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ぼっちで天涯孤独な私が教室で忘れ物をしたら、理解のある彼くんが同居を申し出てくれました。

作者: 桜城恋詠

 移動教室で忘れ物をした。


 ーーど、どうしよう…。


 3限の教室に辿り着くまであと半分と来た所で、忘れものをしたこと気づいた久留里(くるり)は、ペンケースを2限で利用した教室の机の中に置いたまま出てきてしまったことに気づいた。

 3限であの教室を利用する授業は人気の講義であるらしく、2限終わりの時点でかなりの人数授業が終了するのを待っている。

 慌てて荷物を片付けて出てきたから、すっかりペンケースを鞄にしまうのを忘れていたのだ。


 ーー3限の席を取って、購買でペンを買えば…。でも、昼休み…お金もかかるし、取りに行った方が。


 怖いけど…長い時間購買に並ぶよりも取りに行った方が効率よく授業を受けることができるだろう。

 一歩勇気を踏み出して…。


「あ、あの、あの…!」


 意気込んだのはいいけれど。

 2限の教室はすでに半分以上埋まっており、久留里が利用していた机にも柄の悪い男性が不機嫌そうに足を組んで座っていた。

 戻ってきたことを早くも後悔しながら、久留里は拳を握り締め緊張の面持ちで久留里を見下す男に向かって声を上げる。


「机の、中…。忘れもの、を」

「あ?」

「ひ、ひえっ」

「ちょっとちょっと。女の子怯えてるよ?越碁(えちご)はおっかないからなあ…。ごめんね?悪気はないんだ」

「い、いえ。その。私が…はっきり物事を言えないから…。ごめんなさい」

「それで、忘れ物、だっけ?」

「ーー勝手に持ってけ」

「ひえっ!」


 地を這うような低い声に耐性がなくて、久留里は声を聞いた瞬間に素っ頓狂な声を上げてガタガタと震え始めた。


「越碁~。可愛い子怖がらせないの」


 隣に座る、優しそうな顔立ちの男性がフォローしてくれるが、久留里の忘れ物が残された机の前に座った男の顔は今もなお恐ろしい眼光で久留里を睨みつけている。


 ーー私が忘れたペンケース、見えるところにあるのに…。


 ごめんなさいと謝って、前から手を伸ばしペンケースを手にとって来た道を戻ればいいだけなのだが、どうしても至近距離で人間の顔を見るなんて機会がなく、苦手意識が先行して動けないのだ。

 彼はいつまで経っても動く様子のない久留里を物珍しそうに見つめ、隣に座る男性は「なんか奉仕させてるみたいだよね。角度的に」と不穏な言葉で茶化している。


「うわっ。ごめんって、冗談。この子意味わかってないだろうし…ね?これ以上怯えさせてどうするの。忘れ物くらい代わりに取って渡してあげなよ。同性でもビビるくらい怖い顔してんだからさ…耐性のない女の子じゃまともに会話すら…」

「ごっ、ごめんなさい!やっぱりいいです…!」


 ーー私には、見知らぬ男性に鋭い眼光を向けられたまま至近距離で忘れ物を手に取る勇気はなかった。


 パタパタと走り去り、勢いよく購買への道をひた走る。

 困ったとき、友達がいれば…頼ることができるのに。

 引っ込み思案で、ブスで、緊張してまともに話せない久留里には友達の一人もいない。

 長い列を作る購買に並び、ペンと消しゴムを一つずつ購入。

 お昼を食べる時間もない。

 次の休み時間に鞄の中に忍ばせていたお菓子を摘んで、放課後バイト先で買食いを決意した久留里は授業開始ギリギリに教室へ滑り込み、最前列で真面目に授業を受ける羽目になった。


 *


 はじめてだったなあ。


 可愛い女の子、なんて言われたの。


 久留里の人間関係は希薄だ。

 幼い頃両親を亡くした久留里は1Kのアパートに1人で暮らしている。

 大学の学費や生活費の為昼と夜のバイトに明け暮れる大学2年生だ。


 もっとたくさんの人と話せるようにならなきゃ。

 社会人になったら奨学金の返済もあるのに。


 このままでは就活も思いやられると、苦手を克服するべく接客業のバイトを始めたが、とっさの判断が苦手で怒られてばかり。

 マニュアル通りの応対なら、問題なく務めることができているのだがーー


「久留里ちゃんが居酒屋のバイトなんて始めると思わなかったな。随分思い切ったね?酔っ払いに絡まれたりしない?誰も助けてくれないでしょ?」

「は、はい…。自分ひとりでやらなきゃいけないので…。対応力とか、身につくかなって…。私、誰かを頼るのは苦手なので…」

「うちとの落差、激しくない?」

「は、はい…。3限終わりはのんびりまったり、6限終わりは終電間際まで目まぐるしく…そんな感じです」

「身体壊さないでよ?久留里ちゃんが体調壊したら、うちはまともに給仕もできないおじさんだけしかいないんだから」


 久留里は2つのバイトを掛け持ちしていた。

 3限までの授業日は平日、自宅近くの小さなカフェでアルバイト、5限や6限など夜まで大学がある日は終電ギリギリまで居酒屋のアルバイトに精を出している。

 久留里が男性であったのならば徹夜で朝まで居酒屋のシフトを入れたい所ではあったが、事件に巻き込まれてはと難色を示されたこともあり、ゴールデンタイムから日付変更ギリギリまでのシフトを優先的に組み入れて貰っているのだ。


 カフェのバイトはどんなに遅くとも22時、閉店まで。

 お客さんはまばらで、仕事のない時間は自由に時間を使える。

 ほとんど自由時間のようなものなのにお給料も貰えるのだからありがたい。

 カフェのマスターも久留里を孫娘のように可愛がってくれているので、心から信頼はできないにしても、久留里が唯一世間話ができる相手だった。


「そういや最近、久留里ちゃんとちょうど入れ違いで、若い常連のお客さんができたんだよ。中学生って言ってたかな」

「中学生、ですか…」

「久留里ちゃんがいるときにおいでと言ってあるから、今度は会えるといいね」

「えっ?は、はい…」


 中学生と大学生では最低でも5つは年の差がある。

 話が合わないのでは…と思いながらも、お客さんとして姿を見せた時には自分から仲良くなる努力をしようと意気込んだ。


「…」「…っ!」


 忘れ物をした授業から1週間後。

 2限の授業を終えた久留里は今度こそ忘れ物をしないぞと入念にチェックをしてから教室を出ると、授業が終わるのを待っていたらしい男子生徒と目が合った。


「あ、あの子…。ほら、越碁!声かけて!」

「…」

「ああもう!越碁が掛けないなら俺が行く!」


 ーーあ、あの人。先週見た…怖い人とフレンドリーな人だ…。


 背が高く体付きもがっしりしているから、見下されると震え上がるほど怖い。

 友人なのか、人が良さそうな笑みを浮かべて久留里を指差す男性は、目つきの悪い男の隣に座っていた男子生徒だ。

 先週も隣に座っていた辺り、友人関係なのかもしれない。


 ーーあんなに恐ろしい外見をしてる人なのに、お友達がいるんだ…。


 偏見に塗れた久留里は男子生徒達に失礼なことを考えながら、ピシャッと身体を硬直させて小動物のようにちょこまかと足を動かしその場を後にしようとするが、「ちょっと待って!」と声を掛けられた。

