【超短編小説】脳幹ヘルニア・ボスツェゴヴィナ
犬が鳴いた。おれの夢が中断される。
それは本当に夢か?単なる電気信号じゃないのか?送受信、またはデフラグや最適化。
おれは目を開ける。いや、すでに目は開いていた。そいつは自動的な反応だ。
暗い部屋がそこにある。
犬の鳴き声が遠ざかる。
部屋中の虚無がおれを見ている。
……犬?犬だって?あの四本足で歩く尻尾付きの生き物か?
むかしは図鑑とか記録映像で見たことがある。体毛に覆われた変な生き物だ。最近じゃ上流階級の投資対象らしい。
その犬がそこらへんにいるのか?
近所に金のある一軒家は無い。無許可で犬を飼っているか盗んできたかどちらかだろう。
それとも下水道の野良犬だ。白いワニみたいな都市伝説だ。だからそれはおれの幻聴と言う可能性もある。
何にせよ窓を開けてみるなんて間抜けのする事だ。明日を生きたいなら聞こえないフリをしろ。
そうさ、幻聴だ。
耳を塞いでも聞こえるなら幻聴だ。塞いで聞こえないなら、それも幻聴だ。
人間の精神は不思議だからな。
今だって破裂音が聞こえた。
パンクか?銃声か?それとも誰か飛び降りたのか?
とにかく夜中に窓を開けないことだ。
窓から飛びたくなるかも知れないし、混線して犬の鳴き声と破裂音で作曲ができるかも知れない。
なんにせよ愉快なことにはならない。
便所の100ワット、ほとんど空の冷蔵庫。取り出した水は過冷却で凍り、おれの熱暴走を諌める。
結露でショート寸前の思考回路によれば、自己認識する俺は狂っていないらしい。
正気でいられるほどの運だって持ち合わせていないのに?
朝まで眠れた試しが無い奴が?
そうやって夜中に目を覚ます。濃い群青色の真ん中で窒息しそうになる。
便所で流す廃液。
新たに取り込む水。
深呼吸したところでそれは俺が正気だと証明しない。
仕方ない。
保険証も無りゃ天国へのパスポートも無い。エア拳銃自殺だって俺だけの専売特許じゃない。
それにもう弾丸が無い。
弾丸。拳銃。ぜんぶ無いんだよ、本当は。それがおれを正気だと証明したら良いのに、別にそうじゃない。
部屋中の虚無がおれを笑う。
「お前は正気か?どこで買った?」
当然やつらは返事なんてしない。
「おれはコンビニで絶望を買ったよ」
そうだ。奥にある棚の左端、上から二段目にあるやつだ。
今もまだそこにあるはずだ。
それを買えるのはJOAKDTV、それを見ている奴だけだ。
リビングに戻る。虚無が後ろ指をさすが構うものか。
リモコンを手に取りテレビに向ける。走査線の隙間に見えるサブリミナル。砂嵐の奥に見える暗号。
思い出すのは昔のことばかり。埋めたものを掘り起こす係。薄給、薄幸、報われた試しなんか無い。繰り返すだけ無駄だ。
だけど日々は繰り返す。
これは何度目の夜だ?
どの昼の続きだ?
虚無が嗤う。「さっきの夜さ」いくつかの声が聞こえる。それは犬か?発砲音か?
お前が正気ならそれが見えたりはしない。聞こえたりもしない。
喉が乾いた。
それはひとつの絶望だが、まるっきりそうでもない。
ベッドを抜け出す。
シーツが剥がれる。
再びベッドに戻るまでに乾いたりはしない。万年床へのファーストステップ。
寝汗。黴。ダニ。
便所の100ワット、ほとんど空の冷蔵庫。
水を飲む。熱が収まる。世界が縮小して虚無が嘲笑を止める。
おれは訊く。
「生きていてもよいですか?」
やつらは無言だ。
そうやって、やがてシミになるおれ待っている。
返事はそれまで先延ばしだ。それが定めと言うやつなのかカルマと言うやつなのかはまだ分からない。
ここまでは絶望だ。
だが冷蔵庫を開けた時に溢れる光は希望だ。喉を流れ落ちて行く冷たい水も希望だ。今そこに確実にある。
おれがさっき飲んだのが希望だ。
遅効性の希望。それは太陽よりも明日よりもその先の約束よりも希望だ。
真夜中。目を開く。
そこにあるのは何だ?群青色の真夜中。虚無。絶望か?下らない、そこには何もない。
おれは便所に向かう。
巡礼の終わりだ。全てを水に流すんだ。
ついに夜明けだ。
働けど働けど待てど暮らせど人生はどうにもならないけど、窓から見える富士に、かかる雲が薄く伸びた先に、人工衛星の瞬き。
虚無が訊く。
「それは金星か?火星かも知れないが」
おれは何も知らない。知らないなりに答える。
「何にせよ数分前の光だ。そこにはもう無い紛い物の希望だ」
虚無が嗤う。
「よく知ってるじゃないか」
犬が鳴いた。
やがて朝が来る。
おれは湿ったままのベッドに潜る。汗と黴とダニの中に沈む。浅い眠りに疲労を預ける。利子付きで返される、たかが知れた底の浅さ。
溺れたりしない眠りの意味を探す瞼は少し重い。虚無がおれを撫でる。
目を閉じるのはおれの仕事だ。




