第7話 ミカの物語
「なれるとも」
神父は書庫に行き、助手を連れてきた。
「ミカ、一緒に飲もう。今から君はノーデの友だ!」
ノーデは初めてミカの手を取った。彼の眉間の溝が浅くなっていた。
「昔、服を投げつけたことを許してくれ。それから忙しくて君を診るのを忘れていた。何か変化があれば、必ず私に伝えるのだ。約束してくれ」
「私のことを神父殿にバラしましたね」
「彼は私より世間智がある。君の奇病について知見を得られるかもしれない」
ジャコブは興味津々の笑顔をみせた。
「ミカ、君の物語を聞かせてくれないか。きっとノーデも聞きたいさ」
その日、彼らはマリーがミカエルになるまでの軌跡を知った。
「母はサン・ジャック地区のエティエンヌ印刷工房で住込みの仮綴じ職人を勤めていました。彼女はエティエンヌ当主の愛人、私は庶子でした。
母と私の信仰はプロテスタント、そして書物を作ることでした。
周囲の職人たちによく言われました、『男に生まれていたら親方になるかも』と。母は仮綴じの本を全て諳んじて私にラテン語とギリシャ語を教えました」
ミカの話はノーデの腑に落ちた。エティエンヌ家はたびたび「王の印刷所」の称号を与えらた一族で、パリで100年以上続く工房だ。『ギリシャ語辞典』を出版し、ラテン語が飛び交う家で、マリーは育ったのだ。
「私が10歳の時、母がこの世を去り、カトリック改宗を迫られました。それゆえパリからラ・ロシェル市に出奔したのです」
ジャコブ神父は「ほう」と唸った。
「当時のラ・ロシェルはプロテスタントの本拠地だったな。単独行とは、たいした度胸だ」
「背が高いのが幸運でした。巡礼団に混じってオルレアンまで行き、ロアール川を下る船でナントに出て、初めて海を見た。ラ・ロシェルまでは鰊船で。その時はずっと少年の格好でした」
ノーデは訊いた。
「昔から男装していたのに私が男装を押し付けたら怒ったのは何だったんだ」
「あなたが女をバカにしたからです」
「これほど度胸があると知らなかった。君が一度死んだのは前の宰相リシュリュー殿が仕掛けた包囲戦の時か」
ミカは肯いた。
「飢えと疫病で市民の大半が死にました。印刷業の残った職人は銃弾を作ったのです。私はそれを城壁の上へ運び、国王軍に向かって銃を撃ちました。戦争だったのですから」
ジャコブは驚いた。
「スカートを履いたままで?」
「そうです」
「女傑だ。君はそこで死んだというのだね」
「生き返った私は我が身を恐れました。何者になったのか、分からなかった。それで、ラ・ロシェルを出て森に入りました。森に横たわっていれば死ねると考えたのです。長くロワールの淵に沈んでいたこともあります。水底から月星を眺め、嵐や稲妻が過ぎていくのを見た。
神がお創りになった世界は美しかった。私はまだこの世にいていいのか迷いながら、水から出たのです」
男たちは黙って聴いていた。
「私は何者か、すでに死者なのか、それとも奇病を患ったのか、もしや生ける亡者か悪霊の類か。私に魂はまだあるのか、あるとしたら神の慈悲を信じていていいのか。
図書室を住処にしたのはそれからです。図書はマザラン殿が仰ったように精神の療養所でした。本に触れると、心が落ち着くのです」
ジャコブはミカの首の十字架にそっと手をやった。
「カルヴァンの教えによると、プロテスタントの信者はあらかじめ神の救いが約束されている。ゆえにカトリックのように信仰と行いでなく、信仰心のみで救われると考えたのかね」
「仰るとおりです。神父殿はカトリックなのに、よくご存じですね」
「私も司書だからな。ノーデが言うように対立するもの同士は互いに良く知っておくものだ。カトリックとプロテスタントの違いは勉強しているよ。
私の個人的な意見を言ってもいいかい、ミカ。君は戦争の最中に何か奇病に侵された。それで常人にない力が備わったとしても、君は神の存在と愛を信じている。君はすでに神に救われている。少なくとも神の救いが約束されたプロテスタントだ」
「救われている……私が……?」
思いがけない福音にミカはふわっと顔を上げた。
ノーデは珍しく苦笑していた。
「私はミカほど信心深くないな。教会で告解してる暇があれば、本を相手にしている」
ジャコブが杯を上げた。
「ノーデの神は図書室におわすのだ。おっと、今の言葉は君たちの胸に仕舞っておいてくれ」
ミカの心は暖かさで満ちた。ノーデは友となった。




