エル 4
「ごきげんよう、エルヴィン。
こんな夜更けになんのご用かしら?」
「……少し話せないか?」
「ええ。でもこの時間に部屋に入れたらさすがに怒られてしまうわ。
お庭でもよろしくて?」
すぴすぴ眠っている黒猫を起こさないよう、少女はショールを羽織って部屋の外に出ると、エルヴィンの手を引いた。
庭に出ると、冷たい風が彼女の月の光に似た髪をふわりと撫でた。
ちょうど屋敷の見回りをしていたらしい使用人が、廊下から声をかけてくる。
「お嬢様、どちらへ?」
「少し風に当たりに来ただけよ。お仕事に戻ってちょうだい」
「また抜け出したりしたら、お部屋に人を付けますからね」
「もう、みんなして意地悪言うのね。私、悲しいわ」
「どの口が言いますか……」
呆れたように言いながら、彼はちらとエルヴィンに視線を向けた。
「私が責任を持ってお部屋までお送りいたします。信用には足らないかと思いますが……」
「……いえ。お身体を冷やさないよう気を付けて差し上げてください」
「はい、ご助言ありがとうございます」
晴れの日には色鮮やかに咲む花々も、いまは眠るように静かに揺れている。
海を臨む高台に置かれたガゼボに向かい合って座ると、少女は小さく笑った。
「あなたが丁寧に話していると、少しおかしいわね」
「うるせぇな……俺だってまだむず痒いんだぜ」
「あら、とても様になっていたわよ。エルヴィンはやっぱり器用ね」
「ふふん、もっと褒めろ」
「そういえば、執事長も筋がいいって嬉しそうにしていたわよ。
お菓子作りもお客様にお出しできるくらい飾り付けまで上手になっているし、この前くれた猫の刺繍が入ったハンカチも、とても気に入っているわ。
読み書きもどんどん上達しているし……まぁ、相変わらず筆致は解読に時間がかかるくらい汚いけれど」
「おい最後」
文字が汚いことは承知しているが、なぜかそこだけは何度見本を真似ようとしてもだめなのだ。
「ビビのほうがずっと綺麗な字を書くわよ。すごいのよあの子ったら」
「もういいっつの!」
毎回毎回、当てつけのように黒猫の名前を引き合いに出すのは勘弁してほしい。
向こうがなんとも思っていないのに、自分ばかりがライバル視してしまうのはどうにも据わりが悪い。
「そもそも、そんな話をしに来たんじゃねぇんだよ」
「あなたが褒めろと言ったくせに」
「あの日のこと、俺は聞く権利があると思うぜ」
声を低くして言えば、少女は微笑んだまま口を閉じた。
「なぁ、なんで俺は生きてるんだ? お前はあの時、何をしたんだ?」
「……別に、内緒にしようとしていたわけではないわ。
私もまだ上手く伝えられる自信がないの。でも、間違ってはいないと思う」
「……なんだよ」
「エルヴィン、あなたは昔に一度死んでいるのよ」
(……死んで、る?)
影だから心臓を刺しても死ねないとか、そういうことではないのか。
死んでいるから死ねないのだと。そんな馬鹿げたことを、この少女は本気で思っているのだろうか。
(マジなのか?)
血の気が引いた指先を、少女の白い手がそっと包んだ。
「エルヴィン、あなたは呪われているの。
なぜなら、死の運命を狂わせてしまったから」
「……」
「ねぇ、あなたの髪と瞳は、元は違う色だったのではない?」
「違う色? ……」
(そういえば……)
昔は両親と同じ、淡い茶色だったのだ。それがいつからか、黒くなっていた。
(あれは、そう)
「死にかけて、色が変わった?」
「そうだ……
川に落ちて溺れて、目が覚めたら、この色だった。
その時から、周りで不幸が起きはじめて」
それ以前は、やたらと怪我をすることが多かったことを思い出す。
エルヴィンが一日に何度も転ぶから、お節介な友人が、いつも手を引いて歩いてくれた。
「それから、いろいろ起きすぎて……すっかり忘れてたけど」
「きっと、その時に一度死んだのね」
「えっ!?」
「で、生き返ったのよ」
「はっ!?」
「もう、エルヴィンったら、声が大きいわ」
「いやだって……つまりなんだよ? 俺は生きてるのか?」
しかし、一度死んで、生き返るなんてことが本当にあるのだろうか。
「あなたの体質は、悪いものを引き寄せてしまうというものよね。
ではその悪いものというのはなにかしら?」
「あー……怪我とか、病気とか?」
「では、それはどこからやってくるの?」
「どこから?」
少女は小さく頷く。
「あなたの力は、そもそも、誰かに降りかかるはずだった悪いものを引き寄せてしまうものなのよ。
怪我や病気、負の感情まで。それはつまり、誰かの運命を変えてしまうということよね」
「……ああ」
「それだけならいいの。でも、あなたの力は強すぎたのだわ。誰かの死の運命を変えてしまうほどに」
「……」
「手当たり次第読んでいた本の中に、経典があったわ。
そこに、生と死の運命だけは、人間には変えることができないと書いてあった。
それはもう神の領域なのだと。そこに手を出してしまえば、神罰がくだると」
さあ、と風がふたりの間を通り抜ける。
場違いなほど甘い、花の香りがした。
「あなたは、誰かの代わりに死んでしまったがゆえに、呪われたのよ」
(……それは)
「俺の意思じゃない」
「ええ」
「生きて……他の誰かを殺すことが俺の罰なのか?
