宝石草 - ホウセキグサ -
親元を離れてからそろそろ一週間が経とうとしている。
もうあと何日か経てば大学の入学式だ。
この春から始まる本格的な一人暮らしに順応すべく、まだ少し肌寒い三月の下旬から上京先のワンルームに寝泊まりし始めた、今日この頃の俺。
新たな人間関係に……より専門的な勉学……。
義務教育の延長線上にあった高校とは異なる、ある意味全てが自由で、その代わりに全ての行動に責任が伴う――ただ独りきりの人生が始まろうとしている。
本来であれば不安と期待の両方に胸をときめかせているところだろうが、実際はそれ一辺倒にはいられないわけで。
むしろ今このときにおいては、憂いの方が何倍にも大きくなってしまっているわけであって。
おそらくはこの目の前に広がる茶色と四角に彩られた無機質な世界のせいであろう。
ほら、見てくれよ。
この新居を埋め尽くさんとする段ボールの山々をさ。
「……はぁ。ただでさえ忙しいときに余計な手間を増やしてくれるな、親愛なる母よ。そして妹よ……」
つい一昨日に最低限の荷解きを終えたばかりだというのに、その翌日には倍以上もの私物が届いてしまったのだ。
一向に終わる気配のない片付け作業に、独り溜め息を吐いてしまう俺をどこの誰が責められようか。
今一度、この状況を整理させていただこう。
床にも机の上にも、これでもかというレベルに段ボールが並べ詰められてしまっている。
もちろんのこと望んでこうなってしまったわけではないと言い訳をさせてほしい。
お母上と妹君ときたら、なんと実家の自室に置いてあった俺の私物を、何の断りも無しに追加で送り付けてきたのである。
確かに、俺が実家から巣立ってしまったのは事実だ。
このまま実家に置き去りにしていく必要もない。
百歩譲って仕方がなかったのだとしよう。
しかしながらだ、母上と妹君よ。
せめて段ボールに内包物の目安くらいは書いておいてくれてもよかったのではないだろうか。
ただでさえ生活必需品の段ボールを先に開けねばならないというこの状況で、漫画やらゲーム機やら、まだ仕舞う場所さえ用意されていないモノたちがグイグイと紛れ込んできてしまっているわけで。
ほら、ため息を吐かない理由がなかろうよ。
「ってかもう昼か。近所の飯屋でも開拓してみるか……?」
一旦全ての荷解き作業を諦めて、家の外側にでも逃避してしまおうかと思い始めた――ちょうどそのタイミングのことであった。
ピンポーン、と。
気の抜けるドアチャイムの音が部屋の中に鳴り響いたのだ。
頼んだ記憶のない宅配便がまた届いてしまった。
送り元は件の母親である。
ティッシュ箱ほどの小包みが一つ、また新たに我が家に追加されたのである。
ご丁寧にも〝振動不可・天地無用・ナマモノ〟と三種の異なるシールがベタベタと貼り倒してあった。
まさか、引越し祝いの汁そばを器に入れたまま送ってきたわけではあるまいな?
……いや、さすがにそれはないか。
慎重に封を切って中を確認してみると、そこには小さな小さな鉢植えが大事そうに入っていた。
端の方には細いラベルプレートが突き刺さっている。
ハオルチア・オブツーサ。
和名:雫石。
どうやら、この植物の名前らしい。
箱の底には母の字で小さなメモ書きが入っていた。
『コレは一人暮らしの餞別です。どうか明るい窓辺に置いて育ててあげてください』
ほほう、なるほど、餞別か。
現金ではないところが何とも温厚な母らしい。
下側には赤字でいくつか補足が書き添えられている。
※ 案外簡単に育てられるってよっ!
※ でも直射日光は厳禁っ!
※ 土が乾いたらお水をあげてねっ!
※ 私がいないと寂しかろうと思ってっ!
おそらくこの丸っこい字は妹様によるモノであろう。
ということは二人してメモを書き込んだのか。
それはまた手間のかかることをしなさったもんで。
っていうか母よ、そして妹よ。
置き場は窓辺推奨なのに直射日光はダメとか、結構デリケートなシロモノじゃないのか?
簡単に簡単と宣言してしまっていいのだろうか。
こちらとしては信じてやってみるしか選択肢はないのだぞ。
もう一度鉢植えを手に取ってはマジマジと見つめてみる。
おそらくコレは多肉植物の一種なのだろう。
透明なグミのような葉っぱがブーケ状に広がっていて、それらが土からちょこんと顔を覗かせるように生えてきている。
ああ。美的センスに乏しい俺にだって分かるさ。
こじんまりとしていて何とも可愛らしい姿形をしている。
まるで朝露をそのまま植物の形に落とし込んだかのようなコイツは、天井のシーリングライトの光を浴びて、今まさに半透明な葉を一際に煌めかせようとしているのだ。
和名は、雫石、か……。
なるほど確かに、宝石みたいだもんな。
今はまだほとんど茶色が支配しているような殺風景な部屋でも、こんな小さな鉢植え一つで、新たな彩りをもたらしてくれているらしい。
花は無いのに華やかになった気がする。
ただの無機質なオブジェだったのならまだしも、たった一つの生命によるチカラだとしたら、何だかとてつもなく凄いことのように思えてしまったり、案外そうでもなかったり。
コイツは、一人暮らしを始めた俺の、初めての同居人とでも呼ぶべきか?
まさか実家を離れて寂しくはないかと、母上と妹君が余計な心配をしてくれたのではあるまいな?
ははは、よしてくれよ子供じゃあるまいに。
俺だってなんとか上手くやってみせるさ。
アンタらご自慢の息子で、そして兄貴なんですもの。
「……ま、そのうちキチンとした置き場所でも用意してやるかね」
こうして送られてきてしまったものは仕方ない。
すぐに枯らしてしまうのも可哀想ではある。
当面は窓際の縁にでも置いておくことにしておこうか。
レース生地の薄カーテンがイイ感じに日光を遮ってくれるにちがいない。
窓辺に置いてみて、顕著に分かる、その煌めき具合。
小さいながらもしっかりと輝きと存在感を放つソレは、ついでに俺の新生活をもひっそりと照り輝かせようとしてくれている気がして――ほんの少しだけ頬が緩んでしまった。
ついでにゆっくりと自室の窓を開けてみる。
まだ少し肌寒い三月の風だが、ほんのりと春の暖かさを纏い始めているような、何故だかそんな気がしてしまった。
たとえそれが俺の思い過ごしであったとしても……もう少し荷解きを続けてみようかと思い返せるくらいには、こんなちっぽけな植物の輝きに心を動かされてしまったらしい。
ああ、なんと現金な俺であろうか。
財布の中に金はほとんど入っていないというのに。
十円玉に描かれた鳳凰が閑古鳥と化してしまっている。
あーあ。宝石だったら、すぐ手元にあるのにな。
「ふぅ。もう少しだけ頑張ってみますかねっと」
冗談を吐けるくらいにはメンタルが回復したということだろう。
唐突ながら家族から送られてきた春の兆しに。
俺は少しだけ温もりを感じてしまったのであった。