1-1 儀式の朝
炎に呑まれた森を、幼い少女の手を引いて駆ける。
焼け落ちた幹が道を塞ぎ、火の粉が頬を打つ。
足は止められない。止まれば、アレに追いつかれる。
息が詰まりそうなほどの熱気の中で走る背後では、咆哮が響き渡っていた。
「はぁっ……はぁっ……」
「ごめんサヨ! もう少しだけ頑張って!」
「は、はい!」
巫女服だから走りづらいけど、それはサヨも同じだ。
私が抱きかかえてあげられたら良かったけど、そんなことをしたら走れなくなる。
サヨの足取りはもう乱れていた。
もう長くは走れないのが嫌でも伝わってくる。
どこか隠れられる場所を見つけてアレをやり過ごすしか——
『ミコト! こっちなら通れます! 早く!』
『うん!』
先行していたトコヨが、炎の向こうで手招きしていた。
宙に浮かぶ半透明の黒髪の少女が、火の粉の中で揺れている。
「右に曲がるよ!」
「えっ!?」
サヨにはトコヨが見えていない。
急な方向転換にサヨが驚いているけど、今は説明している時間がない。
そう思って隠れられる場所を探して周囲を見渡しながら走り続けていたけど……
「あっ!?」
「サヨ!?」
掴んでいたはずの手がするりと抜けた。
後ろから倒れ込む音が聞こえてくる。
すぐに足を止めてサヨの方を振り向いた直後に、大きな黒い影が視界を覆った。
見上げた空が、黒い翼で塞がっていた。
「っ!」
サヨを抱え込み、地面へ飛び込む。
怪我とかを気にする余裕なんてない。
そうしないと潰されて死んでしまう。
サヨを抱き込みながら庇うようにして地面を転がる。
その直後、竜が巨体を地面へ叩きつけるように降り立った。
轟音とともに地面が抉れ、土と火の粉がまとめて跳ね上がる。
生温い吐息が頬を撫でた。見上げた先で、竜が低く喉を鳴らしている。
「っ……」
『ミコト! 立って! 早く逃げてください!!』
「逃げるって言っても、この状況でどこに逃げるの!?」
恐怖で震えているサヨを抱きしめつつトコヨの呼びかけに文句を返して、どうにか打開策を考える。
一瞬でいい。
目を逸らさせることができれば、まだ逃げられる。
短い祈りを術へ結び、掌に光を集める。威力はない。それでも、何もしないよりはましだった。
竜の頭へ向けて、生成した光の球を撃ち出す。
「いけっ!!」
飛ばした、はずだった。
竜は、何かしたのかと言わんばかりに、瞬きひとつせずただこちらを見下ろしていた。
光弾は鱗に触れた瞬間、薄い霧のようにほどけて消えた。
傷どころか、焦げ跡ひとつ残っていない。
「あ、はは……怯みすらしないんだ……」
【■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!】
思考が止まりかけた瞬間、咆哮が地面ごと身体を揺らした。
咆哮で開いた顎が、そのまま迫ってきた。
黒い首がしなり、牙の並んだ口が私たちを呑み込もうとする。
考えるより先に、サヨへ覆いかぶさっていた。
サヨの腕が、私の身体にきつく回された。
この後起こることを想像して、思わず目を閉じてしまう。
『ミコトっ!』
トコヨの声が聞こえた。
その声が聞こえた直後、背中から胸へ、焼けるような痛みが突き抜けた。
そして、私の視界は、真っ暗になった。
————
それは、悠久の時の中で生じたもはや妄執とすら呼べるものだった。
救いと呼ぶにはあまりにも身勝手で、祈りと呼ぶにはあまりにも重い。
大切な人の明日を望んだはずの執念は、いつしか一人の少女の背に積もっていた。
少女はまだ何も知らない。
自分が何を託されたのかも、何を奪われていくのかも知らないまま。
無垢に育て上げた少女は歩まなくてはならない。
痛みを知れば、足は竦む。喪失を知れば、心は折れる。
辿り着く場所を知ってしまえば、進むことそれ自体が残酷になる。
運命と呼ぶことはたやすい。
それでも。
すべてを知ったあとでなお、少女が前へ進むのなら。
逃げることも、目を閉じることも、諦めることもできるはずの場所で、それでも手を伸ばすのなら。
声にならなくても。
形を失っても。
たとえ運命に抗えるかは分からなくても。
私は——
————
「——っ!?」
息を呑み、弾かれたように身体を起こした。
「……夢……?」
胸の奥がうるさいほど脈打っていて、息がうまく吸えない。
何度か深呼吸をして、ようやく周囲が見えた。
目に映ったのは、いつもの自室だった。
自分が死ぬ夢とか、縁起でもない……今日は大事な儀式の日なのに。
『ミコト、起きましたか』
「うん、おはよう。トコヨ」