それこそ、人間がやっていいことじゃねぇだろ!」
ざわざわと風が騒ぐ。
震える手を、同じくらい冷たい少女の手が強く握った。
「エルヴィン、聞いて。そうではないの。
あなたは今でも、誰かの影を引き受け続けているのよ」
「なら何で……っ!」
「目を逸らさないで、考えて。
エルヴィン、あなたの罪はなに?」
「……他人の代わりに死んだことだろ」
「ではその罰は?」
罰。呪い。エルヴィンにとっての呪いは。
「……生きる、こと」
あの時逃れたはずの呪縛が、再び蘇ってくる。
エル、生きなさい。
エル、生きて。
エル、生きるんだ。
(カミサマまで、俺に生きろというのか? こいつも……)
「誰かの代わりに生きること。
それがきっと、あなたにとって最も重い罰なのだわ」
「……」
「だからね、エルヴィン。
そんな馬鹿げたことはもう終わりにしましょう」
顔を上げる。
色の失われた世界でも、少女の柔らかい輪郭は不思議とはっきりと見えた。
「なにを……」
「すでに負ってしまっているものに関しては仕様がないわ。
でもこれ以上余計なものをもらう必要はないし、それだけで一生を終えるなんて、考えただけで気が狂いそうよ!
ねぇエルヴィン、誰かの代わりに生きながら、自分のために生きたっていいと思わない?」
「俺は……」
「嫌なの? エルヴィンは幸せになりたくないの?」
まっすぐに見つめてくる視線に、絡め取られる。
答える前に、少女は口を開いていた。
「私はあなたと生きたいわ!
あなたと一緒に生きて、幸せになりたいの」
「……!」
それはきっと、無意識に。エルヴィンがずっと求めていた言葉だった。
「……い、一緒に」
「ええ」
「一緒に、生きてもいい……のか?」
「当たり前よ。ひとりになんてしないわ!」
「……どうして」
「そんなの、あなたを愛しているからに決まってるでしょう?」
陳腐にも聞こえるその言葉に。あどけない少女から紡がれるませた台詞に、エルヴィンは思わず声を上げて笑ってしまった。
「もうっ、私は本気よ!?」
「く、ははっ……ったく、俺のどこがそこまでお気に召したんだか」
「あら、わからないの?」
そう言って、少女はエルヴィンに手を伸ばす。
目元に親指で触れながら、さらりと髪を撫でた。
「エルヴィン、あなたは本当に綺麗よ。髪も瞳も、そしてその在り方も」
「……」
「あの日、影に飲まれそうになっても、あなたは最後まで優しい目をしていたわ。
それがどれほど尊いことか、あなたにも知ってほしいの。
死の淵に追い詰められても、誰かの幸せを喜べることが。
そうすることで誰かが幸せになれるなら、迷わずひとりで死ぬことを選べることが。
それがどんなに愚かで、愛おしいことなのか」
淡いランプの灯が、少女の頬に伝うものを優しく照らす。
気付いたときにはそれに手を触れていた。
「ビビもあなたも、意地悪だわ。
私に断りもなく、勝手にいなくなろうとして」
「……俺が死なないってこと、気付いてたんだろ」
「そういう問題じゃないのよ。
……私を置いていこうとしないでよ」
(ああ、そうか。
こいつも俺と同じなんだな)
毎日綺麗な服を着られて、贅沢な食事にありつけて、周囲の環境や人間にも恵まれて。
誰もが羨むようなキラキラしたものに囲まれているのに、この少女は孤独なのだ。
「お前、意外と寂しがりなんだな」
「なによ、今更気が付いたの?」
「へいへい、悪かったな今更で。
……なぁ、お前に俺の命も呪いもぜんぶ預けるからさ。
一緒に生きてくれよ。そんで、幸せになろうぜ」
夜の藍より鮮やかな紫が、宝石のように澄んで煌く。
「ええ、約束よ!」
「俺が死んで地獄に落ちるまでずっとだぜ?」
「もちろんいいわよ。私があなたより生きられたらだけど」
「いやそこは嘘でも先に死なないって言えよ」
「嫌よ、私は嘘はつかないもの」
内緒話をするみたいに、くすくす笑い合う。
「なぁなぁ、オジョーサマ」
「なぁに?」
「俺のこと、エルって呼んでくれねぇか?」
親しい相手を作りたくなくて、ずっとそう呼ばせることを避けていた。
なによりも、自分を呼ぶ、彼らの声を思い出してしまうから。
「いいわよ」
少女は花の蕾が綻ぶように笑う。
「エル、私と一緒に生きましょうね」
──エル。
父の、母の、友人の、優しい声がエルを呼ぶ。
(ああ……そうか……)
呪いをかけてでも、生きていてほしいと願う人がいる。
恨まれてもいいから、君だけは幸せにと祈る人がいる。
(それでも、俺は一緒にいたかった)
きっと何度そう叫んでも、きっと彼らはただ寂しそうに笑うのだろう。
いくら愛されていたって、そばにいてくれないなら、いつまで経っても孤独からは抜け出せないのに。