 無視するわけにもいかず振り返れば、声を書けてきた人の顔は見知ったものでーー


「先週、忘れ物探してた子、だよね?よかった。また会えた。実は、忘れ物をーー越碁が預かってるんだ。あ、越碁は、あっちにいる図体がでかい奴ね」

「わ、わざわざ!保管してくださったのですか…?ありがとう…ございます」

「うん。それで、よかったら…忘れ物、渡そうと思って待ってたんだ。次の授業って混む所?もしよかったら一緒にお昼でもどう?奢るよ?」

「えっ!?いや、そんな。ご迷惑をお掛けしているのは私なので…!そういうのは…」

「ナンパしてんじゃねェよ」

「痛っ!蹴りつけることないじゃんか!」

「ほら」

「あ、ありがとう、ござい、ましゅ…っ!」

「うさぎちゃんみたいでかわいい~」

「ひゃっ!?」

「こう、口窄めてるのめっちゃかわいいよね。名前何ちゃん?どう?お兄さんと一杯ーー」

「ゲス野郎が…」

「だから痛いって!うさぎちゃんがビビッてんじゃん!」


 地を這うようなドスの利いた低い声が男の口から紡がれる度にフレンドリーな男子生徒の頭にドカドカと踵落としが飛んでいる。

 恐ろしい音と共に繰り出される蹴りを見て思わず「ぴぎゃっ」とまるで自分が攻撃を受けたときのように両手で頭を抑えた。


 うさぎちゃん、なんて。よくわからないニックネームで呼ばれるのは…いや、だなあ。


「わ、私。うさぎちゃん、なんて可愛い名前じゃありません。私は、氈鹿久留里(かもしかくるり)、です」

「へー、うさぎちゃんじゃなくてシカちゃんか!それはおっきな違いだ。正したくもなるよね。俺は

 蜂谷鶴海(はちやつるみ)で、こっちのいかついのが羊森越碁(ひつじもりえちご)。か弱い羊なんて見た目してないの気にしてるから、越碁って名前で呼んでやって。喜ぶよ」

「えっ?それは…」


 久留里が戸惑っていると、越碁が鞄から久留里の忘れ物であるペンケースを取り出して久留里に差し出した。

 手が触れ合う距離で、見知らぬ男性と手渡しで物を受け取るのは、すごく緊張する。

 バイト中は「頑張ればお金を貰えるから」と自身を鼓舞して我慢しているが、金銭が発生しないのに頑張る理由が久留里にはないのだ。


「警戒心ねェな…」

「…へっ!?」

「信頼できねェ相手に名乗んな。殺られんぞ」

「やら…?」

「むふふなのと絞め殺されちゃう感じ、どっちかな~。越碁が言うとどっちもシャレにならないからさ~」

「…そうかよ。殺られてェのか」

「いたたた!暴力反対!ギブギブ!ロープロープ!」


 本気で羽交い締めにして首を締め始めたから、本当に殺してしまうのではないかと怖くて仕方がなくて久留里はその場にへたり込んでしまった。


 越碁と呼ばれている男性は、怖い。

 本当に大学生なのだろうか?声や容姿だけなら30代から40代のように見えるし、威厳がある。ふざけて友達の首を締める男だ。久留里もいつか…。


「ちょ、ちょっとシカちゃん!?大丈夫!?こら、越碁!泣いちゃったじゃん!」

「俺が悪ィのか」

「越碁も悪いし俺も悪い!」

「…いちいちピーピー泣いてたらキリねェ。付け入る隙与えてどうすんだ」

「だ、だって…こ、こわい…」

「…やってらんねェ」

「ええ!?最後まで面倒見てあげなよ!シカちゃん泣かせたの越碁だよね!?」


 越碁が尻もちをついた久留里を同じようにしゃがみ込み視線を合わせてまっすぐ見つけた結果、「こわい」と久留里がみっともなく泣きじゃくったからだろう。

 深いため息をついた越碁は立ち上がり、鶴海の反論にヒラヒラと手を振ると教室の中に入ってしまった。


「あー…ごめんね。悪いやつじゃないんだ。見た目がめちゃくちゃ怖いせいで、見た目判断されること多いから。越碁も…今のは大分…ダメージ受けてそうだな」

「ごめんなさい…っ!」

「シカちゃんのこと責めてるわけじゃなくてね?ほんとに時間、大丈夫?お昼食べる時間ないよね。越碁の事情も説明した上でお近づきになりたいんだけど…」

「え、ええと!だ、大丈夫です!ご、ごめんなさい…!」


 また来週、正式に謝罪しよう。


 ーー知らない人に、みっともない姿を見せてしまった。子どもみたいにピーピー泣いて。羊森さんが怒るのも当然だ。


 越碁は久留里の落とし物を親切に保管し、久留里に渡してくれただけだ。見た目で怖がられ、泣かれて。

 悪者にされるなら、久留里が越碁の立場ならば二度と人助けをしようなんて思わないトラウマを植え付けてしまった。

 謝罪しても謝罪しきれないことをしてしかっているのだから。


 ーーどうしよう…。


 来週の授業で顔、合わせたとき。菓子折りを持参したとして、許してくれるだろうか。

 鶴海は「気にしなくていいのに」と笑い飛ばしそうだが、越碁の反応は想像できそうにない。


 あの、射抜くような視線が。


 何もかも見透かされているようで、怖くて怖くて仕方ないーー


「こーんにちはー!」


 土日の午前中は講師の学会等で休講になった授業の補講などが急に行われる可能性があるため、休息日として予定を入れないようにしていた。

 普段は夕方から居酒屋のバイトを夜までこなすが、急な貸切や予約など、人手が足りないときはカフェのアルバイトを買って出ることがある。

 まさに土曜はその「特別な日」で、オーナーさんが言っていた中学生が主催する貸切パーティの手伝いで、カフェに駆り出されていた。


「オーナーさん!このおねーさんが、大学生のおねーさんスタッフ!?」

「ああ、そうだよ」

「は、はじめまして。氈鹿久留里と申しましゅ…!」

「かっ、かわいい~!蜂谷凪沙(はちやなぎさ)だよ!今日はよろしくね!」

「よ、よろしくお願いします…」


 また失敗してしまった…。

 どこかで聞き覚えのある名字の凪沙が言うには、総勢13名の作戦会議を予定しているらしい。

 作戦会議?と久留里は疑問に思うが、それ以上の説明がないので久留里は納得するしかない。


「氈鹿さんは大学生なんだよね?どこの大学通ってるの?凪沙のお兄はね、十文字大学なんだ」

「蜂谷さんにはお兄さんがいるんですね…。わ、私も。十文字大学です」

「そうなんだ!お兄は越後屋のおにーちゃんと一緒に経営学部に通ってるんだけど…学部も一緒かなあ?」

「わ、私は経済学部で…」

「学部は違うんだ!じゃあ、お兄のことはわかんないよね。今日は越後屋のおにーちゃんはお手伝いがあるから出て来られないけど、お兄はくるから。凪沙が恋のキューピッドしちゃおっかなって、ちょっと思ってたのに!」

