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『電工の鳴道 ― 光を繋ぐ者たち ―』  作者: 西崎小春


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第14話:沸騰する組織

内神田の再開発ビル「ミッド・ステーション・タワー」の最上階に、ついに明かりが灯った。 それは単なる通電ではない。大手ゼネコンの陰謀を跳ね返し、職人のプライドで勝ち取った「勝利の光」だった。このニュースは建設業界を駆け巡り、トラスト・アイの事務所には、鳴り止まない電話と、溢れんばかりの履歴書が積み上がっていた。

「……社長、本日だけで問い合わせが五十件を超えました。中には、かつて我々を門前払いした大手デベロッパーからの直接打診も含まれています」

犬飼が、タブレットの画面を指で弾きながら報告する。その表情には、軍師としての冷徹な喜びが滲んでいた。相模原のプレハブ事務所は、もはや入り切らないほどの事務スタッフと、現場から戻った職人たちで熱気に満ちていた。

「……急に風向きが変わりすぎだな」

恒一は、窓の外を走る国道16号線を眺めていた。かつては、この道を通るダンプの一台一台に頭を下げて回った。今は、向こうから「トラスト・アイの看板を貸してくれ」と頭を下げてくる。

「いいじゃないですか、恒一さん! これでようやく、俺たちがやりたかった『職人が主役の会社』が、日本中で実現できるんですよ!」

真治が、新しい社名のロゴが入ったヘルメットを抱えて無邪気に笑う。だが、その傍らで、野村だけは険しい顔でタバコを燻らせていた。

「……真治。浮かれるんじゃねぇ。……組織がデカくなるってのは、泥水が混じるってことだ。……今のうちの現場、見たか? 挨拶もしねぇ、腰袋の整理もできねぇような奴らが、『トラスト・アイなら稼げる』ってツラして入り込んでるぜ」

「……野村さんの言う通りだ」

恒一が振り返った。その瞳には、成功への酔いは一切なかった。 「犬飼さん。採用の基準を、さらに厳しくしろ。腕が良いのは当たり前だ。だが、うちの『信条クレド』を、腹の底から理解してねぇ奴は、一人たりとも現場に入れるな」

「……しかし社長、現在受けている案件を回すには、あと最低でも百名の電工が必要です。選り好みをしていては、納期が……」

「納期のために魂を売るなら、大和建設と同じだ。……一本の線に魂を込める。その重みが分からねぇ奴が繋いだ線は、いつか必ず誰かを不幸にする」

恒一の言葉は、熱を帯びた事務所の空気を一瞬で引き締めた。

だが、現実は恒一の理想を待ってはくれなかった。 数日後、千葉の幕張で進行中だった大規模マンションの現場から、緊急の連絡が入った。トラスト・アイが急拡大の中で協力会社として組み入れた、外部の電工チームが不祥事を起こしたのだ。

「……手抜き工事? 嘘だろ」

恒一は、報告書を握りしめて現場へ飛んだ。 現場に到着すると、そこには施主であるデベロッパーの担当者が、真っ青な顔で立ち尽くしていた。

「相沢社長! どういうことですか! 隠蔽配線の中で、あろうことかIVケーブルの接続に圧着スリーブを使わず、手ひねりでテープを巻いただけの箇所が見つかったんですよ! これじゃ火事になりますよ!」

恒一の目の前で、壁を剥がされた配線が露わになっていた。 そこにあったのは、職人の仕事とは到底呼べない、あまりにも無残で、あまりにも不誠実な「ゴミ」だった。

「……誰だ。ここを担当したのは」

恒一の声は、低く、地を這うような怒りに満ちていた。 呼び出されたのは、最近入社したばかりの、腕が良いと評判だった中堅の職人、佐藤だった。彼は悪びれる様子もなく、肩をすくめた。

「……いや、社長。納期が厳しかったもんで、ちょっとショートカットしただけですよ。導通テストは通ってますし、壁を閉じちゃえば分かりゃしない。……効率を上げろって、会社も言ってるじゃないですか」

「……効率だと?」

恒一は、佐藤の胸ぐらを掴み、剥き出しの配線の前まで引きずっていった。 「……お前、この線を繋ぐ時、誰の顔を思い浮かべた? この部屋に住む家族か? それとも、自分の給料袋か?」

「……んなこと言われたって、たかがマンションの配線ですよ……」

「たかがだと!?」

恒一の拳が、佐藤の横のコンクリート壁を激しく叩いた。鈍い音が響き、恒一の拳から血が滲む。 「……俺たちは、電気を売ってるんじゃない! 『信頼』を売ってるんだ! ……一本の線に魂を込める。その信条が守れねぇなら、お前は職人じゃねぇ。ただの『配線泥棒』だ!」