「エル?」
少女の手が頬をぬぐう。
「……なぁ、もし、俺の力のせいでお前が死ぬことがあったら」
「ばかね、死なないわよ」
「もしもだっつってんだろ。
……そうなったら、俺も連れて行ってくれるよな?」
自分のために生きてもいいと、そう言うのなら、どうか。
「なぜそんなことを聞くの?」
少女は呆れたように目を細めた。
「それはあなたが自分で決めることよ。
あなたは私のものだけれど、お人形じゃないわ。
生きてほしいとは思っても、一緒に死んでほしいなんて思わないわよ」
「……」
「もしそうしてほしいと思うなら、そう望めばいいじゃない。
私はずっとそうしてきたわ。ほしいと思ったものには自分から手を伸ばしてきた。
だからもし、あなたが一緒に連れて行けと言うなら、喜んでその手を取ってあげる」
それはきっと、望めばなんでも手に入る場所にいるからこそ口にできる傲慢だ。
(でも、そんな言い訳ばかり並べて、なにもせずにいるほうが……ずっと傲慢なのかもしれない)
呪いだなんだと言い訳して、大切な人たちの後を追わなかったのは、自分の意思だ。
たとえ死ねない身体だとしても、その気になれば死のうとすることはできていたのに。
(全部……バレてたのかもな……)
転ぶたびに小さな怪我に泣いてしまうエルが、手を引いてもらえないと怖くて歩けないエルが、大切なひとたちの死を背負いきれないこと。
呪いでもかけない限り、生きることも、死ぬことも、ろくに選べなかっただろうこと。
生きたくないと見苦しく喘いだ。
それができたのは、散々生きろと言われたからだ。
(だって、生きなきゃいけない理由なんて、本当はなかった)
死ぬのが怖いから生きるなんて、言い訳にもなっちゃいない。
死ぬのも、生きるのも、どっちも同じくらい怖いのに、それで天秤が傾くはずもない。
(そう望まれれば、あっさり死ねるのと同じように。
生きろと言われたら、俺はなんの意味もなくても生きていけるから)
少女の言う通り、エルが綺麗だと、美しいと言うのなら、それは大切な人たちの願いが、星になってエルの中で輝いているからなのだろう。
屍を積んでも、その中心に立っていられるのは、少女の好きな花のような誇り高さなどではない。
(綺麗に見えても、ただの死体だ)
エル自身も、呪いによって屍を動かされているに過ぎないのだ。
あまりにも死に近付き過ぎたエルだからこそ、内に息づく誰かの命を美しく輝かすことができるだけ。
(思えば、大事なことはいつも誰かに押し付けてきた。
逃げることも、生きることも、死ぬことも)
エルは誰も恨まなかったのではない。恨めなかったのだ。
それすらも、自分の意思で決めることができなかった。
(それなのに、今更、こいつは俺に決めろと言うんだな)
空っぽだからこそ、影をその身に宿し、死に触れることができるエルに。
少女は、自分の意思でもって選べと言う。
(そんなことをして、どうなるか分かってんのかよ)
死体が意思を持ってしまったなら、あまりにもおぞましい自分の姿に驚愕することだろう。
気が狂って、殺してくれと喚き出すかもしれない。それでも。
(こいつは、綺麗だなどと言うんだろうか)
あの日、ぐちゃぐちゃなエルの姿を。それでも美しいと言った少女の笑みを思い出す。
エルがエルである限り、少女が自分に触れることをためらわないと言うのなら。
(俺はもう、狂ってしまっても構わない)
エルははじめて、少女の目をまっすぐに見た。
「俺はもう、誰も自分の中に入れたくねぇ。お前もだ、オジョーサマ。
だからお前が俺のせいで死ぬことがあれば、絶対に手を掴んでやる」
「そうしたら、私も地獄に落ちてしまうのかしら?」
「そうだな。怖いのか?」
「ふふ、どうかしら。あなたのほうが怖がりそうだけど」
「……」
「その時は、私が代わりにあなたの手を引いてあげるわね」
頼りなくも見える小さな手に、両手を包まれる。
冷たい指先が、体温の低いエルの手にはよく馴染んだ。
「……結局、お前が引っ張るのかよ」
「仕方ないじゃない。あなたが怖がるんだもの」
「怖いとは言ってねぇよ」
「そう? まぁどちらにしても有り得ないお話ね。
私は大切なひとたちのために、犠牲になるつもりはないもの。
もしうっかり死んでも、きっと蘇ってみせるわ! エルみたいに!」
「それすげぇ皮肉に聞こえるんだけど!?」
「いやだわ、気のせいよ。おほほほっ」
その後、くしゃみをした少女を慌てて部屋に送って、その日は終わった。
二人して寝不足になってしまい、それぞれ別の人間に叱られたことについては、深く反省しているつもりだ。