「恋の…?同じ大学だと、恋が生まれるのですか?」

「同じ大学なら、時間合わせてデートしやすいでしょ?」

「なるほど…」


 中学生に異性交際についてのイロハを教わる大学生とは一体…。


 久留里に異性交際など一生縁がない話だ。興味深く話を聞いていれば、マスターに「彼氏欲しいの?」と茶化された。

 久留里は彼氏が欲しいのではなく、普段自身が異性と交際する姿など考えたことがないので、新鮮だっただけだ。

 彼氏が欲しいわけではない。


 ーー奨学金の返済を抱えていて、可愛くもなければ何の魅力もない女が、どうして彼氏なんてできると思うのだろう。


 久留里はわきまえている。

 自身がどれほど醜く、社会のお荷物であるかを理解しているのだ。

 変わろうと行動しても、すぐに人は変わらない。

 だからこそ、自分を少しでも良く見せようと必死になっている久留里が恋だの愛だのにうつつを抜かす暇はないのだ。


「あれ、シカちゃん?」

「ーーお兄!早いね?もっと遅くてよかったんだよ!」

「凪沙は手を挙げる速度だけは人一倍早いけど、それを成功させるための手間は惜しむから。パーティを成功させるために、お兄ちゃんが人肌脱いでやろうと思って。早く来てよかったよ。シカちゃんが…店員さん?として居るなら、時間を気にせず越碁の話ができる」

「羊森さんの…?」

「この間、話したいって言ったっしょ?越碁も気にしてるから、ここは俺が一肌脱いでやろうと思って」

「お兄ばっかずるーい!凪沙も!凪沙もやる!」

「凪沙はパーティに呼んだ奴らを全員満足させる仕事があるだろ。ほら、行っといで」

「むーう!」


 凪沙はぷっくりと両頬を膨らませ、ポニーテールを揺らしながらずんずんと音を立てて顔を見せた同い年の少年少女達へ絡みに行った。

 鶴海は本気で久留里と長話をするつもりらしく、カウンターに座って腕を組む。

「何から話そうかな」と悩んでいる様子だったので、慌てて「飲食代は私が持つので好きなだけ頼んでください」とか細い声で提案したのだった。


「え、いいの?」

「は、はい…羊森さんには…来週、手土産を持参して謝罪しようかと…思ってます…」

「手土産、ねえ。それはやめた方がいいかも」

「え…」

「ああ、久留里ちゃんの行動が駄目ってわけじゃなくて。迷惑をかけたから菓子折り持って謝りに行こうって行動するのはむしろ教育が行き届いてるよね。いいところのお嬢さんって感じ」

「いえ、私は悪いところの出と言いますか…」

「ただ、越碁には悪手なんだよね。うちの凪沙が越碁のこと越後屋って呼んでたの、聞いた?」

「あっ、はい…」

「越碁は和菓子屋の息子なんだ。本当は和菓子職人を目指してたんだけど、事情があって。今はお弟子さんが継ぐって話になってるんだけどね?経営に携わるつもりはある。越碁はめちゃくちゃ舌が肥えてるんだよね。だから、下手な菓子折り持って謝っても、喧嘩売ってんの?ってなるわけ」

「ひえ…!」

「越碁は見た目がアレだから勘違いされるんだけど、睨んでるとか、怒ってるわけじゃないんだよ?睨んでるのは目が悪いだけ。怒ってるように見えるのは、声が低すぎるだけなんだよ。越碁が本気でキレてる時は絶え間なく口が動く。マシンガントークってやつ?口数少ないうちは安全だよ。襲ってきたりしない。ただ見た目が怖いだけの…うーん、蛇とかみたいなものかな?踏んづけたりしなければ噛み付いてはこない」

「そ、う…なんですか…。私、とても…ひどい態度を…。泣いたりなんかして…」

「あー。事情を知らないと驚くよね。越碁はすぐ女泣かす、とか。犯罪者だとか酷い噂流されたこともあってさ。歩いてるだけで犯罪者扱いかよって、一時期…結構荒れてたんだよね。それで悪口言う奴らを手当たり次第にボコって…俺以外の友達がいなくなった」


 ーーあんな見た目の人でもお友達が居るんだ。


 初めて越碁を視界に捉えた際、久留里はそんな感想を抱いた覚えがあるがーーやはり越碁には鶴海以外の友達がいないらしい。

 あの見た目と声なら、同性でも怖がるのは無理もないだろう。

 鶴海から話を聞いた久留里は途端に恥ずかしくなる。

 外見や声だけでは、人のすべてを知ることなどできないと反省したのだ。

 鶴海は反省して縮こまる久留里を安心させるように微笑みを深めた。


「俺は…さ。シカちゃんのことよく知らないけど、シカちゃんは正直な子なんだなって思ったよ。越碁は見た目がアレすぎて、怖いって口にしただけでも殺されるんじゃないかって思って口を閉ざす奴らの方が多いのに、シカちゃんは正直に自分の気持ちを伝えてた。越碁だって子どもじゃないし、俺もフォローするのは限度があるけどさ。俺は、シカちゃんが忘れ物を取りに来たことから始まったこの縁を、大切にしていきたいわけ。どう?言ってる意味わかる?」

「え、えと…蜂谷さんと、羊森さんは…怒ってるわけではないと…」

「それもそうなんだけどね?いちばん大事なことを今から言うよ。ちゃんと覚えてね」

「は、はい」

「ーー友達になって貰えないかな」

「えっと……」


 ーー蜂谷さんと私が?と問いかければ、羊森さんと蜂谷さんの2人と、だそうだ。お近づきになりたいってそういう意味だったのか。


 久留里が正直に気持ちを吐露できるから友達になりたいと言われても。

 久留里にとって、正直なことは欠点でもある。

 すぐ態度に出て、想定外のことがあるとあわあわとパニックになる久留里の欠点を正確に把握した上で友達になりたいとは、随分と変わった男だ。

 一体何が目的なのだろう。


「わ、私…了承したら、お風呂に沈められるのでしょうか…」

「ないない。顔が怖いだけで、越碁に反社会的な知り合いはいないからね!?案外、うまくやっていけると思うよ?あれでも越碁、凪沙とは普通に話ができるし面倒見はいいから」


 ーーよかったら越碁の実家にも顔見せてやってよ。話し通しとく。


 和菓子越後屋、と書かれたお店の名刺を受け取った久留里は開いた口を塞ぐことができなかった。

 鶴海が言うには、あの今にも人を殺しそうな越碁は心優しい青年であるらしい。

 しかし、本人から友達になってくれと言われたわけでもないのにどこまで真に受けていいものか。


 ーー友達の友達は他人と言うし…。


 鶴海の言葉を信じていないわけではないが、これ程うまい話などあるのだろうかと疑ってはいる。

 越碁の話がなく、鶴海が「友達になってほしい」と誘うだけなら、久留里は喜んで友達1号の誕生を喜んだだろう。しかし、鶴海はどちらかと言えば「越碁が外見通りの人間ではないので、もっと中身を見てほしいから友達になってほしい」と久留里にお願いしているのだ。


