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『電工の鳴道 ― 光を繋ぐ者たち ―』  作者: 西崎小春


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第2話:手元の屈辱

「おい、恒一! のり持ってこい! 糊だ、ボケ!」

相模原の空を突き抜けるような怒声。天井裏の狭い隙間に半身を突っ込んだ佐藤が、苛立ちを隠さずに手を伸ばしている。 恒一は、足元に散乱した工具バッグの中を必死にかき回した。糊。のり。文房具屋にあるような水のりなわけがない。だが、電気工事で使う「糊」が一体何を指すのか、昨夜カタログを眺めただけの恒一には、瞬時に結びつかなかった。

「……これ、ですか?」 恐る恐る差し出したのは、絶縁テープだった。

「……テメェ。それはビニテだろ。塩ビ管の接着剤だよ! 缶に入ったやつだ!」

佐藤が天井裏から這い出し、埃まみれの顔で恒一を睨みつけた。その眼光の鋭さに、恒一の心臓が早鐘を打つ。 「す、すみません……」 「謝る暇があったら、一秒でも早く持ってこい。俺がここで手を止めてる間、他の職人の仕事も止まってんだよ。お前のモタつきは、会社全体の損失なんだ。分かってんのか?」

現場という場所は、一秒の停滞も許されない戦場だった。 恒一が糊の缶を見つけて手渡した時には、佐藤は既に次の作業に移っていた。恒一にできるのは、佐藤の背中越しに、流れるような手さばきを指をくわえて見ていることだけだ。

電線をく。圧着する。ボックスに収める。 佐藤の手元には、一切の無駄がない。まるで魔法のように、バラバラだった線が整然と並び、命が吹き込まれていく。 一方で恒一はといえば、電線の被覆を剥こうとすれば芯線を傷つけ、ビスを締めようとすれば頭をなめる。昨日まで「相模原のモヒカン」と恐れられた拳は、ここでは、ただの不器用な肉の塊でしかなかった。

(……クソ。なんでこんなに上手くいかねぇんだ)

休憩中、恒一は現場の隅に座り込み、真っ黒になった自分の掌を見つめた。 18金のネックレスは、現場に入る前に柴崎から「引っかかって死にてぇのか」と没収された。自慢のモヒカンはヘルメットに押し潰され、汗と埃でベタついている。 自分を自分たらしめていた「鎧」をすべて剥ぎ取られ、残ったのは、道具一つ満足に使えない無能な自分だけだった。

「よお、新入り。まだ辞めてなかったのか」

声をかけてきたのは、別の班の先輩、田中だった。彼もまた、かつてはこの辺りで名を馳せた元ヤンだ。 「……辞めませんよ」 「威勢だけはいいな。だがよ、電気屋ってのは根性だけでなれるもんじゃねぇ。頭も指先も、それこそ神経の隅々まで研ぎ澄まさねぇと、お前、いつか『飛ばされる』ぞ」

「飛ばされる」――それは、電気工事士の間で忌み嫌われる言葉。感電し、文字通り体が弾き飛ばされることだ。 恒一は、田中が吸い殻を消した後の、焼け焦げたような指先を盗み見た。 ここでは、誰もが「説教」をしてくる。それが教育なのか、それとも自分を馬鹿にしているのか、今の恒一には判別がつかなかった。

午後。現場はさらに慌ただしくなった。 「恒一、ちょっとこれ持ってろ」 佐藤に命じられたのは、天井から垂れ下がった太い幹線を支える作業だった。 「いいか、絶対に離すなよ。まだ活線(電気が通っている状態)じゃねぇが、万が一ってこともある。しっかり握っとけ」

「……あ、はい」

恒一は、ずっしりと重い電線を両手で握りしめた。 その時だった。 建物のどこかで、大きな金属音が響いた。 (……!?) ビクッと肩が跳ねた恒一の指先が、わずかに電線の末端を掠めたような気がした。

実際には電気は通っていなかった。だが、恒一の脳裏には昨夜、柴崎が言った言葉がフラッシュバックした。 『電気ってやつは、ヤンキーだろうがエリートだろうが、間違えた奴を平等に殺す』

