマルタは、セシルが図書館へ来た朝と、帰る前の夜には必ず声をかけるようになった。
「今日はもう閉館よ」
「……ん」
たったそれだけのやり取りも多かった。
会話と呼べるほどのものではない日も多かった。
それでも、そのやり取りは何年も続いた。
セシルが14歳になり、マルタが見下ろさなくても顔を見られるほど背が伸びた。
それでも、朝から夜まで同じ席に座り続ける姿は変わらなかった。
そして、ベルンハルト前学長が亡くなった。
訃報が届いた翌日。
セシルは図書館へ来なかった。
その次の日も。
さらに次の日も。
ベルンハルトを失ったセシルがどうしているのか。
食事は取っているのか。
一人で家に閉じ籠もっているのではないか。
心配じゃなかったと言えば嘘になる。
だが、マルタから無理に踏み込める関係でもなかった。
結局、セシルはそのまま長い間、魔道図書館へ姿を見せなくなった。
そして、あの日。
受付の前に立ったセシルの隣には、見知らぬ2人の少女がいた。
以前より少し背が伸びていたが、いつも通りの様子だったセシル。
「セシルちゃん、久しぶりね」
「いい加減ちゃん付けやめろ。3人」
言葉遣いも、態度も変わっていない。
だが、3人という言葉に驚いて彼女の後ろを見ると、初めて見る魔道図書館に目を輝かせている2人の少女がいた。
どちらの子もセシルちゃんより小柄ではあったけど、セシルちゃんと同年代の子なのはすぐにわかった。
入館の手続きが終わり、二人の少女が先に書架を眺め始めた後。
セシルは受付へ戻ってきて、マルタへ小さな声で告げた。
「あの2人に写本を手伝わせる」
「え、ええ」
「どっちも初めてだし、箱入り娘2人だから。私が近くにいない時は少し気にかけといて」
マルタは返事を忘れた。
他人のことを心配し、自分から誰かへ見守ってほしいと頼んでいる。
5歳の頃から、大人に頼ることすらほとんどなかった、あのセシルが。
「あの2人、知らない相手に声かけられても普通についていきかねないから」
「——分かったわ。こっちでも気にかけておくわね」
「ん」
セシルはそれだけ言って、2人の少女のもとへ戻っていった。
片方の少女が、戻ってきたセシルへ何かを尋ねる。
セシルは面倒そうな顔をしながらも足を止め、質問へ答えていた。
もう一人の少女も会話へ加わる。
セシルは追い払わなかった。
鬱陶しそうにはしている。
それでも、二人を自分の近くへ置いたまま、並んで書架の奥へ歩いていった。
あまりの変化に、マルタはしばらくその後ろ姿を見つめ続けていた。
あの2人は、セシルにとってどのような存在なのだろう。
結局、その疑問を抱えたままでいられたのは、ほんの数日だけだった。
2人の少女だけで帰ろうとしている姿を見つけた時。
マルタは気づけば受付を出て、2人に声をかけていた。
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懐かしい記憶から意識を戻し、マルタは手元の魔術書を見下ろした。
あの時、2人は迷わずセシルを友達だと言った。
セシル本人へ同じことを尋ねれば、間違いなく嫌そうな顔をするだろう。
友達ではない。
写本を手伝わせただけ。
研究に必要だったから連れてきた。
そのようなことを、いくらでも並べるに違いない。
それでも、嫌なら近くへ置かない子だ。
自分から見守ってほしいなどとも頼まない。
ベルンハルトが最後まで心配していた少女は、マルタが知らない場所で、確かに自分の世界を広げていた。
「前学長先生が御覧になったら、喜んだでしょうね」
返事をする者はいない。
マルタは微笑みながら、魔力を補充し終えた本を台車へ載せた。
管理簿へ最後の記録を書き込み、椅子から立ち上がる。
「マルタ。休憩用の焼き菓子をいただいたけれど、貴女も食べる?」
少し離れた場所から、同僚の司書が声をかけてきた。
普段なら迷わず受け取っていた。
「……今日は、遠慮しておくわ」
自分の口から出た言葉に、少しだけ悲しくなった。
成長したのは、セシルだけではなかったらしい。
セシルに言われるまで食事量が増えていたことに疑問すら抱いていなかった過去の自分を殴りたくなってくる。
「……本気で、減量しなくちゃ」
マルタは誰にも聞こえない声で呟き、静かに職務に戻った。
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