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『電工の鳴道 ― 光を繋ぐ者たち ―』  作者: 西崎小春


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第7話:どん底の淵で

相模原の朝は、かつて社長室の窓から眺めていた時よりも、ずっと低く、そして重い。

三ヶ月前まで高級外車を走らせていた国道十六号沿いを、今の相沢恒一は、底の擦り切れた安全靴で歩いていた。

自己破産の手続きが終わり、手元に残ったのは数日分の生活費と、柴崎から譲り受けたあの古いペンチ、そして着古した一着の作業着だけだった。 「株式会社トラスト・アイ」の社長・相沢恒一という肩書きは、今やネット上の掲示板で「無責任な成金」「人殺し」と叩かれるための標的でしかない。

「……次。相沢、お前はあっちの解体現場のガラ(廃材)運びだ。サボんなよ」

日雇い派遣の現場監督が、吐き捨てるように言った。 恒一は無言で頷き、埃まみれの軍手をはめた。 かつては数千万円の工事を指先一つで差配していた男が、今は時給千数百円のために、コンクリートの破片を土嚢袋に詰め、ダンプへと運び込む。

背中を伝う嫌な汗。肺にこびりつく粉塵。 筋肉は悲鳴を上げ、かつての「成功者」としてのプライドは、一袋運ぶごとに削り取られていった。

「おい、あいつ……どっかで見たことねぇか?」 「ああ、例の足場事故の……トラスト・アイの社長だろ。テレビに出てたじゃん」 「へぇ、あんなにイキがってたのに、今はゴミ拾いか。因果応報だな」

周囲の作業員たちの冷ややかな視線と、隠そうともしない嘲笑が突き刺さる。 かつての恒一なら、その場で胸ぐらを掴んでいただろう。だが、今の彼には、言い返す言葉も、拳を握る資格もなかった。 自分が急がせた現場で、山崎さんは今も病院のベッドで動けずにいる。その事実が、鉄のかせのように恒一の心を縛り付けていた。

昼休憩。コンビニの裏で、一つ百円の安売りのおにぎりを口に運ぶ。 ふと見上げた先には、かつて理恵が働いていたあのコンビニがあった。 (……理恵。元気でやってるか)

事故以来、彼女とは連絡を絶っていた。 「やり直そう」と言ってくれた彼女を振り切ったのは、これ以上、自分の汚れを彼女に伝染させたくなかったからだ。今の自分は、彼女の隣に立つ資格など微塵もない。

「……おい、相沢。手が止まってるぞ」

監督の怒声に弾かれ、恒一は再び立ち上がった。 夕暮れ時、作業が終わる頃には、全身が泥と埃で真っ白になっていた。 受け取ったわずかな日当。それを握りしめて向かうのは、柴崎から渡されたメモに書かれた住所だった。

そこは、相模原の山間部にある、小さなプレハブの電気材料置き場だった。 「……こんばんは」

声をかけると、奥から一人の老人が現れた。 柴崎の古い友人であり、引退間近の一人親方、源さんだ。柴崎は、どん底の恒一に「ここなら世間の目から隠れて、一からやり直せる」と居場所を与えてくれたのだ。

「……龍司の紹介か。相沢っつったな。……うちは見ての通り、古い民家の修理や、畑のポンプの配線くらいしかねぇぞ。派手なビル工事も、接待ゴルフもねぇが、いいのか?」

「……お願いします。何でもやります。……もう一度、ペンチを握らせてください」

源さんは、恒一の汚れた手と、腰に差された柴崎のペンチをじっと見つめた。 「……いい目だ。だが、お前が失った『信頼』ってやつは、一度失えば、取り戻すのに一生かかる。……わかってんだろうな?」

「……わかってます」

翌日から、恒一の「本当の修行」が始まった。 朝から晩まで、源さんの古い軽トラに揺られ、相模原の山あいを走る。 仕事は地味なものばかりだった。 漏電した古い農家のコンセント交換。カラスに突つかれた街灯の修理。 かつての恒一なら「効率が悪い」と切り捨てていたような、数千円の仕事だ。

だが、源さんの仕事ぶりは、恒一の価値観を根本から揺さぶった。 源さんは、たった一つのコンセントを直すのに、一時間以上かけることもあった。 「源さん、そこまで丁寧に磨かなくても、電気は通りますよ」 思わず口走った恒一に、源さんは静かに言った。