 ーーもしも、鶴海さんが勝手にやっていることで。越碁さんにその気がないなら…。


 確かめてみようと思った。

 一方の話だけ聞いていたら、真実にはけして辿り着かない。

 蜂谷さんが嘘を言っていると疑うわけではないけれどーーもし、越碁さんにその気がないとしたら。

 勝手に舞い上がって、初めて友達ができたと勘違いして傷つくのは久留里だ。


 問題は、久留里が越碁の受けている授業が何かを知らないことだろうか。

 知っているのは毎週水曜の3限目に入れ違いで久留里が2限に利用している教室の講義を受けていることだけ。

 常に鶴海が一緒にいる為、越碁の本音を聞き出すことはできそうにない。

「友達になって欲しいなんて思ってねェ」と越碁と鶴海が喧嘩を始めたら、またわんわん泣き出してしまう。

 迷惑なことこの上ない。


『越後屋のおにーちゃんが受けてる授業の時間割?』

『できれば鶴海さんと一緒に授業を受けてない日にお話がしたくて…』

『越後屋に突撃したらよくない?』

『でも、私…持ち合わせがあまりなくて…』

『お店に顔見せなくたって、母屋に突撃すればいいんだよ!凪沙、お兄にナイショで仲介してあげよっか?』

『蜂谷さんにご迷惑をお掛けするわけには…』

『くるりんおねーさん、土日のご予定は?』

『土日なら、午前中は空いてます』

『おっけー!越後屋のおにーちゃん、日曜の11時なら開いてるって!カフェの前に20分前集合ね!凪沙迎えに行くよー!』


 最悪の場合は空き時間を使って虱潰しに越碁を探し回るかと考えた所で、凪沙と連絡先を交換していたことに気づく。

 鶴海の話では、越碁と仲がいいらしい。もしかしたらと思いを込めて連絡を取り合えば、絵文字が山盛りのメッセージと共に越碁へ約束を取り付けたと返信が返ってきた。


 ーー時間割を教えてさえ貰えたら、それでよかったのに…。


 話が大きくなっている。

 くだらない理由で対して仲良くもないのに家に来るなんてと怒られたらどうしよう。

 怯えながらも日々を過ごしていたからか、夜のバイトではオーダーミスをしたり、打ち間違えを起こしたりと散々だった。

 たくさん怒られて、お客さんに嫌味を言われ…。

 落ち込みながらも、罰が当たったのだと思い込むことでどうにか立ち上がる。


 今日は日曜。越碁の真意を確かめる日だ。


 戦う気力をすでに失っている久留里の姿を見た凪沙は「くるりんおねーちゃん寝不足?すっごい隈だよ!」と心配してくれるが、今まで心配してくれる人なんていなかった久留里は人の暖かなぬくもりに触れて泣いてしまいそうだった。

 涙を堪え、「大丈夫だよ」と笑顔を作る。全部久留里が悪いのだ。

 うまく立ち回れなかった。

 お客様に迷惑をかけた。久留里が…。


「越後屋のおにーちゃーん!凪沙が来たよー!」


 とんでもなく大きな純和風の、平屋建て古民家。歴史がありそう。

 お金持ち、と言葉が浮かんでは消えていく。

 インターホンは備え付けられていないのか、ガンガンとドアを叩いて大声を出した凪沙は当然のように玄関の引き戸を引いた。


 鍵は掛かっていないようで、久留里は到底信じられなかった。

 こんな大きなお屋敷なのに、いくら人が住んでいるとはいえ内鍵を掛けないなんて。

 泥棒が侵入し放題ではないかと。

 現に凪沙はまるで自分の家のように慣れた様子で玄関に座り込みパタパタと足を動かしている。


「か、勝手に入っていいのかな…」

「許可なんていらないよ!だって凪沙と越後屋のおにーちゃんとの仲だもん」

「仲、いいんですね…?」

「ご先祖様が越後屋で働いてたんだって~。もう、親戚みたいなもんだよね。お兄と越後屋のおにーちゃんも仲良しだし。凪沙もね、もう一人のおにーちゃんだと思ってるよ!あ、そうだ。安心してね。くるりんおねーちゃん。凪沙、好きな男の子がいるの。同じクラスの男の子!越後屋のおにーちゃんはフリーだよ!たぶん、お付き合いしたこともないんじゃないかな?凪沙、越後屋のおにーちゃんが女の人と仲良くお話をしてる所なんて見たことーー」

「ーーナギ?誰か来てるのか」

「あっ!越後屋のおにーちゃん!」


 人間は、驚くと悲鳴すら飲み込んでしまうらしい。

 腕を組んで現れた越碁は、なぜか和装だった。

 大学ではシンプルなパンツスタイルだった為、驚きでこれでもかと目を見開く。

 着慣れているからなのか、大学で見たときよりも見下されている感覚はない。

 とにかく、和装のインパクトが強すぎて、越碁がどんな顔をしているかすら窺うことを放棄していた。


「あァ…。カモシカ?」

「は、はい。氈鹿です…」

「あのね!凪沙とお兄、くるりんおねーちゃんとお友達になったんだよ!それでね、越後屋のおにーちゃんもお友達になってほしくて、連れてきちゃった!」

「は、蜂谷さん!」

「お友達通り越して彼氏彼女になるのも凪沙とお兄は大歓迎だよっ!男女の仲になるには2人きりでお話をするのが成功の近道!お見合いだってそうだもん!じゃ、凪沙は帰るね~。ごゆっくり!」

「蜂谷さん…!」


 ーーちゃんと事実を言って!大暴投してから「2人でどっかいっちゃった球拾ってきて!」なんてパスされても困るよう…!


 久留里が伸ばした手からするすると逃れた久留里はバイバイと手を振って久留里を玄関に残し去っていった。

 本気で置いていかれてしまったようだ。

 後に残されたのは、状況を飲み込めていない越碁と、どう話を切り出せばいいかわからない久留里だけ。


「…ナギが悪ィ」

「…ち、違うんです!謝るのは私の方で、」

「ナギが無理矢理連れてきたんだろ。ナギもツルも、すぐ勘違いして余計な気ィ回してくんだ。ったく、関係ないやつに迷惑掛けることねェだろ」

「…かっ、関係は、あります!」

「…あァ?」


 思わず声が裏返ってしまったが、久留里が頼み込んでこうして越碁に引き合わせてくれた凪沙の印象が悪くなることは避けなければならない。

 久留里は勇気を出して、越碁に向けて叫ぶように話を切り出した。


「わ、私が。蜂谷さんにお願いしたんです…!その、確かめたいことが、あって」

「…確かめてェことだァ?わざわざ家まで?」

「そ、それは…。私、蜂谷さん…ええと、お兄さんの方…2人で一緒にいる所しか、見たことがないので…。越碁さんだけに、聞きたくて…相談したら、蜂谷さんが…」

「…警戒心がねェ」


 警戒心がないと越碁に言われるのは二度目だ。

 一度目は初めて名前を名乗った時。

 二度目は、今。鶴海は「悪気があって言ってるわけじゃない」と言っていた。つまり、久留里を心配しているのだ。


 たいして仲がいいわけでもない、それも男性の家に来るなんてどうかしていると言いたいのかもしれない。

 久留里は自分に価値がないと思いこんでいるので、何故越碁に難色を示されているのかがわからずに不思議そうな顔をしている。

 意味が通じていないと態度で理解した越碁は、息を吐くと言葉を重ねた。


「あのな。お前は、誘われたらホイホイついていくのか?」

「え、えと。ついてきてくれと言われて…それを断るのは…失礼に当たります、よね…?」

「失礼でもなんでも。行き先がはっきりしねェだろ。安請け合いすんな。襲われたらどうすんだ」

「襲われたり…?しないですよ?私、誰かに加害されるほど可愛くもなければ美しくもありません…。私がお金を支払って懇願したとしても、私のことをどうにかしようなんて男性はいないと思います」