ちょっと探るような視線を向けながら声をかけてくるトコヨにいつも通り挨拶を返す。
いつもは元気に挨拶してくるし、挨拶したらしたでうるさいくらい周りで飛び回って騒ぐのに、どうしたんだろう。
「トコヨ?」
『いえ、なんでも……ミコト、今日は外で遊ぶなんてどうですか? ミスズの目を盗んで抜け出して』
何を言ってるんだろうこの駄幽霊。
子供のような姿でも、トコヨが纏っているのは少し豪華な巫女服だ。先祖の巫女だという話が本当なら、今日の儀式の重さくらい分かっているはずなのに。
「今日はダメだよ。トコヨも知ってるでしょ? 私が儀式をする日なんだから。初めてってことで皆気合入れて準備してくれてるし、そんなの無理だよ。終わったらいつもの場所くらいにはいけるだろうから、それまで我慢してね」
『ん、そうですよね。……そういえば、ミスズが『ミコトが起きるのが遅い』って怒ってましたよ?』
「えぇ……相変わらず厳しいね……寝坊してないはずなのに」
トコヨの言葉を聞いて急いで身支度を始める。
いくら神社の年1回の大事な儀式の日だからって気が早すぎる。
それだけ私が次期筆頭巫女として儀式をやるのが心配なんだろうけど……
とりあえず早く準備しちゃわないともっと怒らせちゃうか。
そう思って布団を片付けて身支度を始めた。
『今日の朝ご飯はちょっと豪華みたいですよ。ミスズがミコトに英気を養ってもらうって気合入れてましたし。多分それで気が急っちゃってるんでしょうね』
「豪華!? なら――」
『はい。ミコトの好きな果物も準備してましたね』
「それを早く言ってよ! 早く行こ! トコヨ!」
『むしろ私も早く食べたかったからミコトが起きるのを待ってたんですが??』
山と麓の里で採れたものだけで暮らしているから、食事に困ることはなくても甘味は滅多にない。
悪夢で沈んでいた気分が一気に舞い上がる。
トコヨがついてくるのを横目で確かめながら、巫女全員で食事を取る広間へ急いだ。
その手前で歩調を緩め、静かに中へ入る。
「おはようございます、お母様」
「ようやく起きてきましたね。皆待っていましたよ。早く座りなさい」
「はい」
『ミスズも照れ屋ですねー。さっきまであんなにそわそわしてたのに』
『トコヨうるさい』
茶々を入れてくるトコヨに内心で文句を言いながら、いつも通りお母さんの隣に座る。
筆頭巫女であるお母さんの隣は、次期筆頭巫女である私の席だ。
そこから巫女三人、見習い巫女になったばかりのサヨと続いている。
私が座ったのを確認すると、お母さんが皆に一声かけて食事が始まった。
そして、すぐに目当てのものを見つけた。
「わぁ……!」
滅多に出ない果物。年に数えるほどしか食べられない貴重な甘味。
『ミコト! 早く食べてくださいよ! 見てるだけじゃなくて!』
『うん!——おいしぃ……』
思わず蕩けてしまいそうなほどの至高の甘味。
もっと食べたい。でも最後にも食べたい。
……残りはご飯を食べきってから最後に食べよう。
「それではミコト、儀式の身支度を整えたら神楽殿に来るのですよ」
「はい、お母様」
食事が終わってすぐにお母さんと巫女の3人が準備のためにいそいそと動き出した。
私もまた着替えないといけないから一度部屋に戻って――
「あの、ミコト様!」
「? どうかしましたか、サヨ」
準備のことに思いを馳せていたらサヨが声をかけてきた。
サヨはまだ12歳。私よりだいぶ小さい。
サヨは胸の前で手を握り、きらきらした目で私を見上げていた。
この神社では15歳の私と一番年が近い子だ。
「儀式、楽しみにしてます! 私もミコト様のお役に立てるように、お掃除とか頑張りますね!」
「ありがとうございます。私も、お母様に劣らない儀式が出来るように頑張ります。お互いに頑張りましょうね」
「はいっ!」
サヨが嬉しそうに頷く。
まっすぐすぎる視線を向けられて、なんだか少しむず痒い。
『ものすごく尊敬されてますね、ミコト』
『やめてよ』
「あ、あの、ミコト様?」
「え?」
サヨが不思議そうにこちらを見ていた。
しまった。トコヨに返事をしていたせいで変な間ができてしまった。
「い、いえ。なんでもありません」
「……? そうですか?」
納得したのかしていないのか分からないまま、サヨはまた嬉しそうに笑った。
この集落では、筆頭巫女が神社だけでなく里そのものを取り仕切っている。
いずれその役目を継ぐ私に、皆が期待を寄せていることは分かっていた。
特に今日は、年に一度の儀式で初めて祭主を務める日なのだから。
