第11回 グーテンベルク聖書
間もなくノーデとミカは3回目の書籍収集の旅に出た。南仏で写本を購入したあと、南ドイツに足を延ばした。そこで死去したばかりの司教のコレクション4000冊を手に入れた。その中に初めて印刷機で刷られたグーテンベルク42行聖書が含まれていた。
職人時代の思い出が重なったミカは「宝物です」と目を輝かせた。
2人はその地で吸血鬼の由来を知った。南ドイツはパリよりずっと素朴で迷信深かった。
ノーデは吸血鬼伝説から仮説を立てた。
「元々はセルビア、モラビア、ハンガリーやシレジア地方の伝説で、墓から出た死者が子孫を残すため妻に迫るとか、穴がある舌で血を吸うなど、土俗的かつ怪物的な要素が強い。フランスに来るまでにそれらが抜けて、血を吸う魔物の形になったのだろう。
やはりミカは特殊な病気と思えるな。たまたまヴァムピールに似た症状があるだけだ」
「本気でそう考えているのですか、ノーデ」
「血液は滋養を運ぶ。君が血を蜜のように感じたのは、ワインでは補いきれない滋養があったからだ」
「では、ジャンが刺した私の腹が治療なしですぐに治り、傷痕が遺らなかったのをどう説明しますか」
ノーデは大真面目で答えた。
「未知の治癒力だ」
ミカは友の心遣いを受入れた。
「そうですね、未知の力がある。これが神のご加護ならいいのですが、神学と医学は対立しませんか」
「しないだろう。ジャコブ神父に相談してもいいが、君は嫌だろうな」
「私はあなたがそう言ってくださるだけで満足ですし、心が落ち着きます」
パリに戻ると目の回るような年が待っていた。マザラン図書館の新館建設が始まった。ノーデはそれまでになかった建築構想を求め、さらに所蔵本を増やしていった。
ミカにとって迷いのない日々だった。彼女はノーデの友愛に応えるため働いた。吸血の症状はなく、首の光を見ることもなかった。彼女は天使隊を指揮し、船便で到着した書籍をセーヌ川の船着き場から図書新館へ運んだ。
リュカ親方は歌った。
「宰相殿の大図書館、評判は上々、荷揚げも上々。税金の上々は願い下げ」
ミカは聞いた。
「最後の文句は何です」
「戦費がかさんで仕方ねえって、巷では宰相殿の増税話で持切りですわ。あれこれ値上がりして金の要る事ばかりでさ。皆、辛抱してますな」
市民の辛抱とは裏腹に、マザラン図書館は新館をオープンさせた。テュブフ館の門を入らずとも、通りから直接入場の階段を設け、太厩舎の上の壮麗な図書館に入場できた。
ノーデの自然光を最大に活かすアイデアは東向きの8つの大窓で実現した。壁収納の書架は2階建てになり、2階はバルコニーのような回廊を付けた。閲覧台や机があっても、100人以上が悠々と過ごせる大空間だった。貴重な写本書架は埃を防ぐためのガラス扉が付き、回廊を支える柱はコリント様式。分類は哲学と法律から始まり、化学・天文学・医学・自然史、さらに宗教に関する分野があった。文芸は最後の分野に置かれた。
常連は称賛し、40000冊の蔵書に熱心に向き合った。
あのジャック・ガルヌはようやくクレルモン学院の身分証を手に現れた。ノーデはおめでとうと祝った。ジャックの眼は意外にも暗いままだった。
「司書殿、なぜプロテスタントの教義本を置くのですか。あんなもの、図書館に入れる価値があるとは思いません」
「カトリックとプロテスタントの教えに共通するところ、そして違うところを知るにはどちらの本も必要だ。偏見から自由になって探求することが大切だ。何を信仰しようと自由だが」
「パリはカトリックの街ですよ。国王陛下だってカトリックだ」
ノーデは若者の信仰心は否定せずに諭した。
「君は前王朝の宗教内乱でどれほどパリが荒廃し、死者で溢れたかたか学びたまえ。書物の価値を論じるのはそれからだ」
ミカはジャックが借りた本をチェックした。
「ノーデ、彼は『禁書目録』をじっくり読みたいようです」
「パリ大学神学部の最新版か」
「そうです。熱心ですね」
ノーデはジャックの暗い眼を思い出した。
「彼はカトリックにも熱心だが、視野狭窄かもしれん」
1648年の夏、パリの不快指数は一気に跳ね上がった。リュカ親方いうところの辛抱たまらなくなって暴力に訴える市民たちと増税の標的にされたブルジョアと既得権侵害に怯えた司法機関の高等法院がマザランに抵抗を始めた。
いわゆる「フロンドの乱」の始まりだった。