その瞬間、指先に走った冷たい戦慄。 単なる銅線の束が、自分を飲み込もうとする大蛇オロチのように見えた。 「ひっ……!」 情けない声と共に、恒一は電線を離してしまった。

「……おい。何やってんだ」

振り返った佐藤の顔は、これまでの怒声とは打って変わり、静かな、底冷えのするような怒りに満ちていた。 重い幹線が床に叩きつけられ、端子がひしゃげている。

「……怖かったのか?」 「……い、いや、そうじゃなくて……」 「怖ぇなら、最初からそう言え。だがな、お前が今放り出したのは、ただの線じゃねぇ。お前の仕事そのものだ。仕事メシを放り出す奴に、現場に立つ資格はねぇよ」

佐藤は無造作にその線を拾い上げると、恒一を視界から外した。 「……もういい。お前は今日、ずっと掃除だけしてろ。道具にも触るな」

夕暮れ時の相模原。 現場の撤収作業が進む中、恒一は一人、ほうきを持ってコンクリートの床を掃き続けていた。 鼻の奥がツンとするのを、必死で堪えた。 喧嘩で殴られた時よりも、単車で転んだ時よりも、今、自分の「手元」の未熟さが、何よりの屈辱となって胸を突き刺していた。

事務所に戻る車内。恒一は一言も発さなかった。 腐りかけていた。 (俺には向いてねぇ。こんな思いまでして、なんで電線なんか触ってなきゃいけねぇんだ。こんなところ辞めて、また元の連中と遊んでりゃ……)

そう思いかけた時、事務所の入り口で、柴崎が腕を組んで待っているのが見えた。 その姿を見た瞬間、恒一の「腐りかけた心」に、一筋の鋭い火花が散った。

夕闇が相模原の街を包み込む頃、事務所に戻ったハイエースのエンジンが切られた。 車内には重苦しい沈黙が漂っている。佐藤をはじめとする先輩たちは、無言で荷物を下ろし、事務所へと入っていく。恒一は最後尾で、泥のついた電線屑の袋を抱え、ひどく場違いな金髪を項垂れさせていた。

「恒一。……残れ」

柴崎の低く通る声が、暗がりに響いた。 他の面々が去り、事務所のシャッターが半分下ろされた。蛍光灯のジジッという微かな音だけが、耳障りに響く。柴崎はデスクの椅子に深く腰掛け、恒一が一日中握りしめていた――そして最後には放り出してしまった――あの太い幹線の端切れを弄んでいた。

「佐藤から聞いたぞ。……怖くて手を離したんだってな」 「…………」 「言ってみろ。何が怖かった」

恒一は拳を固く握った。爪が手のひらに食い込む。 「……電気なんて、通ってなかったじゃないですか。なのに、あいつ……佐藤さんは、俺をゴミみたいに怒鳴りつけて。道具の名前一つ知らないだけで、あんなにボロクソに言われる筋合いねぇよ……!」

こらえていた感情が、言葉となって溢れ出した。 「俺は、龍司さんに拾ってもらった恩を返そうと思っただけだ! なのに、一日中掃除ばっかりさせられて、あげくのはてに『資格ねぇ』だ!? だったら、最初から雇わなきゃよかったんだ! 俺だって、外に出ればもっとマシに扱われる場所くらい……っ!」

「あるかよ。そんな場所」

柴崎が冷たく言い放った。 恒一は息を呑み、言葉を失った。

「外に出りゃ、お前はただの『手に職もねぇ、愛想もねぇ元ヤン』だ。世界はお前が思ってるよりずっと冷てぇんだよ。……いいか、恒一。お前が『説教』だと思って腐りかけてるその言葉はな、俺たち電気屋にとっての『命綱』なんだ」

柴崎は立ち上がり、事務所の隅にある、古ぼけた電気盤の前まで歩いた。 「こっちへ来い」 命じられるまま、恒一は柴崎の隣に立った。盤の中には、複雑に絡み合う配線と、無骨なブレーカーが並んでいる。

