最終話 マリーの神
職を失ったノーデはミカと共にスウェーデン王国に渡った。女王クリスティナの司書となったが、そこはパリの王宮と変わりない魔窟だった。
翌年、パリに戻ったマザランは図書館再建のため、ノーデに帰国を要請した。ノーデは50歳を過ぎていた。彼はパリへの帰途で発病し、アミアンまでたどり着き、そこで息をひきとった。
ミカは1人でテュブフ館のマザランを訪ねた。前の家令に代わり、勤勉実直の相をしたコルベールという若者がいた。
宰相はノーデの死を悼んだ。
「惜しい男を亡くした。まことに惜しい。戻ってきた書物を彼に見せたかった」
宰相も白髪が増えていた。が、柔和で愛想のよい物腰は健在で、フロンドの乱を楽しんだ趣きさえあった。彼は人払いをし、ミカと2人きりで図書館に入った。
競売の日のように、夕暮れが近かった。あの日、競売で散逸した書物が図書館の棚に無造作に積まれていた。
マザランは無秩序な館内を歩き回った。
「底値で買い漁った貴族どもが毎日のように儂に本を返しにくる。奴らの手のひら返しときたら、実にあからさまで可笑しい。蛮勇のフランス人どもめ、精神だけは昔と変わらん。奴らはノーデの偉業を意にも介さん。軽薄このうえないのだ。
内乱中は印刷職人と紙を掻きあつめて散々に儂の打倒文を刷っておったのだ。
ところで、ミカよ」
彼の人たらしの眼差しに秘密めいた色が加わった。
「お前は吸血鬼なのだな」
ミカの神経が粟立った。
「なぜ、ご存知なのです」
この男はノーデと図書館を自らのスパイ網に入れていたのだ。
マザランの口の端が上がった。
「競売の日の報告で、儂はやっとお前の正体が分かった。それはかまわん、お前の魂は人のそれである。ゆえに新しい司書の助手を勤めてほしい。
それでな、ミカよ。儂が望む時に何人か襲って血を吸ってやれ、命を取らずとも良い、弱らせるだけで良い。例えば何かの間違いで枢機卿になったポール・ド・ゴンディ。それから」
ミカの声が割り込んだ。
「猊下はノーデや私まで監視下に置きましたか! 魂の救済を餌にして今度は謀略の道具ですか。吸血鬼まで意のままの駒にしようとは」
彼女の髪が逆立ち、金色になっていく。眼は赤味を帯びた灰色になった。それでもマザランは誘惑者の声で言った。
彼は怖れを知らなかった。
「ミカ、怒るでない。儂はノーデの遺志を継ぐ者としてお前を尊重しておるのだ。お前は神の愛を信じ、救われたいのだろう。ああん?」
「今、分かりました。私にとってノーデが神だったのです! でも、彼はもういません。私の神は死んだのです。猊下、私は救いなど要らぬものとなりました!」
ミカの背中から水色の翼が開き、マザランの前に人でない者が哂う唇があった。だが。彼はにこやかに両腕を広げた。
「ミカ、儂がお前の神になってやろう」
「いいえ、あなたのミカは消えました。私の名はマリー・エティエンヌ。神の愛など不要の存在です」
マリーは哄笑し、マザランに近づいた。
「猊下、あなたの正体は恥知らずな賭博師です! 神とてトランプの切り札に使うお人。その首に見える白銀の血の味を覚えておきたい。薄給でこき使ったノーデを供養するためにも」
図書館に大きな音が響いた。マザランの叫び声と窓ガラスが割れる音だった。コルベールが走ってきた。ミカの姿はなく、マザランは尻もちをついていた。彼の耳のすぐ下の窪みに赤い痣があった。
「猊下、何事ですか」
「コルベール、突風で窓が壊れただけだ。他に何もなかったのだ、何も!」
彼は宙を睨み、おなざりに十字を切った。
「コルベール、館にあるミカエル・エティエンヌに関する記録をすべて燃やせ、今すぐにだ!」
ミカは積んであった蔵書の山から、グーテンベルク42行聖書を抱いて飛び去った。マザランは非常に悔しがったが、紛失の真実は墓に持っていった。フランス王国の王室と宰相に魔物の陰があっては困るのだ。
マリー・エティエンヌの足跡は闇に消えた。が、42行聖書は人知れず図書館の書庫に戻った。それが発見されたのは100年ののち、1763年のことだった。




