ブラック職場から立つ跡をできるだけ汚してくメイド
人生を変える事とは、なんと不自由なのだろうか。
生まれながらに定められた生き場所から抜け出すには相応の苦労を強いられ、それが女の身であるならばなおさらである。
私の実家は、お世辞にも裕福とは言えなかった。
姉が一人、弟と妹が一人ずつ。貧乏農家で四人の子供を養うのは至難で、姉は早くに嫁に出された。それでも生活は苦しく、幼い弟と妹を養うため、私は奉公に出た。
年に一度、大きな町では雇用市が開かれる。生活を変えようと故郷から飛び出してきた田舎者は、決して間違えずその日に最寄りの町へと向かうのである。秋の収穫を天使に感謝する豊穣の祝日がその日だ。乗合の馬車は高くて利用できなかったため、村に訪れた商人に頭を下げて馬車に同乗させてもらった。半年に一度、必ず同じ時期に村に訪れる顔馴染みの青年である。あるいは乗合よりも安全だろう。
町についても、商人は謝礼を受け取らなかった。せめてものお礼にと差し出した貨幣は押し戻され、懐に入れて固く紐を縛るようにと忠告される。今思えば、これは驚くほどに親切な助言だった。これがなければ、私は仕事を見つけるどころではなかっただろう。
私がついた頃には、すでに多くの人々で賑わっていた。
文字の読めない人間は、自らの格好によってどのような職を希望しているのかを表す。牧羊杖を持った羊飼い、編んだ藁を身につけた屋根拭き、鞭を帽子に差した荷車屋などが多く見受けられた。その中でも、モップを持った女性は多い。彼女たちは家事使用人を希望しており、雇用市がモップ市と呼ばれる理由となっている。
女の身では、そう多くの選択肢は望めない。学があるのならば資産家の子女の家庭教師になる事もできるが、雇用市にいる人間は全て労働階級の人間である。
私は、家にあった古いモップを持って道端に立った。雇用を希望する資産家の目に留まるためにできるだけ背筋を伸ばして主張したが、どうにも私を見る事もしていないようだった。この時、送ってくれた商人が受け取らなかった貨幣が役に立つ。
労働者の服は、原則自費である。農作業で擦り切れ、土の付いたスモックを着ているままに立てば、その服で家事をするつもりであるという意味となってしまう。土で汚れた田舎娘に対して、お金持ちは大した関心を示さないのだ。なので、労働者としての服を用意しなくてはならない。幸い、雇用市を目的とした服屋には事欠かなかった。
使用人の服装として相応しいとされているのは、派手ではない色のエプロンドレスだ。当然装飾も地味なものであり、過度に小綺麗である事も望ましくない。主人の服よりも、明確に劣る格好をしなければならないためである。私はその塩梅が分からなかったので、店主に一任した。ぶっきらぼうな髭面の店主が選んだ店で一番見窄らしいエプロンは、ちょうど私の所持金のほとんどだった。
そうして、ようやく雇用先が決まった。町についてから、実に三つ目の鐘が鳴るほどの時間が経った後の事である。
私を雇ったノースブルック様は、特別に裕福な家庭ではなかった。
旦那様と奥様、お子様は御息女と御子息がお一人ずつ。売れない役者の御夫婦で、同じ劇団という縁で結ばれたのだという。
家には、私以外に使用人はいない。複数人の使用人を雇うだけの経済的余裕はないのだ。しかし、紳士淑女たるもの使用人の一人や二人養うものである。そうして雇われた一人だけに、家事のほとんどが任せられる。
メイド・オブ・オールワーク。
この国にいる全ての使用人の中で、実に三分の二を締める役職である。あるいは家族の一員のように大切に扱われる事もあるらしいが、私に限って言えばそうではなかった。
「ねぇ、埃が残っているわよ」
「……申し訳ありません、ただいま」
「今朝の新聞は冷たい。アイロンをかけていないな?」
「はい、ただいま」
料理や掃除、洗濯に至るまで、この家の労働で私が行わないものはほとんどない。しかし、私に与えられた権限は非常に低く、家の中は触れてはならない物で溢れていた。例えば絵画。例えば照明。特に、奥様の宝石箱は視線を向けるだけでも見咎められる。使用人は分別のない愚か者であり、価値のある物を正しく扱う事などできないだろうと思われたからだ。