「……恒一。お前は、この家のおばあちゃんが、夜中にトイレに立つ時にどれだけ不安か、考えたことがあるか?」

「……え?」

「この一つの光が点くか消えるかで、年寄りの命が変わることもある。……俺たちは、電気を売ってるんじゃねぇ。安心トラストを灯してるんだ。……お前が昔やってた仕事は、どうだった?」

恒一は絶句した。 かつての自分は、工事を「ノルマ」としてしか見ていなかった。 より早く、より多く、より高く。 その数字の影に、そこに住む人の「顔」があることを、いつの間にか忘れていた。

源さんは、結線一つに全神経を集中させる。 まるで、電線の一本一本に命を吹き込むような、祈りにも似た作業。 それは、かつて佐藤が見せた「神業」の、さらに奥にある「職人の魂」そのものだった。

一ヶ月が過ぎる頃、恒一の手からは、社長時代に染み付いた「金の匂い」が消え、再び力強い、職人の香りが漂い始めていた。 夜、誰もいないプレハブの倉庫で、恒一は一人、源さんから借りた古いテスターを手に、練習を繰り返す。 柴崎のペンチの錆を、丁寧に、丁寧に落としながら。

(……山崎さん。俺、まだ終われません)

そんなある日。 源さんの元に、一本の電話が入った。 「……ああ、わかった。すぐ向かう。……恒一、準備しろ。急ぎの修理だ」

現場は、相模原の市街地にある、小さな小児科のクリニックだった。 「突然の停電で、ワクチンの入った冷蔵庫が止まりそうなんだって。……ここは、地域にとっての大事な場所だ。絶対、止めるわけにはいかねぇぞ」

源さんの言葉に、恒一の背筋が伸びた。 社長時代、億単位のプロジェクトを動かしていた時よりも、ずっと激しい緊張感が、彼の全身を駆け巡った。

今の自分に、その「命」を支える資格があるのか。 どん底の淵で、恒一は再び、自分自身の「技術」という名の審判の場に立とうとしていた。

相模原の市街地、夕暮れの街並みを源さんの古い軽トラが走り抜ける。 助手席に座る恒一の膝の上には、使い込まれた工具箱が置かれていた。社長時代に持っていた数万円のイタリア製本革バッグよりも、この安っぽいプラスチックの箱の方が、今は重く、誇らしく感じられた。

「……着いたぞ。ここだ」

軽トラが止まったのは、住宅街の一角にある「相模原こどもクリニック」だった。 建物は停電のため真っ暗で、入り口では看護師たちが不安げな表情で立ち往生している。

「源さん! 助かりました、急にブレーカーが落ちて、何をしても戻らないんです。ワクチンの入った冷蔵庫が……このままじゃ、明日からの予防接種が全部中止になってしまいます!」

駆け寄ってきた年配の医師の声は、悲鳴に近かった。 「大丈夫です、先生。……おい、恒一。盤を見ろ」 「はい」

恒一は、ヘッドライトを装着し、盤の前に立った。 暗闇の中、ライトの光が照らし出すのは、古い配線と複雑に絡み合ったブレーカーの山。 かつての恒一なら、部下に命じて「とりあえず交換しろ」と言って終わりだっただろう。だが今の恒一は、源さんの教え通り、目と、鼻と、指先の感覚を研ぎ澄ませた。

(……焦るな。電気の『声』を聞け)

絶縁抵抗計メガーを取り出し、各回路を計測する。 「……第3回路、漏電してます。原因はここじゃない……もっと奥だ」 恒一は、床を這い、点検口から天井裏に半身を突っ込んだ。 埃とカビの匂い。ネズミの糞。かつての「成功者」なら顔を背けたであろう不衛生な場所。だが、今の恒一にとって、そこは救うべき命の導火線だった。

「……見つけた。IVの被覆が、ネズミに齧られてショートしてる」

恒一は、狭い空間で柴崎のペンチを握り直した。 指先ひとつ動かすのも困難な場所。だが、彼の迷いのない手つきは、かつて佐藤が見せた「神業」に近づいていた。 傷ついた電線を切り落とし、新しい線へと繋ぎ変える。 一分一秒が、ワクチンの温度上昇を招く。 恒一の額から流れた汗が、目に沁みる。それでも、彼は瞬きひとつせず、完璧なトルクで端子を締め上げた。

「……源さん、送電お願いします!」

「おう、いくぞ!」

カチン、という乾いた音と共に、クリニック全体に光が灯った。 「……点いた! 戻ったわ!」 看護師たちの歓声が、壁越しに聞こえてくる。 恒一は、天井裏から埃まみれになって這い出した。 「冷蔵庫の電源、確認してください。……コンプレッサー、回りましたか?」 「はい! 動いています! 温度もまだ許容範囲内です。……本当に、本当にありがとうございました!」

