第2話 イヤな予感
枢機卿は閲覧机の『動物における血液と心臓の運動に関する解剖学的研究』を手にした。イングランドの医師ハーヴェイのラテン語論文だ。
「マリー、お前はこれを読んだのか」
「はい。私はラテン語をフランス語に訳せます。また多少ならば英語とギリシャ語も。私は元は印刷工房の写植職人でございましたゆえ。また母は仮綴じ職人でラテン語に堪能でありましたゆえ」
「聞いたか、ノーデ司書よ。印刷職人の女が現れたぞ。それでマリーよ、お前が求める鍵は見つかったのか」
彼女は首を振った。
「猊下、私が人間でなければ魂はどうなるのでしょう。15年間、神は私をお見捨てになったかと恐れております。せめて古代ギリシャの詩にある魂の楽園エリュシオンに逝けないものでしょうか」
ノーデがみぞおちをさすりながら言った。
「オデュッセイアを読むとはよくよく本好きな仮死人か。エリュシオンは英雄の魂が憩う場所、女は冥府の裁判官に追い返されるぞ」
マリーはノーデの言葉を無視した。
「この有り様になってから、私の居場所は修道院や教会の図書室、高貴な方々の私設図書館の書棚の上や壁の窪でした。世界の叡智を探り、私の真の姿と魂の行方を知ろうとするは間違っておりますか」
マザランの愛書家としての何かが動いた。彼はマリーの境遇に興味津々だ。
「お前はいつから潜んでおった? どうやって忍び込んだ?」
「20日ほど前でございます。私の手と脚はあらゆる場所に伸ばすことができます。が、書物を盗みはいたしません、神に誓って」
「ここに来る前はどこの図書を紐解いてきたのだ」
「王立図書館でしたが、管理が行き届いているとは申せません。医学書を探し出すのは大変でした。その前のメスミアーナ図書館は整然として居心地もようございました」
ノーデの眉間の縦皺が深くなった。
「メスミアーナは私が初めて司書を勤めた場所だ。それ以来、持ち主のド・メスム家の尽力があった。勝手に住まうとは厚顔極まりないぞ」
マリーはノーデに強靭なプライドを認めた。
「仰るとおりです。ここはあなた方の聖なる場所。同時に智の恩恵をもたらす場所。ほんの少し智を分けていただけませんか、猊下」
猊下は隙を見せずに歩を進めた。
「儂とノーデは図書室を、紙とインクと皮の香りを、書物が持つ豊穣を、心から愛し、また必要としておる。ここは儂にとって『精神の療養所』だ。
王宮は気張らねばならん場所ゆえ、図書室に身を置くことは何にも代え難い安らぎなのだ。エリュシオンの意味を知る者にそれが分からんとは言わせんぞ」
彼の灰色の僧衣がゆったりと彼専用の椅子に沈んだ。
「ノーデ、ワインを失ったが、昼餐にしよう。マリーも食べるか」
「いえ、私はほんの少しのワインがあれば生きていけます。それがない時は花を、あるいは薔薇の香油を」
ノーデは麻布を敷き、籠からパンと肉が載った皿を出した。富豪のみが口にする白パンと胡椒の香りが漂った。イタリア生まれのマザランは慣れた手付きでフォークを使い、肉を口に運んだ。
「類まれな闖入者マリーよ、頼みがある。ノーデの『Bibliographia politica』をフランス語に訳しながら読んでくれ」
ノーデは宰相の気まぐれに従った。事務処理をする顔で棚から自著を取り出し、マリーに渡した。易々と訳せるものかと言いたげに腕を組んだ。
マリーはタイトルを一瞥し、すらりとフランス語を発した。
「政治学書誌」
ノーデの組んでいた腕がピクリと動いた。
マリーは文章をよどみなく母国語に紡いだ。何の誤謬もなかった。ノーデの眉間の縦皺はいよいよ深くなり、マザランは驚嘆のあまり笑い出した。
「なんとたまげたことだ、逸材の発見は痛快だな、ガブリエル・ノーデよ」
フルネームで呼ばれたノーデは、イヤな予感に襲われた。