馬車馬のように働き、二束三文の収入を得て、苛立ちの孕む目を向けられる。実家への仕送りも必要で、私が生きるために使えるお金は子供の小遣いほどもない。そもそも、家事使用人の給金は非常に低く、それだけで生きるには無理があるほどだった。住み込みであれば家賃が必要なく、食費も主人持ち。時にはお客人からチップが与えられるという、“役得”があってようやく成り立つような職業なのだ。
夜は主人よりも早く眠る事は許されず、朝は主人よりも遅く起きる事は許されない。また、貴族社会に憧れた中流階級にありがちな“かぶれ”も深刻だった。使用人は主人の前でほとんど口を聞いてはならず、掃除は主人のいない間に済ませなくてはならない。住む場所も完全に分けられ、地下の道具部屋だった部屋をそのままあてがわれている。
あまりにも忙しいため、昼食はとる時間がない。だというのに、主人の前でお腹でも鳴ろうものなら、場所に関わらず折檻を受けた。これ見よがしに貧しく振る舞う事は恥ずべき行為であるためだ。
旦那様はとても気分屋でいらっしゃるので、常に顔色を窺う必要があった。美しい絵画や壺を買われた後は大抵マシだが、それが贋作であった時には奥様ですら手に負えない。そんな時に受ける折檻は、当日の仕事に差し障るほどに痛めつけられるのだった。
多くの仕事を行う私の手は常には赤切れが付き纏っていたが、それを見せる事は許されない。ご主人や客人の前に出る際、醜さを露出する事はあってはならないのだ。しかし、手袋すら支給される事はない。自ら編んで用意し、ほんの少しも汚れていてはならなかった。
床を這うようにしての掃除は連日休む事なく、膝が赤く腫れ上がる事も珍しくはない。これは掃除を行うハウスメイドや祈りを捧げる聖職者にありがちな症状だが、私の場合は代わりがいないのでどれほど酷くとも休む余裕はなかった。厚手のタイツに、汚れて使わなくなったクッションの綿を縫い合わせて膝を厚手にする事でようやく生活できる程である。
礼など言われた事がない。
チップなど、たまに来るお客にもらう程度である。およそ人として暮らす最低を這う様にしてようやく生かされているに過ぎない。旦那様が絵画を買うお金があろうと、奥様が収入の一部を隠そうと、お二人が私にチップをくれた事は一度もなかった。それでも続けられるのは、ひとえに家族の存在が理由である。私の働いたお金で幼い弟と妹が暮らしていると思えば、どんな辛い事でも耐えられた。
だから、私は、辛うじて人間でいられる。
そんな生活が、なんと五年も続いた。
家からほとんど出られない私には人脈がなく、職場を移すという選択肢が取れない。恐らく、わかっていてしているのだろう。こき使う馬車馬が逃げない様に、家の中に閉じ込めているのだ。
私が玄関を掃除している時である。短く、数回、ノックの音がした。
来客の対応は、使用人である私の仕事だ。例え、今この場に主人がいたとしても、私が対応して主人に報告を上げなくてはならない。しかし、今は掃除の最中であった。埃を纏った作業着で着飾り、掃除用具の入ったバケットを小脇に抱えている。およそ、客人を迎えられるような格好ではない。
こんな時、いつも私は窮地に立たされた。客人を迎えようとも、迎えずとも、必ず主人の怒りを買うからだ。
しかし、五年も経てば要領もよくなる。素早く埃まみれのスモックを脱ぎ、バケットと一緒に持ち運んでいるエプロンを纏った。メイド装束の下地となる簡素なワンピースの上からスモックを被っており、いざという時に脱いでしまえば早着替えができるよう工夫している。この手際は、辛く苦しい仕事の中で、数少ない得られたもののうちの一つだった。
脱いだスモックはバケットに被せ、目立たない位置に音を立てないように置く。汚れた道具をお客に見せないための気遣いである。
「はい、ただいま」
再びのノックに、返事をする。私がこの家で一番話した言葉は、間違いなく『ただいま』になるだろう。
扉を開けると、そこには小柄な青年が立っていた。いや、あるいは少年。およそ、主人の友好範囲にいる年齢には見えなかった。