「これを見ろ。ここには、お前がさっき『ただの線だろ』と放り出したのと同じ銅線が繋がってる。この先には、何があると思う?」 「……電球とか、コンセントとか……」 「そうだ。だが、それだけじゃねぇ。この先には、病院の生命維持装置があるかもしれない。夜道を照らす街灯があるかもしれない。……俺たちが一箇所、ビスの締めを忘れる。電線を傷つける。糊を塗り忘れる。そうなった時、何が起きるか想像してみろ」

柴崎は盤の奥にある、黒く焼け焦げた部品を指差した。 「これは、かつて別の業者が手抜きをして燃えた跡だ。建物が火事になり、住人が逃げ遅れた。……電気ってのはな、一回でもミスりゃ、謝って済む世界じゃねぇんだよ。お前の『手元』の狂いは、誰かの命を奪う凶器に変わる。佐藤が怒鳴ったのはな、お前を無能だと言いたかったからじゃねぇ。お前に『人殺し』になってほしくなかったからだ」

恒一の背中に、冷や汗が流れた。 自分が放り出したあの電線。それが、誰かの命を繋ぐ糸だったとしたら。 自分は、ただ「怖かった」という理由で、その重みから逃げ出したのだ。

「……お前、道具の名前を覚えようとしたか? なぜその道具が必要なのか、考えたか?」 「……昨日の夜、カタログを少し読みました……」 「少しじゃ足りねぇ。……これを持ってけ」

柴崎が差し出したのは、一冊の分厚いファイルだった。 中には、手書きのメモがびっしりと書き込まれた、柴崎自身の「修行時代」のノートだった。 回路図、結線の手順、各メーカーの道具の特性、そして現場で起きた失敗の記録。

「佐藤も田中も、みんな最初はそうだった。……お前が今着てるその作業着。それはな、誰かに頭を下げて、誰かに怒鳴られて、そうやって必死に守り抜いてきた『誇り』の印なんだよ。それを、たった一日の屈辱で脱ぎ捨てようとしてんのか。お前の『鋼のプライド』ってのは、その程度のもんなのか?」

恒一は、柴崎から受け取ったファイルの重みを感じていた。 紙の端が擦り切れ、油染みがついたその一冊は、昨日まで自分が自慢していた18金のネックレスよりも、ずっと重く、熱かった。

「……龍司さん」 「なんだ」 「……明日も、行っていいですか」

柴崎は、初めて口角をわずかに上げた。 「明日は今日よりきついぞ。佐藤の野郎、お前がビビったのを見て、もっとしごくつもりだ」 「……やってやりますよ。道具の名前、全部暗記して、佐藤さんの鼻を明かしてやります」

翌朝。相模原の空が白み始める前、恒一は一人、事務所の前で待っていた。 手には、昨夜一睡もせずに読み込んだファイル。 金髪のモヒカンは、相変わらずヘルメットで潰れているが、その下にある瞳には、昨日までの「濁り」は消えていた。

「……おはようございます!」

一番乗りで現れた佐藤に向かって、恒一は腹の底から声を張り上げた。 佐藤は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに鼻を鳴らした。 「……チッ。声だけはデけぇな。おい、17のラチェットと、絶縁テープと、今度こそ『糊』を揃えて用意しとけ。三分以内だ」 「はい!」

恒一は駆け出した。 コンクリートの粉塵が舞う現場。爆音のドリル。飛び交う怒号。 それは昨日と同じ光景だった。 だが、恒一が握るペンチの感触は、昨日とは違っていた。

自分の手元が、誰かの光を灯す。 そのためには、この屈辱を糧にするしかない。 道具の名前を覚え、電線の被覆を剥き、一本の線を繋ぐ。 その当たり前の積み重ねが、いつか「プロ」と呼ばれる高みへと繋がっていることを、恒一は初めて、肌で感じ始めていた。

足元の泥はまだ深く、手元は覚束ない。 だが、相沢恒一はもう、電線を離さなかった。

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