携帯電話
昔、小さなラジオ局の営業所で働いていた時のこと。
その営業所にはその頃、営業の人が3人いて、自分は事務仕事やあちこちから送られてくるテープをまとめて本社に送るような雑用をしていた。昼間は営業の人たちはほとんど外出しているから、普段は1人きりで事務室にいた。
ある時、遠方の本社から営業所に真新しい携帯電話が4台届いた。
その頃、本社で携帯電話をまとめて複数台契約したので、こっちの営業所にも送ってきたのだった。営業所には固定電話もあったが、送られてきた携帯電話と本社にある携帯電話となら通話無料のパッケージだったため、本社とのやりとりは携帯電話でするようにとのお達しもついていた。それで1人一台、携帯電話を持つことになった。
携帯電話はまずまず便利だった。機械に疎い所長もすぐに使いこなしていたし、それまでは急ぎの時にやむを得ず個人の携帯に掛けていたのもしなくてよくなった。何も問題なかった。
そんなある日、自分が持たされていた携帯電話にコールが鳴った。
自分は営業ではないから、そもそもあまり自分にあてた電話が携帯に掛かってくることはない。掛かってくるとしたら営業の人か本社からで、よほど切羽詰まった時だけだ。携帯の発信者は「本社」となっている。何かあったと思った。送ったテープが間違っていたか、書類にクレームがあったか。とにかくおそらく即対応して誰かが頭を下げないければならないようなことだ。すぐに取った。
「はい」
一瞬、間があった。
「もしもし?」
何か言いづらいようなことが起きたのだろうか。「何かありましたか?」
「○▽○▪︎∴◇』﹆⌘」
人の声が電話口から流れ始めた。ただ、何を言っているのかわからない。
「あの?」
「≒翬危&顆●饋匁箆擢黐飫菲摹辭聻豨鷓耻痲帶蠃蘤迺舙洎」
滔々と誰かが何かを話している。でも言葉になっていない。おかしな変声機を通したような、男とも女ともつかない声が、早送りでもしているみたいに聞き取れない「言葉のような何か」をずっと途切れなく電話越しに発している。
「すみません、電話が遠いようなんですが?」
「憚薙襾濔賸霽蠧娉欏駔麼酗蜊爹啝蟇稱傻纉蚘纔瑇邶櫺萵黌攩縧躞」
発信者をもう一度確認する。「本社」となっている。でもこの電話の向こうにいるのは誰なのか。本当に本社の人間なのか?
「墅篦脾畄臧鬽碼逶瞢蕕菟卑冰兪盨離糢瀨與鷃蠱址梭舳竭憂窠梳鐚椶齲膩䑓蟆辤劘嫠」
「切りますね」
電話を切る。手が震えた。でも、と考える。これがもし本当に本社からの電話で、混線か何かのせいでうまく伝わらなかっただけだったとしたら?
相手はかなり猛烈な勢いで、それこそ息もつかずに話していた。あれほどに話さなければならないことがあったのだとしたら?
一息ついて、私は携帯電話の着信履歴を見た。確かについさっき、本社から、着信があった。私はそれを取った。3分ほどの通話があった。そう、その3分間、最初のわずかな時間を除いてずっと電話の向こうの人は、おかしな機械音で延々と何かを話し続けていた。それは全部事実らしかった。ちゃんとそれは着信履歴として記録されていた。私はその履歴から、コールバックした。
コール音が数回鳴った。
「はい? 総務部ですけど?」
「あ、東京営業所です」
「どしたの〜?」
「さっきこちらにこの番号から着信があったので。どうしたのかなと思ってかけ直しました」
ほっとした。いつもの総務のお姉さんの声だった。普通に掛かった。
「えー、さっきっていつー?」
「いや、ほんとにさっきです。5分も経ってないです」
「今日は誰もこの携帯触ってないよ?」
なんとなく予想していたことだった。本社の人があんな電話を掛けてくるはずがない。
「そうですか、自分が何か操作を間違ったのかも。すみません、ありがとうございます」
3分程度のそのおかしな電話は、ずっと何かを話し続けていた。3分。息継ぎもなく、一瞬も途絶えずに。
人間ならそんな電話を掛けることはできない。
幸い、そんな電話は一度だけだった。
今思えばそんな電話に着信履歴から掛け直すっていい度胸でした。たぶん番号の登録間違いだったら困る、と思ったんだと思います。
「ICレコーダー」「固定電話」と同じ事務所での話です。この事務所での怪談はこれで全てです。