第3話 新しい名、ミカエル
その予感どおり、マザランは珍妙な考えを躊躇なく実行した。
「ノーデ、彼女を君の助手に任命する。君はかつて医学を学んだ。彼女が本物の死を迎えないようにしろ。君には長年あたためた革新的な図書館構想がある。それを儂の図書館で実現するには優秀な助手が必要だ。そうだな、ガブリエル!」
ガブリエル・ノーデはむっとしてマリーを睨んだが、枢機卿への返答は感情抜きだった。
「猊下が私をそう呼ぶのは『ノン』を期待しない時と心得ております。ゆえに条件を申し上げます」
「聞こう」
「彼女を男装させ、名前も男性名に。仮死であるうえ剛腕と敏捷さを持つ身ですから、男の方が何かと怪しまれないかと」
「だそうだよ、マリー。今後はミカエル・エティエンヌと名乗るがよい、我々はミカと呼ぶぞ」
マリーは新しい名を得て、花のように微笑んだ。
「猊下、神は人が己の職分に励むよう望まれ、私は懸命に腕を磨き、絶えず学びました。これを役だてるは幸せにございます」
「己の職分と言うか。それはプロテスタントの教義であろうが、まぁ、良い。儂の図書室に大天使ガブリエルとミカエルが揃ったからのう、ふっふっふ」
枢機卿は両手を胸の前で組んだ。
「ミカの俸給は週にキャラフ2杯の葡萄酒。ひと月に薔薇香油の小瓶をひとつと現金3リーヴル。4分の1季ごとに男の服を数着。図書室勤務者は身なり正しくあれ。他に何が要る?」
ミカの青い目が急に深い色を帯びた。
「猊下、ほんの小さな十字架をいただきとうございます」
「ふふ、真の望みは魂の救済か」
マザランは専用閲覧机の鍵を開けた。小さなアメシストを嵌めた十字架を取出し、ミカに渡した。十字架は彼女の手のひらより少し小さかった。
「お前の黒髪と眼の青によく似合う。ガブリエルと共に励むがいい。ついでだ、ドイツ語と英語を習得せよ。いずれ役立つ。
3ヶ月後、この図書室の写本4000冊、印刷本14000冊をセーヌ右岸のテュブフ館に全て移し、1年後には公開図書館にする予定だ。ミカ、公開図書館を知っているか?」
ミカは首を振った。マザランは嬉しそうに両手を広げた。
「イタリアはミラノのアンブロジアーナ図書館、イングランドのオックスフォードのボドリアン図書館。これらは誰でも読書できる開かれた図書館だ。それがガブリエル・ノーデ司書の目標であり、フランス初の試みである。儂は文化事業においても歴史に名を刻みたいのだ。
我が司書は書籍の造詣は当代随一。ただ、独りで多くを背負いたがる性格ゆえ、儂はミカのような存在を求めていたのだ」
マザランは人たらしの甘い声でノーデに告げた。
「ガブリエル、費用をかけずに大量の本を収集せよという君の提言どおり、費用をかけずにすむ部下が出来て嬉しいだろう。ああん?」
マザランは家令にミカエル・エティエンヌを雇うと告げ、図書室脇の修復部屋を居室として与えよと命じた。家令はさっそく古着売りから服を調達した。
ノーデはその服をミカに投げつけた。
「早く着ろ。裸でいられては迷惑だ」
「私の傷痕を診る良い機会ですよ」
ミカはシャツで胸を隠し、左腕と左太腿の傷痕をノーデに晒した。彼は拒否した。
「私は父の死で内科の学位を諦めた。外科は専門外だぞ」
「傷の種類くらい分かるでしょう。ここの医学書はあなたが収集したのですから」
彼は仕方なくミカの左腕を診た。
「これは剣で破れたものではない。太腿は明らかに銃創だ。こんな傷を負うとは本当に職人だったのか? 戦に付きものの商売女でないと言い切れるのか」
ミカとなったマリーは彼に詰め寄り、鼻先でまくしたてた。
「あなたは全ての女は娼婦だと、ラテン語と叡智は男の専売特許だと、図書室に女は要らないと思っている。だから私に男の恰好を押し付けた! 違いますか!」
ノーデの瞼が引きつった。彼の黒い双眸が揺れていた。