「サヨ、急ぎなさい。やることは山積みですよ」
「うん! ……それでは、失礼します! ミコト様!」
巫女であるサヨの母がサヨを呼びに戻ってくると、サヨは駆け足で出ていった。
私も笑顔で手を振ってサヨを見送る。
『実はちょっと緊張してきてますよね、ミコト』
『練習と本番は流石に違うもん。私だって緊張するよ』
『皆期待してますしね。次期筆頭巫女様の晴れ舞台ですし』
『……トコヨまでそういう言い方するの?』
ちょっとモヤっとしたのが伝わったのか、トコヨはきょとんとした顔を浮かべた。
『不満ですか?』
『不満というか……サヨとか皆にそう思われるのは仕方ないかもしれないけど、トコヨにまで言われると変な感じがする』
『ふふ。では、言い直しましょうか』
トコヨは私の目の前にふわりと回り込んでくると、宙に浮いたまま私の顔を覗き込んできた。
『ミコトなら大丈夫ですよ。何も心配する必要ありません』
『……それだけ?』
『はい。それだけです』
次期筆頭巫女とか、お母さんの娘とか、そういう含みは一切感じない。
ただ私をまっすぐ見て言ってくれているのは、ちゃんと伝わってきていた。
『……ありがと』
『どういたしまして。では、安心したついでに本番で盛大に滑って転んだりしないように気合いを入れ直しましょうか』
『今そういうこと言う?』
『冗談ですよ! 冗談!』
トコヨはトコヨでニヤニヤしながらからかってくる。
私の緊張をほぐそうとしてくれているのは分かる。
分かるけど、それはそれとして、ニヤニヤしている駄幽霊には少しイラっとする。
とりあえず私も急がないといけないし、一度部屋に戻って着替え始めた。
神社を出て、神楽殿へ向かった。
すでに村の人たちは集まり始めていて、境内にはいつもより少し張り詰めた空気が漂っている。
トコヨはいつの間にかいなくなっていた。
まぁ儀式とかの時は大体いなくなるからいつものことでしかない。
トコヨは普段からお祈りにはあまり興味を示さない。
見ているだけだと退屈なのだろうと、私は勝手に納得していた。
お母さんを探してあたりを見回すと、自警団の団長さんと話しているのを見つけた。
「お母様、お待たせしました」
「あぁ、ミコト。……問題なさそうですね。ミコトもご挨拶なさい」
お母さんはさっきまで話していた自警団の団長、ツクモさんを示した。
この辺りはオリツキ様のご加護で魔物も少ないけど、全く出ないわけではない。
そんな魔物が現れた時には、自警団が真っ先に動いてくれる。
今日は村の皆が神社に集まっていることもあって、自警団が周囲を警備してくれていた。
「ツクモさん、本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願い致します。それにしても、しっかりしていらっしゃる。ウチの愚息にも見習わせたいくらいです」
「そんなご謙遜を……シスイ君に村の警備は任せてきたのでしょう?」
「最後までミコト様の初の儀式をこの目で見たかったなどといっていました。まだまだですよ」
……完全に世間話に話が移ってしまっている。
しばらく愛想笑いを浮かべながら話に同席して、頃合いを見計らって神楽殿を見てくると言って抜け出した。
神楽殿。
神社のすぐそばに建てられた、壁のない舞台のような建物で、神前に舞を捧げるための場所だ。
床一面には、聖水が薄く張られている。
準備は恙なく終わっていた。
出仕してくれている巫女は皆優秀だから、手早く済ませてくれたんだろう。
それでも、いつもお母さんがそうしていたように、自分の目で一つずつ確かめていく。
巫女たちは補助してくれるけど、儀式の責任を負うのは祭主である私だ。
儀式の時間になった。
村の人々は、神楽殿の前に整然と座っていた。
皆、目を閉じ、手を組み、オリツキ様へ祈りを捧げている。
お母さんとサヨを含めた巫女も同様だ。
今立っているのは私と神社の周りを警備してくれている自警団の人だけ。
「それでは……始めます」
ゆっくりと錫杖の前まで進んで、静かに手に取る。
そのまま音を立てずに神楽殿に入っていく。
一歩踏み入れるたび、聖水の面に波紋が生まれた。
重なり合った円が、床に刻まれた陣を揺らしている。
中央まで進み、目を閉じる。
里の安寧を。皆の健やかな暮らしを。
それだけをオリツキ様へ願い、祈りを捧げる。
淡い光の玉が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
聖魔法は、祈りを捧げて神の奇跡をお借りする術だ。