「なんの御用でしょう?」
伏し目がちに目を泳がせる少年は、一向に要件を言う様子がない。話すかと口を開けば、すぐにまた口を閉じてしまう。そんな調子を何度か続け、ようやく一言だけ発した。
「……姉さん」
「……っ!」
一言で充分だった。名乗る必要などなかった。
五年という年月によって一眼には気が付かなかったものの、それでも確かであると信じられる。
弟だ。故郷に残した兄弟姉妹のうちの一人だ。愛すが故に離れ、愛すが故に会えなかった弟だ。
「な、なんでこんなところに……!?」
言いつつ、私は家の中に目をやった。
家事使用人が声を荒げるなどあってはならない事だからだ。もしも見咎められれば、まず間違いなく折檻を受ける。
「とりあえず来て」
弟の腕を引き、家の中へ。
使用人が使うような部屋に、主人が訪れる事はない。その場所は主人の目に止まるべきものでなく、使用人と主人との“別”を明確にする隔たりがあるのだ。例え自らの家であろうと、紳士たる者の立ち入るべきでない場所が存在する。天と地にも匹敵する明確な区別こそが、この格差社会を形成する秩序であった。
「それで、どうしてこんなところに?」
小汚い厨房脇の一室が、私にあてがわれた部屋だ。臭いもきつく、空気もベタつくこの場所は、主人の入らない使用人の領域として最たるものである。
「来るなら手紙を寄越してくれなきゃ困るわ。私にはお休みがないし、こうして話をするだけでも今日の仕事が滞ってしまう」
「手紙なんて出せるわけないよ! 宛名が分からないんだから」
「? そんなもの、私の手紙を見ればいいじゃない」
「姉さんの手紙……?」
おかしいと、ようやく思った。話が噛み合わない。互いに意味を理解していない。
「私は手紙を出してたでしょう? 少なくとも月に一度は書いていたわ」
「そんなはずないよ! 姉さんから便りがなかったから、探すのに五年もかかったんだ」
「え……?」
意味が、分からなかった。事実、私は手紙を書いていたのだ。変わり映えしない毎日から何か話す事を探して、そちらはどうかと問い掛けて。
「手紙が……届いてない……」
便りがないはずないではないか。
だとすれば……私の手紙は……
「姉さん……?」
「じゃあ、お金は……?」
「……お金も送られてきてないよ。仕送りも手紙も来ないもんだから、僕は姉さんを探してたんだから」
気が遠くなった。
私が頑張れたのは、家族がいたからだ。か細くとも、私と家族にはまだ繋がりがあるのだと思っていたからだ。私の努力が、遠く離れた家族を支えているのだと信じていたからだ。
私のか細い心の支えは、幻想だった。足元がフッと消え、何もない場所をゆっくりと落ちていく感覚がした。
「姉さん!」
弟に呼ばれ、ようやく顔を上げる事ができた。しかし、その代わりに膝をつく。自分は立っている事もままならない程に疲れているのだと、気が付いてしまったのだ。
「お、大声を出さないで……旦那様に聞こえ、たら、大変だわ……」
きっと、瞳孔が開いている。瞬きもしていない。
口が乾く。手が震えている。
私は、もう私ではいられない。私でいられたか細い支えが、プツンと高い音を鳴らして切れてしまったのだ。
泣いていないのが不思議だった。膝を屈していないのも、明らかに不自然だった。もっとわんわん泣いてしまうべきところだ。子供のように、獣のように。私は、謀られていたのだから。
「仕事をしないと……」
後から思えば、錯乱していたのだと思う。右手で左手を握り、仕切りにさすった。薄手の手袋に隠されている荒れた肌が、この家にいた五年間の象徴である。私が手に入れたものなど、赤切れと疲労、そしてこの徒労感のみなのだ。
「姉さん」
弟を見る。頼もしく育った弟。私の知らない弟。愛しい弟。
きっと、家族は皆んな同じように変わっているのだろう。妹は綺麗に育ったかもしれない。姉には子供ができたかもしれない。父と母は年老いて、私の助けが必要かもしれない。
そう思えば、私はまだ大人の女性でいられた。子供でも獣でもない、一人前の人間だ。
「僕は味方だよ」
