ささやかな抵抗
私は生まれてこの方この部屋の中で育った。部屋は少しばかり質素ではあったが、年功序列制といったとこか、年をとればとるほど部屋は増築されていく。食事も好きな時にとることができ、労働もなく、好きなことをして生きていたため、ここでの生活には大変満足していた。周りにも同じようなつくりをした部屋が無数にあり、全員が私と同じように何不自由なく生活していただろうと思う。
だが、そんな夢みたいな生活を送っている私でさえ、一つばかりか悩みがあった。私はこの部屋から出たことがないのだ。出たことがないと言うと少し語弊がある。厳密に言えば出ることができないのだ。そこに特段の理由はなく、これがこの社会の規則であり、全てであった。ここではみなそうして生きている。まぁ、理由があるにしろ、その規則の制定者がこの社会の一つの小さな歯車に過ぎない私に教える義理も義務もないだろう。だが、部屋の窓からたまに見える外の世界。そこにはこことは全く異なる世界が広がっていて、自分の部屋とは到底比べ物にならないほど立派な建造物があり、私の思考では到底到達できない域の文明を営んでいた。いつしか、私の心は窓の外に広がる無尽蔵の未知に惹き付けられていた。そこで芽生えたのは単に外の世界に対する好奇心のみではなく、この誰かもわからない奴らに決められた規則に対する少しばかりの反骨精神もあった。暇なときに「いつかそいつらに痛い目を見せてやる」だなんて幼稚な妄想にふけったりもしたもんだ。
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いつもと変わらぬ日常を過ごしていた今日、そんな私に思いもよらぬ機会が訪れた。どうやら「引っ越し」の日が来たようだ。これは私の憶測の域を越さないが、ここでは年功序列制がとられている、そのためか、一定の年齢に達したものはさらに良い環境へと引っ越すことができるのだ。ここでは、皆が皆、年を取るたびに部屋の増築を行う、だが、土地は有限であるため、一定限度まで増築した部屋は土地の範囲を越しての増築を行うことができなくなってしまう、よって、新たな場所に引っ越すほかなくなるのだ。また、私はこれまでに幾度もなく先輩方が引っ越して行ったのを目の当たりにしたことがある。上記の根拠を以て私はこの推測を導き出した。また、先輩方の引っ越しを観察した結果、長年にわたって綿密に定められた規則があるおかげで、引っ越しもすでにシステム化されており、部屋ごと移動させることができるようになっているらしく、中に住んでいる者たちが特段の不便をこうむることもない。かつては、このような凝り固まった理にかなっていない規則に愛想をつかしていたが、いざ自分がその恩恵を受けるとなると全く悪い気はしない。
ましてや、今の環境に辟易していた私からしたらまさに喉から手が出るほど欲しい機会であった。このようなレールが敷かれている人生を歩むのも時には悪くないのかもしれないと思ってしまった自分がいるくらいには。
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引っ越しにかかった時間はぜいぜい数時間だった。引っ越しの途中は揺れが激しく、思ったより快適ではなかったが、いいこと尽くめの世の中じゃないことくらい分かっている。「やっとあの環境から抜け出せたのだから、これからは新たな人生を歩んで、俺を閉じ込めていたやつらに一泡吹かせてやるんだ」なんていう幼稚な妄想にまたふけっていた。
揺れが収まってから数分が経過したが、何かがおかしい。酸素が薄いのかわからないが、これまでないほどに呼吸がしにくい。窓もふさがれていて、外の様子も見ることができない。
状況を把握しようとしていたとき、急に部屋が開かれ、否応なしにすぐさま別の部屋に放り込まれた。私はその部屋に入れられた途端になにかこれまでに未曾有の野性的な、原始的な欲望にさらされていることを察知した。それはほんの一瞬のことだった。私は四方から何か固い物体によってもみくちゃにされた後、部屋の奥にあった吸引器のようなものに吸い込まれ、また違う居心地の悪い部屋へと落とされた。
「なぜだ、なぜなんだ、いったい私が何をして、何が起きているというのだ」
周りを見渡してみると、そこには仲間たちの残骸がそこら中に散乱していた。それを見て、私は自分ももうすでに何もかもが手遅れなのだと悟った。
「好奇心も反骨精神も意味はありゃしない」
たちまち、部屋の天井から強酸性の液体が散布され、彼はその生涯に幕を閉じた。
自分のささやかな抵抗が叶ったことも知らずに。
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「あーあ、こうなるのが分かってたんならあんな沢山牡蠣を食べるんじゃなかった」
男はそう小言を吐き捨ててトイレを離れ仕事に戻った。