ある夏の日
母が入院した。
もうだいぶ、年を召されている。そろそろだろうなとは皆、思っていた。
久しぶりにまじまじと見た母の体は、だいぶやせ細っていた。
元気だったころの面影はなかった。
病院からの帰り道。
橋から学校を見つめる女性を見かけた。
薄いピンク色の服を着ている。横顔も立ち姿も母にそっくりだ。
昔の記憶を思い出した。小学生の頃の記憶だ。
放課後、長い間友達と遊んでいた。
何をしていたかまでは覚えていない。とても楽しかった。
帰り道に、橋の上から、母が川沿いの学校を見つめて待っていた。
「あっ、お母さん」
「あら、まりちゃん。これから帰るとこ?」
「うん。もう帰る」
「楽しかった?」
「うん!」
「今日はカレーだから、一緒に帰りましょう」
「やったー」
手をつないで一緒に帰った。
とても懐かしい記憶だった。
次の日、子供を公園に連れて行った。
そろそろ5才になる。わんぱく盛りで手のかかるユウくんだ。
鉄棒から砂場もあるこの辺りでは大きい公園だ。
私たちは多くの場合、植物を観察しながら歩き回る。散歩だ。
鉄棒の付近で、薄いピンク色を着ている女性を見かけた。
昨日の女性だった。子供に逆上がりを教えていた。
不意になぜか涙が出た。懐かしかった。
初めて逆上がりができた時、となりには母がいた。
母は薄いピンク色の服を着ていた。
記憶の中の母と女性はそっくりだった。
その女性の子供もよく見れば、子供の頃の私にそっくりな気がした。
散歩から帰ったら、お昼寝の時間。
「ユウくんがお昼寝の間、ママはおばあちゃんのところ行ってくるからお留守番よろしくね」
「うん。わかった」
本当に理解しているとは思えない、寝ぼけた返事が聞こえた。
私は、そのままユウくんを寝かしつけた後、母のところに向かった。母は起きていた。
「今日は元気そうね」
「ええ。おかげさまで。さっきまで寝ていたから元気になっちゃった」
私は少し口角を緩ませて、母を見ていた。
「そういえば、少し夢を見てたわ。とても懐かしかった」
「ふーん。どんな夢」私は顔を傾けて聞いた。
「私が公園でまりちゃんに、逆上がりを教えてた」母は顔を緩めて話し出した。
「まりちゃん、一生懸命練習していたわ。逆上がりできた時とても嬉しそうに笑ってた」
母は満足そうに笑っていた。私もつられて笑った。
「結局、私はついていっただけで、何も教えることは無かったわね」
「ふーん。そうなんだー」私は、細かい事は覚えていなかった。
ただ、逆上がりできた時の事は少し思い出した。
母は少し年取ったけれど同じ顔をしていた。
次の日も、子供と公園に行った。女性が今日もいるかもしれない。
やっぱり薄いピンク色を着てその女性は子供と一緒にいた。
子供はシャボン玉をしていた。
ふわっと当時の記憶がよみがえる。私は少し涙を浮かべて立ち尽くしていた。
「ママ、何してるの?何見てるの?」ユウくんは私の目線の先を見て不思議そうにしている。
シャボン玉を見たら、すぐに駆けだしそうなユウくんには、彼女の事は見えていないみたいだ。
「あっ、ちょっとボーっとしてた。えっと、今日は向こう側に行ってみよう」
ユウくんはすぐに笑顔になって駆け出していった。
きっと彼女は母なのだ。私の記憶の中の母なのだ。散歩しながらそう思った。
ある日の買い物帰り、急いで夕飯の準備をしなきゃと思って家の扉を開けると、彼女がいた。
子供は夫に任せていて、今日は誰もいないはずだった。少しびっくりした。声が出そうになった。
彼女は掃除していた。家の隅々まできれいに掃除していた。
土日は子供と遊び、平日は子供を幼稚園に預けて働いている。
今の私には、そこまで丁寧な掃除をするゆとりはなかった。
ただ、掃除の仕方は参考になった。水拭き、乾拭き、膝をついて丁寧に掃除していた。
それ以来、時々、彼女を家で見かけた。
そのたびに、トイレやお風呂、水回りの掃除を母のやり方でやっていた。
私は、そのやり方を真似て掃除をするようになった。
思ったより大変じゃなかった。熟練の方法というものがあるのかもしれない。
「最近、家の中きれいになった?」夫がそんな事を言っていた。
夏休み、皆で旅行に出かけた。
母の事は少し心配だったが、先生に聞いたらしばらくは大丈夫でしょうとの事だった。
旅先でも、薄いピンク色の服を着た女性を見かけた。