「ええ……ええ、分かってるわ」
自分よりずっと年下だが、その言葉はどんな騎士よりも力強く思えた。
「私に考えがあるわ」
落ち着くと、途端に怒りが込み上げる。先ほどまでの震えが嘘のようだと感じる一方、また別の震えが抑えられなくなっていた。
踏み躙られた人間の恐ろしさを、彼らは知らないのだろう。きっと、人を踏む事など何とも思っていないのだろう。
だからきっと、分からない。自分が貶められる理由など、全く何も。
弟の協力、私の働き、この家に仕えた日々。全てを合わせたのなら、私は充分な幸せを得る事ができる。この五年は返らなかったとしても、この劣悪な環境からは考えられないほどに望ましい条件での退職が可能だろう。
死ぬか、あるいは退職金も紹介状もなしに放り出されるような、悪質な嫌がらせを受けるに違いない。何よりも、ノースブルック家の人間は、それほどの守銭奴である。
だから……だからだ。だから、たった一つの過ちもなく……
「なんだこれはッ!!」
過ちもなく……間違いもなく……
「貴様! 長く世話を見てやった恩を仇で返しおって!!」
その日、旦那様は寝室から飛び出すなり私を怒鳴りつけた。
旦那様の手には、牛皮で仕立てられた紙幣入れが握られている。起きている間はほとんど手放さない、旦那様の財布である。
「この中身が失われている! 貴様、抜きおったな!!」
「め、滅相もございません!」
使用人の窃盗は、実のところ珍しいものではなかった。使用人は分別の分からない愚か者であるという偏見は、一概に誤りであるとは言えないのだ。その実態は劣悪な労働環境によるところも大きかったが、それが減刑につながる事はない。絞首刑に処された使用人すらいるほどである。
旦那様が、私の仕業であると考えるのも無理からぬ事だ。家の中にいる唯一の赤の他人など、怪しくないはずがないのだから。
「言い逃れは身のためにならんぞ!」
「私は、そんな……!」
旦那様の言う通り、言い逃れる事は困難だろう。やっていない事の証明など、そうそうできるわけがないのだから。そして、私には無罪の証明が不可能である理由があった。それは決定的であり、絶対的であり、なにより確実な根拠である。
そもそも、盗んだのは私なのだ。
「貴様以外に誰がいる!」
騒いでいると、次第に奥様やお子様たちが集まってくる。
怒り、蔑み、そんな視線が集まり、私の体を突き刺す。汚い物でも見るように。この世に存在してはいけないように。
無罪の根拠など、提示できない。それが覆らない限り、疑いが晴れる事はないのだという意志を感じる。そして、それはつまり“決して”と言い換える事すらできる絶対だ。
“決して信用しない”、“決して許さない”という意志。そんな、非難の目だ。
しかし、私から疑いを逸らす手はある。無実の証明など必要なく、この事件自体を有耶無耶にする訳でもない。
「奥様です!!」
他者を差し出すという、ごく簡単な方法である。
「はぁ!? 何を言っているの??」
「貴様、私の家族を侮辱するつもりか!!」
「しょ、証拠があります! 私、見ました!」
恐ろしかった。鼻がツンとして、涙のにおいがした。しかしそれでも、その恐ろしさに屈するわけにはいかないのだ。私が未だに人間であるという証明は、今この場においてのみ可能なのだから。
「貴様の言葉など信用できるか!」
「調べていただいても構いません! 私はお金なんて持っていません!」
強気な私の言葉に、旦那様はなおの事腹を立てた。
「ならば調べてやろう! 猫の髭すら隠す余地のないほどにな!」
その言葉に、嘘はなかった。
部屋をそのままひっくり返したように、私の部屋は旦那様に蹂躙される。中にある物は一つ残らず引っ張り出され、あまりにも乱暴に扱われるために大切な物がいくつも壊れた。道端で摘んだ花は散らされてしまい、数少ない代えの服は踏み付けにされてしまう。
もし一枚でも紙幣が見つかれば、それが初めから私のものであっても罪を着せられるだろう。この理不尽極まりない捜索の目的は、私を糾弾する事なのだから。
だが、そんな物は決して見つからない。