「…はァ」


 またため息。今度は、語尾が上がっている。

 疑問符が付いているようにも聞こえてびくりと肩を震わせるが、越碁は手招きをして久留里に背を向けた。

 ついてこいと言いたいらしい。

 靴を脱いで小さく「お邪魔します」と声を出して廊下を歩く。

 右側の客間と思われる和室に入り、窓を全開にした越碁は「身に危険を感じたら窓から逃げろ」と久留里に真剣な眼差しで伝えてから上座に腰を下ろしたので、久留里もゆっくりと下座に腰を下ろす。


 身に危険を感じたら、とはどういう意味だろうか。


 出入り口の鍵を常に開けているから、頻繁に泥棒が金目の物を盗みにやってくるのかもしれない。

 まさか越碁が手を上げたり、久留里の身体に触れようと考えた際に彼女が逃げる動線をわざわざ確保しているのだとはつゆ知らず。

 久留里はのんきに泥棒が頻繁に出没する家に住んでいたら大変だろうなと考えている。


「女だったら誰でもいい奴もいる」

「そうなんですか…?」

「ニュースでよくあんだろ」

「私、家にテレビがないので…」

「あァ?」

「国営放送の受信料を払わないといけないんですよね?取り立てが来るし、どうせ家には寝に帰ってるだけなんだから、節約しなさいってお母さんが…」

「…変わってんな」

「変わってますか?よく、わかりません…。母子家庭だったからでしょうか。うちにはお金がなくて…お母さんは…」

「…言いたかねェことまで聞き出す気はねェよ」

「…ごめんなさい。隠しているわけでは、ないんです。皆知ってますから。私は貧乏で、どんくさくて、ブスで。友達の一人もいない。母もいなくなって、一人で生活してるーー」

「ペラペラペラ。よく回る口だな、おい」

「は、はい!」


 怒っているわけではないとわかっている。

 鶴海さんの言葉を信じるならば。

 けれど、彼が口を開くたびにどんな鋭い言葉が返ってくるのか。

 恐ろしくて溜まらないのだ。


 皆そう。


 久留里が自分のことを話すと、可哀想なものを見る目をするか、遠回しに仲良くすると貧乏が移るからと言うような話をされる。


「よく知りもしねえやつに個人情報を話すな。今までよく生きてこられたなァ?いちから百まで体験したこと、感じたことを話す必要はねェ。言葉を濁せば物分かりのいいやつは深入りしてこねェよ。興味深そうに聞いてくる奴は敵だと思え。どうせろくなことにならん」

「あ、あの。お、怒って…ますか」

「あァ?」

「だ、だって…蜂谷さんが…羊森さんは怒ると息継ぐ暇なく話し続けると…」

「どっちだ。ナギ?ツル?」

「お兄さんの方です…っ」

「わかんねェな。名字で呼ばれると」

「え、ええと。たいして仲もよくないのに…お名前で呼ぶものなのでしょうか…」

「友達なんだろ。ナギは気にしない」

「は、はい…。じゃあ、妹さんの方を、これからは下の名前でお呼びします…」


 越碁が満足そうに頷く。

 怒っているわけではないようだが、久留里が自身の身内話をしてから越碁の瞳から剣呑な光が薄れてきたのは気のせいだろうか。

 まるで、自分が辛い体験をしたかのように目を細めて、何かを耐えるように拳を握り締めている越碁を見た久留里は、越碁が何に対して拳握り締めたのかが理解できない。

 久留里の境遇に思うことがあるのは間違いないだろうが、今まで久留里にとってはこれが普通だったのだ。

 きっとこれからも。久留里は危険だと越碁が心配するような生き方を続けていく。


「今、一人で生活してるって言ったな」

「は、はい」

「金は?身体売ってねェだろうな」

「昼間はカフェのアルバイトと…夜は居酒屋のバイトで生計を立てています…」

「居酒屋ァ?何時までだ」

「え、えと。終電まで…」

「…今までよく生きてこられたな」


 その言葉も二度目だ。

 今度は疑問形ではなく、絞り出すような声だった。

 まるで面接の質疑応答が永遠に続くかのような時間。

 久留里は「越碁が久留里と友達になりたいと本当に言ったのか」確かめに来たのに、これでは久留里の人生相談だ。

 多少無理してでも、本筋に戻さなければ。


「あ、あの!私、越碁さんに聞きたいことがあって!」

「家。賃貸なら月末で解約しろ」

「へ…!?」

「うちの離れが空いてるから、貸してやる。鍵も掛かるし、昔宿舎として使ってた。水回りは完備されてる。金はいらねェ。好きに使え。一人で暮らすのが不安ならナギを呼ぶ。あいつは実家暮らしだがすぐ近くに住んでいる。何度かうちにもツルと泊まってるし、呼べば断ったりしねェよ」

「離れって…」

「気になるなら案内する。それと、夜のバイトもやめろ。若い女が夜の街一人でふらふら出歩くなんざ危機感がなさすぎる。いいか、今までは運が良かっただけだ。一生消えない傷を負う前に辞めるのが一番いい。何かあってからでは遅いんだ。楽観視してるやつ程後で痛い目を見る」

「私、夜のバイトやめたら生活できません!」

「金なら俺が出す」

「え…っ!?」


 そんな義理も道理もないのに、住む場所も金銭も用意してくれるなんて、そんなうまい話があるだろうか。

 危機感がないと久留里を非難している越碁の方がよっぽど突拍子もないことを言っている。

 詐欺でなかったら、一体なんだと言うのだ。


「あの、親切心にしては、ちょっと…出来すぎた話だと思うんです…。私にはお支払いできるものは身体くらいしかありませんし、奨学金の返済だってあるんです。今のうちから多少無理してでもお金を稼がないと、私。こんなんだから就職できる気もしません…」

「一生面倒見てやるから、部屋を引き払って、夜のバイトもやめてうちに来い。人を疑うこと知らねェんだろ。返事ははいかイエス以外存在しないんじゃねェのかよ」

「あの…私のこと、からかってますか」

「嘘は言わねェ」


 越碁か信じるにたる人物か。久留里は考えようとして、考えることを放棄した。

 久留里のような人間に親身になってくれるような人は、数えるほどしかいない。

 誰も久留里など気にも留めなかった。

 心無い言葉を向けて攻撃する為視界に捉えることはあっても。


 久留里に手を差し伸べてくれる人は、神様だ。


 人間以下の久留里は、差し伸べられた手を無条件で掴む。

 人間以下の久留里を人間として対等に、親切にしてくれる人は、久留里にとっては崇めるべき神様であるから。

 久留里は神様に好かれるため、神様が望む姿になる。


「…私、怖かったんです」

「羊森さんのこと…。私は、父親を…写真でしか見たことなくて…お客さんと店員としてお話をすることはあっても、氈鹿久留里として、若い男性と至近距離で会話するのは、はじめてに等しくて…それで…」

「羊森さんは声が低いから…いつ怒鳴られるんだろう、酷い扱いを受けるんだろうって、怖くてたまらなかった…。酔った若いお客さんって、想像もつかないことをするんです…。私は、店員だから、お金を貰ってるから。我慢しなくちゃって…。だけど…。職場ではなく大学で…氈鹿久留里として、酷いことをされたら、私…。本当に人間以下の存在まで落ちるんだって思ったら…!」