医師が、恒一の手を両手で握りしめた。 その手は、泥と油で汚れ、ネズミの糞にまみれていた。だが、医師は一向に気にすることなく、何度も、何度も感謝の言葉を口にした。

「……あんた、いい腕してるな」 帰り際、源さんがポツリと言った。 「……いや、必死だっただけです」 「それがいいんだ。技術ってのはな、誰かのために必死になった時、初めて『魂』が宿るんだよ。……お前、今の自分の顔、鏡で見てみろ。社長の頃より、ずっといいつらしてるぞ」

軽トラの窓に映る自分の顔。 無精髭が生え、埃で汚れているが、その瞳には、あの事故以来消えていた「光」が宿っていた。 自分が繋いだ一本の線が、子供たちの未来を守った。 その実感が、自己破産という奈落の底で凍りついていた恒一の心を、ゆっくりと溶かしていった。

その日の帰り道。 源さんが、国道沿いの馴染みの定食屋に寄ろうと言い出した。 「たまには栄養つけねぇとな。俺の奢りだ」

店に入ると、テレビのニュースが流れていた。 そこには、あの足場事故の「その後」が報じられていた。 被害者の山崎さんが、リハビリを経て、わずかではあるが自力で歩けるようになったという。 恒一は、箸を止めて画面を凝視した。 「……生きてる。……歩いてる……」 「……恒一。お前が謝りに行くべき相手は、もう一人いるんじゃねぇのか?」

源さんの言葉に、恒一はハッとした。 理恵だ。 事故の後、彼女の差し出した弁当を拒絶し、冷たく突き放してしまったあの夜。 今の自分なら、彼女に合わせる顔があるだろうか。 いや、顔があるかないかではない。今の自分だからこそ、伝えなければならない言葉があるはずだ。

深夜。 恒一は、三年前と同じように、あのコンビニの前に立っていた。 今はもう「社長」ではない。中古の軽トラさえ持たない、ただの雇われ職人だ。 だが、その足取りは、かつて高級車から降り立った時よりもずっと地に足がついていた。

店内に、彼女の姿があった。 理恵は、相変わらず丁寧に、誰よりも美しく商品を並べていた。 自動ドアが開く。

「……いらっしゃいませ」

理恵が顔を上げた。 その瞬間、彼女の動きが止まった。 目の前に立つのは、泥だらけの作業着を着た、疲れ果てた男。 だが、その男の腰には、あの「約束のペンチ」が光っていた。

「……相沢、さん……?」

「……理恵。……迷惑じゃなきゃ、これ、食べてくれないか」

恒一が差し出したのは、源さんの現場の帰りに買った、地元の小さな和菓子屋の饅頭だった。 「……俺、また一からやり直してる。……今度は、自分のためじゃねぇ。誰かの光を守るために。……あの時、突き放してごめん。……俺、お前がいなきゃ、ダメなんだ」

理恵の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 彼女はレジのカウンターを飛び出し、恒一の汚れた作業着に顔を埋めた。 「……バカ。……遅いよ、相沢さん……」

コンビニの明るい照明の下で、二人の時間が再び重なった。 成功も、名誉も、金も、すべて失った。 だが、その代わりに手に入れたのは、決して壊れることのない「真実の信頼」だった。

数日後。 恒一は、柴崎の事務所を訪ねた。 「……龍司さん。俺、決めました」

「……何をだ」 柴崎は、いつものように図面を広げたまま、低く答えた。

「今の現場を離れて、山崎さんのところへ通います。……そして、山崎さんが完全に回復するまで、俺が彼の家の電気、いや、彼の人生を支える手伝いをさせてもらいます。……それが終わったら、俺はもう一度、自分の看板を掲げます」

柴崎は、ゆっくりと顔を上げた。 その表情には、かつてないほどの慈愛が満ちていた。 「……相沢電設か?」 「いいえ。……『株式会社トラスト・アイ』。……名前は変えません。今度は、偽物の信頼じゃなく、本物の信頼を刻むために」

柴崎は、満足そうに頷くと、デスクの下から一本の「古い絶縁テープ」を恒一に投げた。 「……いってこい。……相模原の空は、まだお前を待ってるぞ」

恒一は、そのテープをしっかりと握りしめた。

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