私は、紙幣など所持していないのである。安給料で馬車馬のように扱われ、その二束三文から自らの生活費を出さなくてはならない。そんな生活状況では、紙幣を所持するどころか見る事すら稀である。その上、盗んだ紙幣は決して見つからないようにしてしまった。見つかるはずがない。そんな事、あろうはずがない。
「そのお財布は違うの?」
「違う。中には数枚の硬貨しかない。盗まれた分には全く足りん」
「使ってしまったのではなくて?」
「この部屋にそんな高価な物はない。どれも薄汚れている使い古されたガラクタだ」
「確かに、この部屋の臭いったらないわ」
探しながらもかけられる侮辱に、私は耐えなければならなかった。
使用人の部屋になど、主人が訪れる事はない。そこは薄汚く、臭いもきつく、暗く、湿っていて、家の中でも奥の奥に位置するような場所だからだ。だから、旦那様達は私がこのような環境で生活している事を知らなかった。そして、知ったからといってそれを気に掛けるほど優しくもなかった。
分かっていたはずだ、そんな事は。
なのに、苦しくて仕方がない。旦那様が何かを話すたびに、胸の奥が苦しくなって涙が溢れた。自らがあまりにも惨めで、哀れで、膝が崩れていないのは正直奇跡的だと思わざるを得ない。それほどに、私は傷ついているのだ。
「……旦那様」
その一言に、これでもかという気力を使った。
しかし、次の言葉は、意外とすんなり言える。
「お分かりいただけましたら、是非に奥様をお調べください」
夫婦は顔を見合わせて、一つ舌打ちをする。
「我が妻が盗人の真似事をしたと言うのなら、財布の中身は一体どこに隠してあるのだ。申してみよ」
「気を付けなさい。もしもあなたの言う場所になければ、この家に居場所はないわ」
高圧的、威圧的、傲慢、驕傲。
自らに後ろめたい事などないと信じた人間の、信じ難いほど強固な愚劣。事実、盗んでなどいないのだから証拠などあるはずがないなどと、それが不変だと信じて疑わない。
だが、驕りの代償は往々にして高く付くものだ。
「奥様の宝石箱でございます」
「——っ」
奥様の美しい顔が、醜く歪んだ。
その様子を見て、旦那様も異変に気付く。私が適当な事を言ったわけではないと、どうやら理解してしまう。
宝石箱。それに何があるのか解らないまでも、触れるべきではないのではないかと予感しているのだ。しかし、当然無視するわけにもいかない。彼の財布の中身は、現在空っぽなのだから。
「宝石箱だと……?」
「で、デタラメを言っているのよ! 呆れた! 適当な事を言わないで!」
「いいえ、間違いございません。嘘だとおっしゃるのなら、是非ご確認ください」
旦那様は訝しげな表情を浮かべつつ、夫婦の寝室へと向かう。短い移動の最中も奥様は言い逃れようとしていたが、その言葉が旦那様の足を止める事はなかった。
宝石箱は、衣装箪笥の引き出しにしまわれている。白を基調とした美しい箱で、中身を全て取り出したとしても私の給金では手が出ないほどの貴重品である。
これだけは、奥様自ら磨いて手入れをしていた。
「……鍵を貸しなさい」
「い、いいわよ。貸してあげます」
奥様が肌身離さず持ち歩く小さな鍵によって、宝石箱は固く閉ざされていた。合鍵は一つもなく、それはつまり奥様以外にこの宝石箱を開けられる人間がいないという事を意味している。
中に紙幣があれば、一見して犯人は明らかだ。
「な、何もなければ……分かってるでしょうね?」
私にそう言うが、その動揺が私の勝利を確信させる。
そして……
「おい、宝石しかないぞ」
「ほ、ほら! 見なさい! よくも私を盗人扱いしてくれたわね!」
額に汗を流しながら、奥様は勝ち誇って私を見下す。声が震え、未だに安心を得られないといった様子で。
だから、私は付け加えるのだ。もう一押しで、この家族は簡単に崩れて散り散りになってしまうだろうから。
「内蓋です」
「うち……?」
「ぁ! いや……っ!」
たった一言。それだけで充分だった。
箱は二重構造となっており、蓋と底がそれぞれ外れて僅かな収納部分が姿を現す。当然、大した物は入れられないが、この世には掌に収まる程度の大きさであるにも拘らず何よりも価値のある物体が存在する。