 久留里は怖くて仕方がなかった。

 鶴海の頭に蹴りを入れた越碁が、同じように久留里へと暴力を振るったらと思うと、想像するだけでも震えが止まらない。

 お金が貰えるから我慢できることも、金銭が発生しない場所では、絶対に我慢できないと思った。

 越碁が心配しているリスクも全て頭の中で一度は考えたことではあったが、身体を売るよりはマシだと思って、居酒屋のバイトを選んだのだ。

 少しでもお金が貯まるスピードを早めたかった。

 本当に生活が立ち行かなくなる前に。

 誰かに一生消えない傷をつけられ、人間以下まで落ちる前に。


「だけど全部…私の勘違いだったんですね…。羊森さんは、声が低くて、外見が大人びているだけの、人を思いやれる普通の若者です。私が、私みたいな人間が怖いと縮こまる必要もない…立派な、自立した大人の男性、なんです」

「…俺にはカモシカの痛みはわかんねェ。人の痛みなんざ、経験したものにしかわからねェよ。わかった気になって、受け入れてもらった気になって、依存し合うから、人間は壊れていく」

「それは予言ですか」

「させねェよ。俺が、させねェ」


 久留里はこのまま越碁のありがたい申し出を受け入れることなく自らの道を歩み続ければ、いずれ本当の意味で人間以下の無価値な人間になるだろう。

 久留里も、自覚している。

 今にも脆く崩れ去ってしまいそうな吊り橋の上から、向こう岸に渡ろうとしていることは。


「見返りなんざ気にすんな。俺は、カモシカが生きてさえくれたらそれでいい。カモシカを傷つける奴はーー俺がなんか言やァ黙んだろ」

「…勘違い、されてしまいますよ」

「何が」

「男女の…仲、とか?」

「問題あるのかよ」

「私は、ない…です」

「だろうなァ。付き合ってる奴でもいたら、送り迎えくらいはすんだろ。部屋引き払うまで送り迎えしてやる。シフト教えろよ」

「そ、そんな。週4日も深夜にご迷惑をお掛けするわけには…!」

「行き帰りに襲われる方がよっぽど迷惑。いいから、シフト」

「は、はい…」


 有無を言わさぬ越碁の態度に久留里が折れた。

 お互いフリーで、男女の仲に間違われても構わないと言う場合。

 これは今日からお付き合いしますと言うことになるのだろうか?異性交際に詳しくない久留里は頭の中ではてなマークを浮かべながら、越碁に促されるまま手帳片手に居酒屋バイトのシフトを教えるのだった。


「久留里ちゃん、引っ越すんだって?しかも、彼氏と一つ屋根の下とか」


 越碁に促されるまま母親と2人暮らしの時から契約していた住居の解約手続きを行い、月末で居酒屋のバイトを辞めることになったと勇気を出して告げる。

 無事に引っ越しの準備が進み始めた頃、昼間のバイトでお世話になっているマスターが久留里に問いかけてきた。

 どうやら凪沙から、久留里が知り合いの家に引っ越す話が出ていることを聞いていたらしい。

 久留里はどう説明すればいいのかわからず、ひとまず「ひとつ屋根の下ではありません」と後者の部分を否定することにした。


「彼氏がいる事と引っ越す事は否定しないんだね。でも、よかったよ。一人暮らしで夜遅くまでなんて…危ないから。凪沙ちゃんの知り合いなら、信頼できる相手なんだろう?」

「信頼…きっと、そうなると思います」

「信頼していないの?」

「私、お付き合いしているわけでは…ないので…」

「ええ、そうなの?なら、どうしてまた…?」

「さあ…。羊森さんが、お人好しなだけかと…」


 越碁と久留里の関係は、これから衣食住と金銭を提供して貰う人と提供する人だ。

 しかも、見返り無しで。久留里は羊森家の居候になる。

 それでは久留里は申し訳ないのでで、掃除洗濯など仕事になることを任せてくれないかと懇願すれば、久留里に仕事が与えられた。

 母屋に隣接する「和菓子越後屋」での接客業務ーーつまり、アルバイトである。

 金銭はアルバイトの給金として支払われることになった。

 和菓子越後屋から母屋は地続きで、離れは私有地にある。

 よほどの不届き者が現れない限りは安全であるため、閉店までのアルバイト許可も降りているのが嬉しかった。

 居酒屋バイトを辞めてもアルバイトができる環境を用意してくれた越碁には感謝しかない。

 本人と蜂谷兄妹は今までがんばった分ゆっくりしてればとあまり乗り気ではないようだったがー


「今度彼氏さんも連れておいで。ご挨拶しないと」

「彼氏ではなく…居候先の…。わ、わかりました。伝えておきます」


 越碁と暮らすようになってーー厳密に言えば、羊森家の敷地内で暮らすようになりーー久留里の環境は変化した。

 今まではバイトに明け暮れ自宅には寝に帰るだけだったが、久留里は越碁と共に食事を取るようになったのだ。

 大学を終えると自宅に戻り、「和菓子越後屋」の制服に着替えて店に立つ。

 夕飯は越碁の担当であるらしく、久留里の休憩時間になると2食分の夕飯を持って和菓子越後屋に顔を出すのだ。


「あらあら、よほど久留里ちゃんのことが気になるみたいね」


 越碁の母親はおっとりとした性格で、息子が久留里の世話をする姿を見ては楽しそうに笑っている。

 越碁は父似であるらしく、厨房では真剣な眼差しで越碁よく似た容姿の父親が他の職人たちと新作の和菓子について意見交換会を行っていた。


「どうだ、馴れたか」

「は、はい…」

「敬語」

「あ。そうで…そうだった。居酒屋はスピードと体力勝負で…一度にたくさんの料理を運べるか競ってたくらいだけど…越後屋さんは、お客さんに寄り添って、丁寧に接客とお菓子を提供するから…私には、越後屋さんの方が合ってる気がする」

「母も褒めてたな」

「羊森さんのお母さん、褒め上手ですよね。それに、周りをよく見てる。お客さんの表情とか、来店した瞬間にどのお菓子を購入するかわかってるみたいで…注文される前からお菓子を用意してて…すごいなあ」