余計な欲が混じれば、その力は鈍る。
だから私は、成功させたいという思いさえ一度手放し、ただ皆の安寧だけを祈る。
白い袖が宙をなぞる。錫杖が弧を描き、澄んだ音を返す。
光は舞に呼応して数を増し、足元の陣へ流れ込んでいった。
舞い続けているうちに、周囲は眩いばかりの荘厳な光に包まれていた。
決められた所作のとおりに、最後に神楽殿の中央で錫杖を掲げる。
錫杖を掲げた瞬間、床に刻まれた聖魔法の陣がひときわ強く輝いた。
光が弾け、細かな粒子となって周囲へ降り注ぐ。
……よかった。成功した。
お母さんも、笑顔でこっちを見てくれている。
祈り終わった村の人たちが笑顔になって賑やかさを取り戻していくのを見ながら、私は神楽殿から降りた。
『ほらミコト! いつものところに行きますよ! ほらほら!』
「もうトコヨ、分かったってば。そんなに急がなくても」
儀式の後、お母さんは「上出来でした」とだけ言って、私の襟元を整えてくれた。
普段と変わらない厳しい顔だったけれど、目元はわずかに緩んでいた。
今日はもう休んでいいと言われたのもあって、私は儀式用の装束を脱いでいた。
その後すぐに、トコヨに誘われるままに神社の裏手にある広場へ向かっている。
私とトコヨ以外はここに来ようとしないから、多分知らないんだと思う。
神社からそう離れていない場所に、木々が少しだけ開けた広場がある。
季節の花が咲く花畑で、私とトコヨだけの秘密の場所だ。
今日のトコヨは妙に急かすなぁと思いながら、物心ついた頃からずっと一緒にいる親友の先導についていった。
広場に着くと、私は草の上に腰を下ろした。
次期筆頭巫女としての礼儀も作法も、ここでは少しだけ忘れられる。
トコヨだけにしか見せてない油断した姿とも言える。
『儀式、大成功でしたね』
「見てたの? いなくなってたのに」
『見てなくてもわかりますよ。ミコトが失敗するはずがありませんから』
「それ、適当に言ってない?」
『適当じゃないですよ? ミコトの努力はずっと見てきましたから』
「……ありがと」
『ふふ、お礼ついでに私を褒めてくれてもいいですよ?』
……急に何言ってるんだ駄幽霊。
「なんでトコヨを褒める流れになったの……?」
『それはほら! 私が朝からミコトを励まし、支えて、こうして休憩までしっかり取らせてあげてるからですよ! 褒められて然るべきでは?』
「……頑張ったのは私なんだけど」
『私も儀式の間ずっとミコトを頑張って応援してましたね。フレー! フレー! ガンバレミコトー! って』
胸を張って言い切るトコヨに、思わず呆れてしまう。
でも、こういういつもみたいな何気ないやりとりをしてると儀式で張り詰めていたものが解れていく気がした。
「見てすらなかったのに……?」
『私たちの絆はその程度だったんですか……!? たとえ隣にいなくても、私が心の中で応援していたのは伝わっていると思っていたのに!』
「大袈裟な……まぁ、励ましてくれたのはすごく助かったよ。ありがとね、トコヨ」
『でしょう? もっと褒めていいんですよ!』
「調子に乗りそうだからやめとく」
『ひどい!』
トコヨが大袈裟に肩を落とす。
その様子を見ていると、自然と笑ってしまっていた。
だけど、そんな風に騒いでいる割に、トコヨは何度も神社の方へ視線を向けていた。
最初は気のせいかと思ったけど、明らかにいつもの様子が違う気がする。
それを踏まえると、ここまでの騒ぎ方も空元気みたいな気がしてきてしまう。
「ねぇ、今日のトコヨ少しおかしくない? なにかあったの?」
『……私はいつも通りですよ?』
少し間があってから、にぱーという音が聞こえそうな気がしてくるほどの清々しい満面の笑みを向けられた。
明らかに作り笑いな上に誤魔化そうとする気満々なのが透けて見える。
『う、胡散臭い……』
『胡散臭い!? 完璧なトコヨちゃんスマイルなのに!?』
「あっ」
意図せず強く考えちゃってトコヨに伝わってしまったらしい。
口から漏らしちゃったわけじゃないけど思わず口に手を当ててしまう。
『その素で思っちゃったみたいな反応が一番傷つくんですけど!?』
「うー……ごめんって……」
トコヨがすごい勢いで抗議しながら騒いでいる。
どうにかトコヨを宥めつつ、私は考え続ける。
やっぱり、何かを隠している。
もう一度だけ尋ねようと、口を開きかけたときだった。
大規模な何かが割れて消えるような気配を感じると同時に、巨大な影が山に落ちてきて、神社の方で爆音が響き渡った。