紙幣である。
蓋を外すと、その中からは詰め込まれた紙幣が跳ねるように飛び出してきた。あまりに多くを入れ過ぎていたため、折れた紙の弾性がバネとなって跳ねたのだ。
「何だこれは……」
「そ、それは……違うのよアナタ……これ……は……」
「何だこれはッ!!」
旦那様は激怒する。当然である。目の前には、一見して動かぬ証拠が確かにあるのだから。
そして、奥様も弁明の術を持たない。言えるはずなどないのだ。これは、いわゆるヘソクリ。本来であれば家に入れるはずの収入を誤魔化し、自らの懐に入れていたのだから。
◆
「で、その後どうなったの?」
「さぁ、今は何をしているのかしら? 離婚なさったらしいけど、その後は知らないわ」
お水を一口飲み、弟とあの頃の話をする。
私は、結局家業を手伝う事になった。
五年以上も身を粉にして働いた結果得られたのは、雇い主の家族を離散させたという不名誉のみである。恐らくは奥様辺りが悪い噂を流したのだろう。そんなわけで都会での求職は困難であり、仕方なしに出戻る羽目となった。
ただ、後悔はしていない。
私の時間を食い潰した悪逆を相手に、まんまと復讐せしめたのだ。これ以上の収穫は存在しないだろう。
「あ、そう言えば姉さん」
「なぁに?」
「盗んだお金って、結局どこに隠したの? 生活の足しにはしなかったの?」
「ああ、その事」
弟の問い掛けは、確かに話した事のない内容だ。
上手くせしめる事ができたなら、弟の言うように大きな助けとなっただろう。しかし、それはもう叶わない事だ。
「燃やしたわ。暖炉で」
「なるほど、燃やし……んん!?」
弟は、飲んでいる水を吹き出した。勿体ない。水を汲むのも楽ではないというのに。
「え? ええ?? 燃やし……た? お金を?」
「ええ、メイドの仕事は暖炉から始まるのよ」
使用人は朝起きると、主人が起きるよりも早く暖炉で部屋を暖めなくてはならない。朝から暖炉周りの清掃は一苦労だが、もしも冷えた部屋に主人を通したとあれば一大事だからだ。
なので、旦那様が起きるよりも早く紙を火に焚べてしまうのは簡単だった。
「隠すだけだと、見つかるかもしれないでしょ? 絶対に見つけられない場所なんて用意できないのに、絶対に見つかってはいけなかったのよ。だったら、燃やしてしまうのが一番理に叶ってるじゃない。見つけたって、それが紙幣だなんて気が付かないでしょうし」
「まあ、そうだろうけど……」
弟は首を傾げる。理解し難いと言うように。
私にとっては、重要な事なのだ。
あのお金を手にしようと欲をかく事によって失敗の可能性が生まれるのなら、燃やす程度大したものではない。どれほどの大金よりも、どれほど裕福な暮らしよりも、彼らに復讐する事の方が大切なのだから。
もしも、私が泣きながら、震えながら、恐れながらあの家の仕事を辞めていたら、今のようには生きていられなかった。疲弊し、傷付き、衰弱した心では、元の生活すらままならないだろうと予感したのだ。
だから、復讐が必要だった。
蔑ろにされた分だけ傷付け、謀られた分だけ刻み、踏み付けにされた分だけ砕く必要があったのだ。
そうして、私はようやく人間となれる。かつては当たり前に持っていて、いつの間にか失われてしまった何かを、再び手にする事ができるのだ。
それに……
「さぁ、そろそろ休憩は終わり。続きをするわよ」
「うわ、ちょっと待ってよ」
「待てません。急がないと日が沈んじゃうわ」
ごく当たり前の、幸せな時間。
苦しくて貧しくてひもじくて、それでいて楽しい私の生活である。
これがあるのならば、他に何も必要ないのだ。これを手にするためならば、お金なんて簡単に燃やしてしまえる。
人生を変える事の、なんと不自由な事だろうか。
変えようと変えようと変えようと足掻いて、私は結局ここに戻った。
弟と妹が一人ずつ。嫁に出た姉は、たまに子供を抱いて顔を出す。父と母は最近老いを感じるとボヤいていたが、まだしばらくは働けそうだ。
もう二度と、足掻こうとなどしないだろう。ここはこんなに、幸福で溢れているのだから。