「敬語。2回目だぞ」

「ご、ごめんなさい…。私、本当になにもできなくて…いいのかな。越碁さんに好きな人とかできた時とか…困るよね。私みたいなお荷物がいたら…」

「ルリ」


 越碁と久留里は名前で呼び合うようになったが、2人が彼氏彼女として正式に、お付き合いをした事実はない。

 少なくとも久留里はそう認識している。

 越碁と食事を共にするようになって気づいたことだが、越碁は人の名前を呼ぶ時、身内以外の人間に対してはニックネームをつけているらしい。

 蜂谷兄妹はツルとナギ。

 久留里はルリと呼ばれるようになった。全員2文字なのは本人曰く「呼びやすいから」であるらしい。

 どうしても久留里と呼んでほしいわけではないため、久留里も越碁がルリと呼ぶのを受け入れている。


「自分を卑下するな。好きなやつは………」

「越碁さんの好きな人は?」

「…………目の前に、いる」

「そう、なんだ…」


 ーー越碁さん、付き合ってる人はいないけど好きな人はいるんだ。


 今、目の前にいるのは久留里だけなので、言葉通りに受け取れば越碁の好きな人は久留里に他ならないのだが…。

 久留里の根底には「私を好きになる人が現れるわけがない」と屈折した思いが渦巻いている。

 つまり、直接的な言葉でなければ久留里は自分に言われているわけではないと勝手に脳が解釈してしまうのだ。

 直接的な言葉を言われたって、自分が必要とされるわけがないと理由をつけて信じようとしないだろう。


 ーー今の久留里にとって越碁は中央に泉が1つあるだけの砂漠に降り立った神様だ。


 神様は人間以下の久留里には笑いかけず、好意を抱くことはない。

 住む世界が違うから。

 そしてまた久留里も。

 神様に好意を抱くことは、大罪だと。

 自分で自分を縛り付けているのだ。


 越碁はどんなに長い時間を掛けても構わないから、久留里が自身に巻き付けた鎖を一つ一つ引きちぎり、久留里が人間としての幸せを掴み取るまで見守りたいと考えている。

 こうして無理矢理言うことを聞かせるような形で自身の懐に引き摺り込んだのだ。


 久留里の幸せを願ってこそ。


 初めて久留里を目にして、見てみぬふりをしたせいで久留里が苦しんでいることを知った時から。

 越碁は最後まで責任を取るつもりだった。

 それを知る由もない久留里は、「親切な人だなあ」「親切にされた分だけ、捨てられないように返さなくちゃ」と間違った方向へと努力するようになる。


「凪沙ちゃん。越碁さんの好きなものって…何かあるかな…?」

「越後屋のおにーちゃん?好きなものかあ…くるりんおねーちゃんだよね?」

「…ええと、それはないと思うけど…」

「どうして?お付き合いしてるのに!」

「お付き合いしてはしてないよ。越碁さんは…私を可哀想に思って、面倒を見てくれただけで…。そこに、恋愛感情は…」

「ええっ?それ、お兄に言った!?」

「蜂谷さん?伝えてない…けど…」

「凪沙、お兄呼んでくる!」


 凪沙ともすっかり仲良くなった久留里は、蜂谷家に越後屋の和菓子を持参し顔を出していた。

 今日は凪沙の部屋で女子会を予定していたのだが、鶴海も在宅しているらしく、ドタバタと音を立てて凪沙は自身の部屋に鶴海を引っ張ってきた。


「お、お邪魔してます…」

「いらっしゃい。シカちゃんも頑固と言うか鈍感だねえ~。越碁はかなりわかりやすいと思うけど…」

「付き合いが長いとね~。すぐわかっちゃう。越後屋のおにーちゃん、態度に出るもん。くるりんおねーちゃんよりは酷くないけどね」

「越碁さんのような素晴らしい方が、私を好きになるなんて…想像するだけでもおこがましいことです」

「ありえない、なんて越碁に言ったら血の雨が降るね」

「越後屋のおにーちゃんが荒れたら、止めるのはお兄の仕事だよね。がんば~」

「他人事だと思って…。越碁の好きなものを知りたいんだって?」

「は、はい。お世話になっているので…」

「凪沙、ないって言ったけど信じてくれないの!」

「そーだねえ、越碁に趣味らしい趣味はないし、いろんなことに無頓着だからな…」

「あああ!お兄、それだよ!」

「どれ?」

「無頓着!つまり、着物だよ!越後屋のおにーちゃん、着たきり雀だから!久瀬屋さんに着物を見に行こうってくるりんおねーちゃんにお願いしてもらうの!」

「二人の仲が一気に縮まる呉服屋デートかあ…」

「ペアのお着物用意して花火大会デートも予約しちゃえば、大人の階段を一段目から一気に駆け上がれるよ!目指せ、玉の輿!」

「和風シンデレラストーリーか…オレたちは魔法使いって所かな。うん、悪くないねえ。頑張れ。かぼちゃの馬車は目の前にあるよ~」

「王子様と舞踏会へれっつごー!」

「?」


 蜂谷兄妹は一体何の話をしているのだ。久留里は越碁に恩返しをするためアドバイスを貰いに来たのだが、越碁と久留里の着物を新調して8月の花火大会でデートする話になっている。


「越碁の誕生日は8月25日だから、プレゼントは私、って越碁を揺さぶるのも悪くないかもねえ~」

「あっ!お兄!色仕掛は越後屋のおにーちゃんタブーだよ!越後屋のおにーちゃん潔癖だから~、凪沙がワンピース1枚でうろちょろしてるだけでも文句言うんだよ!」

「エロ本とか破り捨てるもんなあ」


 知らなくてもいい情報を仕入れて、これからどう立ち回っていけばいいのかわからなくなってしまった。


 一旦、蜂谷兄妹のアドバイスは忘れよう。


 凪沙が言っていた「越後屋のおにーちゃんは色仕掛禁止」ーー確かに、これは久留里も感じていたことだ。

 身体を売って金銭を稼ぐことに関して、越碁は嫌悪感を抱いている。

 久留里が「今までお世話になった分だけ私の身体を好きにしていいんだよ」なんて言おうものなら、出ていけと叩き出されそうだ。


 久留里には身体以外越碁に支払えるものがない。


 越碁に捨てられないようにするため、久留里はどうするべきなのだろうーー


 *


「シカちゃんはさー、芋臭いよね」

「イモ…?」

「垢抜けてないってこと。パパっと染めてメイクちゃんとして服装変化すればだいぶ変わると思うけど…劇的に変化すると越碁が嫌がるからなぁ~」

「…あ、そう言えば…凪沙ちゃんは黒髪だけど…。蜂谷さんは、明るい髪色ですよね…?えと、どうして染めたんですか?」

「ん?ほら、俺もめちゃくちゃ地味だったからさー。越碁と並ぶと、恐喝された人みたいな扱いなの。越碁への偏見助長してるし、俺も好きな人できたからさ。その人に見てほしくて、ピアス開けて髪染めたわけよ」

「そうなんですか…」

「越後屋のバイト代、貯めてるでしょ?自分の為に使ってみない?」


 鶴海に提案され、久留里は自身の財布と相談しながら身だしなみを整えることにした。


 自分でカットしていた髪を凪沙おすすめの美容院でセットして貰い、「シカちゃんはフェミニンな洋服が似合うと思う」とアドバイスに従い、セール品の派手な柄物などの購入を控える。

 化粧はプチプラコスメのままではあるが、1人ならば絶対に足を運ばないデパートの地下に出店している化粧品取扱店へ趣き、美容部員からのアドバイスを受けて自分に似合う化粧を研究。

 蜂谷兄妹から「だいぶまともになった」と太鼓判を押して貰えば、嫌でも自分に自信がつく。


「氈鹿さん、おはよー」

「あっ、お、おはよう…ございます…」


 最近、綺麗になったねと同級生に声をかけられた。

 久留里と同学科の中心人物であったらしい少女が久留里に挨拶するようになると、周りの人達もすれ違うたびに挨拶されるようになったのだ。

 相手が誰かわからないが、ひとまず挨拶を返すと、無視されることはなくなった。


 ーー今までは、いてもいなくてもどうでもいい存在だったのに。


 久留里はいつの間にか、いてもいなくてもいい存在から、存在してもいい存在として認識されるようになった。

 容姿を変化させるだけでこんなに変わるんだ、と驚いた久留里は、おどおどとしている態度を段々と変化させ、学校内で一緒に行動する友人を作ることにも成功し、学校へ通ったら何をしよう?と考えるようになった。


