第一章 入れ替わりの始まり
春の風が桜をさらっていく朝、涼と怜は並んで学園の門を見上げていた。
旧華族の子弟だけが通う、由緒正しき「華族学園」。その威容を前に、姉の涼は小さく肩をすくめる。
「ねえ、私ほんとにやっていけるのかな……」
凛々しい声に似合わず、不安がにじんでいた。家ではマナーの稽古で何度も叱られ、舞踏会の礼儀作法でも失敗ばかり。令嬢らしさからは程遠い自覚がある。
「じゃあ、僕が代わりになろうか?」
隣で微笑むのは弟の怜。仕草も言葉も柔らかく、まるで絹のような物腰だった。
「えっ……何言ってるの」
「僕の方が“令嬢”に向いてるでしょ。姉さんは、こっちの方が自由にできるんじゃない?」
怜が指さしたのは、男子の制服。
その瞬間、涼は思わず笑った。冗談にしてはあまりに自然すぎる提案。だけど、心のどこかで「その方が楽かもしれない」と思ってしまった。
こうして、双子の入れ替わり生活は幕を開けた。
⸻
入学式。
壇上に立った怜は、誰よりも美しい所作で礼をし、清らかな声で答辞を述べた。
ホールにざわめきが広がる。「あれが涼さん?」「なんて完璧な令嬢なの」
一方の涼は男子制服に身を包み、居心地良さそうに新入生たちの中へ紛れ込んでいた。
そして迎えた、学園恒例の入学試験。
結果は――
一位、涼・怜。
二位、琴葉。
発表の掲示板の前で、琴葉は固まっていた。
誰もが知る名門家の娘、常に首席でなければならない存在。それが、初めて二位に落ちたのだ。
「……どうして」
小さな声が漏れる。周囲の女生徒たちは「怜さん、素敵」「理想のお嬢様だわ」と口々に称賛している。
その中心で、怜は穏やかに笑っていた。誇らしげでもなく、ただ自然体で。
――それが、琴葉には何より癇に障った。
努力して、努力して、完璧であることに縋ってきた自分。
なのに、どうしてこの子は涼しい顔で、私の場所を奪えるの。
胸の奥でざらついた感情が広がる。
琴葉はそのときから、怜を「勝手に」ライバルだと決めつけていた。
⸻
数日後の昼休み。
廊下で本を抱えて歩いていた怜に、琴葉は思わず声をかけた。
「……あなたが“首席”の怜さん?」
声をかけると、怜は振り返り、にこりと微笑んだ。
「はい。琴葉さん、ですよね。お噂はかねがね」
その穏やかな物腰に、琴葉は一瞬、言葉を失った。氷のように完璧で近寄りがたい――そう評されてきた自分と違い、怜はただ温かく微笑んでいるだけだった。
「……ふん。首席をとったからって、調子に乗らないことね」
「調子に、ですか?」
「私はこれまでずっと一位だったのよ。次は必ず取り返すわ」
琴葉の目は燃えるように強い。プライドが、そのまま言葉に滲み出ていた。
怜は困ったように首を傾げた。
「……僕は、ただ自分の力を尽くしただけです。順位はあまり気にしていません」
「っ!」
その一言が、琴葉の心に火をつけた。
努力して積み上げた自分と、努力を当然のように自然体でこなしてしまう怜。
――余裕のあるその笑みが、どうしても許せない。
「いいわ。なら、これから何度でも挑んであげる」
「ええ。……楽しみにしています」
怜は柔らかな笑顔のまま答えた。その無防備な優しさに、琴葉はさらに胸をざわつかせた。
その日から、琴葉の視線はいつも怜を追うようになった。
ライバルとして、そして――まだ本人さえ気づいていない、別の感情感情を抱えながら。