佐藤は、恒一の圧倒的な気迫に圧され、言葉を失ってへたり込んだ。 恒一はその場に集まった数十人の職人たちに向かって、血の滲む拳を掲げた。

「……全員、よく聞け! トラスト・アイの看板は、金儲けの道具じゃねぇ! ……この看板を背負って現場に立つなら、自分の親兄弟を、自分の子供を、この部屋に住ませられるか、常に自分に問い続けろ! ……それができねぇ奴は、今すぐ道具をまとめて、ここから消えろ!」

現場は、水を打ったように静まり返った。 佐藤とそのグループ数名は、恒一の怒りに耐えかねて現場を去った。だが、残された職人たちの目には、単なる恐怖ではない、深い反省と、そして「自分たちは何者なのか」という再確認の光が宿っていた。

事務所に戻った恒一を待っていたのは、深刻な表情の犬飼だった。 「……社長。幕張の件、佐藤たちのグループがSNSで『トラスト・アイは独裁的で、職人に無理な精神論を押し付けるブラック企業だ』と書き込みを始めています。……せっかく回復した世評が、また揺らぎ始めています」

「……構わねぇ。嘘の評判で集まった人間なんて、いつか崩れる。……それより犬飼さん。……今日から、全社員を対象に『クレド・ミーティング』を始めるぞ」

「ミーティングですか? 現場の手を止めることになりますが」

「ああ。……朝の三十分、現場に入る前に、自分が昨日繋いだ線で、誰が救われたか、誰を幸せにしたか、一人ずつ話してもらう。……言葉にしなきゃ、魂は死ぬんだ」

それは、効率至上主義の建設業界において、あまりにも無謀で、あまりにも「非生産的」な挑戦だった。 案の定、最初は反発が起きた。 「時間の無駄だ」「早く作業を始めさせろ」 そんな声が、事務所の内外から聞こえてきた。

だが、それを変えたのは、理恵の存在だった。 彼女は、毎日現場を回り、職人たちの汚れた作業着を回収し、彼らの体調を気遣う弁当を配り歩いた。そして、ミーティングの場では、恒一の横で静かに、しかし力強く語りかけた。

「……皆さんの指先が、昨日、小さな子供が住む部屋に明かりを灯しました。……その子が暗闇を怖がらずに眠れたのは、皆さんが丁寧に線を繋いでくれたからです。……ありがとうございます」

理恵の、嘘のない感謝の言葉。 それは、荒くれ者たちの心の奥底にある、自分でも忘れかけていた「誇り」に火をつけた。

「……昨日、俺が繋いだ線。……あれ、おばあちゃんの一人暮らしの部屋だったんだ」 一人の若手職人が、ポツリと話し始めた。 「……最後、コンセントを差し込んで電気が点いた時、そのおばあちゃんが『これで孫と電話ができる』って、泣いて喜んでくれたんです。……俺、あんなに嬉しいと思ったの、初めてでした」

一人、また一人と、言葉が紡がれていく。 「一本の線に魂を込める」という信条が、単なる壁紙の文字から、自分たちの体験としての「熱」に変わっていく。

組織は、沸騰していた。 だがそれは、崩壊への熱ではなく、一つの強固な「生命体」へと進化するための熱だった。

一ヶ月後。 幕張の現場のデベロッパーが、再びトラスト・アイの事務所を訪れた。 「……相沢社長。驚きました。……あの不祥事の後、皆さんの現場の質が、以前とは比較にならないほど上がっている。……それだけじゃない。職人さんたちの顔つきが違う。……あれは、ただの作業員じゃない。『誇り高き表現者』の集団だ」

恒一は、静かに頷いた。 「……ようやく、産声が上がったところですよ。……うちの信条は、これからが本番です」

だが、その成功を、苦々しく見つめる影が、海の向こうから近づいていた。 日本の建設業界の歪んだ構造を利用して暴利を貪る、外資系の巨大ファンド。 彼らは、トラスト・アイという「不都合な正義」を、丸ごと買い叩き、解体しようと動き出していた。

恒一は、理恵が淹れてくれた熱い茶を啜りながら、新しい図面に目を落とした。 組織が大きくなる。それは、守るべきものが増えるということだ。 守るべきは、社員の生活か、それとも。

「……理恵。……俺、また面倒な喧嘩に巻き込まれるかもしれないな」

「……いいですよ。……だって、あなたは『相沢恒一』だもの。……信じてるわ」

理恵の笑顔が、恒一の背中を強く、真っ直ぐに押し上げた。 トラスト・アイ。信頼の灯。 その光は、今や相模原の夜空を越え、日本中の現場を、そして働く者たちの魂を照らし始めようとしていた。

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