「あのね、越碁さん。越碁さんは…どんな私が好き?」

「なんでもいい」

「よ、洋服の系統とか!髪型とかだよ!?な、なんでもいいの!?」

「何着たってルリだろ」

「それは、そう、だけど…。今まで私、すっごくダサかったみたいだから…越碁さんにふさわしい女の子になろうって考えたら、おしゃれとか、楽しくなったよ。自分が似合う洋服がわかると、少ないお金でも、気を使えば、お友達も、できて…全部、越碁さんのお陰」

「自分の頑張りを俺のお陰、なんて勘違いするようじゃまだまだな」

「か、勘違いじゃないよ!ほんとにほんとに、そう思っているんだよ!?」

「俺のことばかり気にしてねェで、自分の好きに生きろ」

「でも…。私、知らない男の人に声をかけられるより…越碁さんにかわいいねって、言ってもらいたいよ」


 何を着ても、どんな髪型をしても久留里は久留里だ。何もしなくたって越碁は一向に構わないのだが、それでは久留里の気が済まない。

 越碁から褒めてもらいたい、と思いを聞いた越碁は、懐から金色の簪を取り出した。


「花火大会の日」

「ひゃ、ひゃい」

「これ使って髪纏めとけ」

「…かんざし?」

「俺が作った」

「ええっ!?」


 金色のねりきりに見立てた薔薇と葉がつけられたかんざしは、久留里の為に越碁が作ったものだ。

 久留里は精巧に作られた薔薇の花を見つめて、「私に似合うかな…」と不安になりながら恐る恐る越碁へ問いかけた。


「も、貰って…いいの?」

「当たり前だろ。ルリの為に作ったんだ。使って貰えなければ作った意味がねェ。気に食わないなら捨ててくれ」

「す、捨てるなんて!そんなことしないよ…!た、大切にするね。ありがとう。本当に、私…越碁さんに貰ってばっかりで…」

「気にすんな」

「でも。私、少しでもこのかんざしが似合うような、いい女に…頑張るね…!」


 久留里のイメージよりもかなり上品な簪を受け取った久留里は、成熟した大人の女性に見られるような大人のメイクを研究しなきゃと躍起になっている。

 肩の力を抜いた越碁は、気合を入れる久留里の姿を暖かく見守るのだった。


 *


「ルリはこの生活を守りたいから俺に好かれる努力してんのか。それとも、俺に好かれたいから…行動してるのかを5秒以内に答えろ」

「ご、ごびょういない!?」


 数ヶ月後。

 花火大会を終えた久留里が越碁に言われた言葉を一言一句違えず守り、越碁の好みに合わせようと気を使って生活していれば、離れにやってきた彼は久留里に究極の2択を迫る。

 和装姿で腕を組み柱に背中を預ける越碁は様になりすぎていて、あわあわと慌てながらも久留里はその姿に釘付けだ。


「かっこいい…」

「答えになってねェ。やり直し」

「えええ!?そんなのズルいよ!」

「ズルくねェだろ。ズルいのはどっちだ」

「だ、だって」

「答えたくねェの」

「あのね、考えなくちゃいけないのはわかっているけどーーその、見覚えのない着物が…越碁さんの一部みたいで…かっこよすぎて、答えが思い浮かばないんです…っ!」

「あァ?」


 最近わかったことだが、越碁は聞き返す時に「あァ?」と問いかける癖があるようだ。

 眉をひそめて睨みつけて来る為、初対面の時はガン飛ばされているのかとビビッていたが、確かにこれは付き合いが長くなくてはわからない。

 越碁の些細な変化なのだろう。


 居候とその家主である久留里と越碁の関係は、いつか越碁に好きな人ができたら、簡単に壊れてしまう関係だ。

 けれど、久留里が一人の人間として、越碁のことが好きだと伝えることができたのなら。

 越碁が同じ気持ちならばーー越碁と久留里は晴れて恋人同士だ。


 その愛が永遠に続く限り。

 二人の仲を引き裂けるものなど、死神以外はありえない。


「惚れ直したか」

「え、えっと…ね。私、人間を好きって気持ちを抱いたことがなくて…」

「俺のこれがかっこいいんだろ?」

「うん」

「惚れてんじゃねェか」

「そう…なのかな?」

「他の男、かっこいいなんて言うんじゃねェぞ。俺のもんだ。それから、これからはちゃんと聞かれたら「彼氏が居る」って言え。「違います」って否定されんのが一番傷つく」

「で、でも。越碁さんは私のこと…」

「決まってんだろ」

「え、ええと。何も決まってないと…」

「好きでもねェやつの人生に口出しするほど、お人好しじゃねェよ」

「……越碁さんは、私なんかのことが好き、なの?」

「なんか、じゃねェ。久留里だから、好きだ」


 越碁は久留里が思い詰めた表情で居酒屋のバイトに勤しんでいるのを見たことがあったらしい。

 何度か、バックヤードを覗いて久留里の様子を遠くから見ていたようだ。越碁は久留里が忘れ物をした日。至近距離で目を合わせて、久留里の瞳に光が宿っていないことに気づく。

 自分が見てみぬふりをしていたせいで、状況を悪化させたことを知り、久留里の環境を百八十度変化させるべく行動に移した。つまり、越碁は初対面の時からーー久留里に好意を抱いていた事になる。


 久留里は誰にも必要とされていない。

 陰口を言われる為だけに生きてきた。

 悪意を持った人々の視界に映り込む亡霊のような女だと自覚していたのにーー久留里が一生懸命働き、生きる姿をその瞳に映し出す人は、こんなにも近くに存在していた。


「ルリは?」

「私、」


 ーーこの人を逃したら、私は一生一人。

 ーーこの人を亡くしたら、私は生きていけない。

 ーー私は、人間から愛を受けるようなできた人間ではない。人間以下の、存在だから。

 だけど。この人となら。私を影からそっと見守って、私を守りたいと手を差し伸べてくれた彼ならばーー


「…私…。人間として、氈鹿久留里として、生きていても…いいのかな…?」

「当然。文句なんざ言わせねェ。ルリは最初から人間だ」

「返事は?」

「ーーーーー許されるのなら」


 神よ、どうか。人間以下の人間が、異性に愛を抱くことをお許しください。


「越碁さんが、いいです。越碁さんしか、いないから…私には、もう…!私、越碁さんに捨てられたら…何もなくなってしまう…。今度こそ、頑張れないの…。だから、私。越碁さんのことーー」

「好き」


 大好きなの。越碁さんのことが。


 認めたら離れられなくなるからと誤魔化していた感情を解放した久留里は、泣きじゃくりながら何度も好きだと越碁に向けて呟いた。

 越碁はそれに答えるように、久留里の前に跪き、手をとって人差し指にキスを送る。


「結婚しよう」


 越碁のために久留里ができることは何もない。

 それは久留里が勝手に思っているだけで、越碁は久留里が苦労することなく穏やかな日常を歩む姿を間近で見ることさえできれば、久留里が越碁の為に特別なことをせずとも構わなかった。


 久留里が自分にかけた人間以下であるという暗示から完全に抜け出るまでは、長い時間が掛かる。

 越碁は久留里の成長を穏やかに、緩やかに見守りながら。

 時には手助けをして生きていく。


「ーールリ」


 死がふたりを分かつまで。

 偏見に惑わされることなく。

 2人の本当を見つけていこうーー

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