笑顔でずっとこちらを見つめているような気がした。
私はなぜか心が安らいだ。とても思い出の残る楽しい旅行だった。
旅行の帰り、お墓参りをした。
少し離れたところで薄いピンク色の服を着た女性が、お墓をきれいにしていた。
私もそれを真似て、手持ちのタオルを使ってお墓をきれいにした。
旅行から帰ってきて、日常が戻ってきた。
また彼女に会いたい。いつも通り子供と公園に行った。
でも、彼女は居なかった。気づかないうちにいつもより長い間散歩をしていた。
わんぱく盛りのユウくんもそろそろおねむのようだ。
私は、眠そうなユウくんを抱き上げ、家に連れ帰った。
寝ているユウくんを抱いて歩くのは久しぶりだった。
家に着いたらすぐにユウくんを布団に寝かせた。
おやすみと額をなでた。
それから、私は彼女を探した。家にはいなかった。
不安になって、携帯を見た。連絡は何もない。
私は彼女を探しに外に出た。学校の近くや橋、公園など見て回った。どこにもいない。
私は、そのまま病院へ向かった。
彼女は病院にいた。寝ている母の顔を拭いていた。
私は急いでタオルを取り出して、水に濡らし、母の体をふいた。
私はまだまだ足りていなかった。
ふき終わると私は疲れて、椅子に座って母のベッドの隣で眠ってしまった。
夢を見た。
椅子に座って、母のベッドに顔をうずめるように眠る私の姿があった。
薄いピンク色の服を着た彼女が夢に現れ、優しそうにそっと私の頭を撫でた。
「私の事はいいの。あなたはあなたのやりたいように生きなさい」
いつも母が言っている言葉だった。
三日後、母は無くなった。
優しい顔をしていた。
葬儀も終わり、再び日常が戻ってきた。
今、ユウくんはお昼寝をしている。
もう、薄いピンク色の服を着た彼女は現れない。
きっと彼女は、母だったのだ。
自由にしなさいと言葉にしながら、心の中では、こうした方がいいとかあったのだろう。
母はいつもそうだった。
逆上がりの時だってそうだ。母は逆上がりをやって見せてくれた。
私はいつも母の真似をしてた。言葉ではなく行動で私に教えてくれていた。
本当は私の物足りない所、至らない点をいくつも目にしていたに違いない。
それを、行動で私に見せてくれたのだろう。
母は、教えたいことを全て私に見せてくれたのだろうか。
もっと教えたいことはあったのではないか。
寝ているユウくんを見つめた。
きっと私も、同じように思うんだろうな。
母の時代と私の時代が全く違うように、私の時代とユウくんの時代も全く違うだろう。
母は母の時代を生きてきた。母の時代の正しい道を生きてきた。
しかし、私の時代ではそれは正しい道とは言えなかった。
私の時代では、女も男と同じように働いて、男も女のように家事ができないといけない。
母の時代のように、家事をしているだけではだめだった。
母もそれを知って、私に口を出すのはやめていたのかもしれない。
思っている事、考えていることを伝えられないって、少し無念な事なのかもしれない。
だから、こんな方法で、私に行動で示して見せたのだろう。
もし、口であれこれ言われたら、私はパンクしていただろう。
母の入院で少しお休みをいただいていたから、受け入れられたのかもしれない。
ユウくんの寝顔はいつもかわいい。
今は、今後AIが時代を豊かにしてくれるなんて思われているけれど、おそらくそうはならない。
私の時代、機械やプログラミングが普及して豊かになると私は信じていたけれど、そうはならなかった。
仕事ができる人に仕事が集中して、何でもできるスーパーマンが求められる時代になった。
家事も育児も仕事も、ITなどの専門分野も税も法律も事務もできるスーパーマンが求められている。
AIが普及すると恐らく、この流れはさらに加速する気がする。
私は、ユウくんに何をしてあげられるだろうか。
私が学んだことをユウくんに教えて有益になるだろうか。
私の教えを、ユウくんはいらないと否定する日も、すぐにやってくるのではないだろうか。
私は、ユウくんの未来がより明るくなることを希望したい。
私に何ができる?
そうだ、選挙に行こう。
私は政治について、いろいろな情報源から調べることにした。
本作は創作です。
選挙前だったから、最後は選挙になりました。
なんか少し浮いてしまったかもしれない…。




