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ビビ 2

「……」


(あたたかいのです……まさか、ここが噂に聞く天国なのです?)


自分はきっと地獄に落ちると思っていたのに。

ふわふわとした気分で目を開けると、見覚えのある景色が見えた。


「……?」

「私ね、ずっと待っていたのよ」


穏やかな、けれど、少し掠れた声が頭の上に静かに降って来る。


「あなたが私を呼んでくれる日を、ずっと心待ちにしていたわ。

まさかその直後に死のうとするなんて、思いもしなかったけど」

「!」


まどろんでいた意識がハッと覚醒する。

少女の自室で、その膝の上に寝かせられていたビビは、慌てて起き上がった。


「……っ」


あるじさま、お怪我は、と聞きそうになって、もどかしく口を閉じた。

その様子を見て少女がおかしそうに笑う。


「そうね、あなたが怯えてしまわないように、先に言ってあげる。

私は、あなたを愛しているわ。どんな姿でも……ねぇ、もう一度声を聞かせて」


(えっ、どうして……?)


混乱する頭で、ビビはあの時自分が主人のことを呼んでしまったことを思い出した。

背筋が冷たく震えるも、変わらず優しく声をかけてくれる少女に、失ったはずの希望がこんこんと胸に湧く。


迷いながらも、思い切って口を開こうとしたところで、バンとドアが開いた。


「ふにゃ!?」

「あん? 起きたのか、そいつ」

「エルヴィン、ドアはノックしなさいと言ったでしょう」

「へいへい」


少年は椅子に座る少女の前に膝を付き、手を伸ばそうとして、ちらと顔を見上げた。


「あー……失礼します?」

「ええ」


むず痒そうに唇を曲げると、彼は少女の足首を持ち上げた。

巻かれていた包帯を解き、ツンとする匂いの薬を塗り直す。


「なぁオジョーサマ? こういうの、女中の仕事だって言われたんだけど?」

「これもお勉強よエルヴィン。私に付くからには、なんでもできる執事になってもらわないといけないもの」

「うげぇ……」

「まぁ、あなたは案外器用だし、すぐに身に付くわよ。付かなくても付けさせるけど」

「一言余計なんだよなぁ、お前。可愛くねぇ」

「結構。万が一あなたに懸想されても困るし、ぜひその調子でいてちょうだい」

「そういうとこだっつの」


呆れ顔でため息をついて、少年は立ち上がる。話しながらも包帯は綺麗に巻かれていた。

彼は少女の膝の上で小さくなっているビビをジッと見て、ごく軽い調子で声をかけた。


「お前、獣人だったんだな」

「……」

「他人を見てる気がしないぜ。どうせお前も、この変人に目を付けられちまったんだろ」

「失礼ね。ビビは怪我しているところを私が保護したのよ」

「そっちかよ変人を否定しろよ」

「それにこの子が獣人だから欲しいと思ったのではないわ。その時はまだ知らなかったもの」

「へぇ?」


少年は意外そうに目を瞬く。


「お前はてっきり、変な生き物が好きなのかと思ってたぜ」

「悪趣味な人間みたいに言わないでちょうだい。私はただ美しいものが好きなのよ」

「ふーん、感性がずれてるどころかぶっ飛んでるんだな。

それでなんでコイツを拾ったんだよ? 見た目だけは普通の黒猫だろ?」


少女は、黙ったまま俯いているビビの背中を撫でた。


「あなたと同じよ」

「……俺と?」

「出会ったあの日のこと、私は鮮烈に覚えているわ。

馬車の中で、細い路地を震えながら這っているこの子を見つけたのは、きっと偶然じゃない。

だって、目が離せなかったの。この子の目が、お日様みたいに眩しかったから」


優しく弾む声が、指先から伝わる。少女の口からあの日のことが語られるのははじめてだった。


「俺が星で、ソイツは太陽かよ」

「どちらもとても尊いものよ。エルヴィン、私はね、酷い人間なの。

きっとあなたやこの子が、居場所を追われてしまったあなたたちが、誰かを憎む目をしていたなら、私は手を伸ばさなかったでしょう」

「……」

「可哀想な子を救いたいなんて思わないの。そんな義理はないもの。

私は私の欠落を埋めてくれる綺麗で優しいものがほしいだけ。そしてそれは、泥水の中でも誇り高く咲く花のように、胸を打つものであってほしいと思うの」

「……よくわかんねぇけど、やっぱ悪趣味だろ、お前」

「エルヴィン、あなたにはがっかりだわ」

「そりゃどうも」


皮肉を言いながらも、少年の口調は柔らかい。

なんだかわけもなく泣きたい気持ちになっていると、ついでのように少年が言葉を繋いだ。


「まぁ、なんだ。ビビっつったか? 同じ境遇の仲間同士、仲良くやろうぜ」

「……!」

「お? はじめてこっち見たな」


少年が笑う。まだあどけなさの残る顔に、鴉のような髪と瞳。

吸い込まれそうなその色が、夜の闇のようで怖いと思っていた。


(……でも)


怖がらずに目を凝らせば、確かに。彼の目が星空みたいに優しいことに気が付く。


(あるじさまは、すごいのです)


真っ暗な闇に手を突っ込むようなことを、平然とやってのけてしまう。

そして差し伸べられたその手を掴み返したなら、決して拒むことはしない。


「んー? まだ話すのは難しいか?」

「……」

「まぁいいや。さっきは悪かったな。

なんとか滑り込めたまではよかったけど、お前は地面に叩き付けられちまったし……猫じゃなかったら、骨が折れてたかもしれねぇもんな」


その言葉に首をかしげると、彼もつられたように頭を傾けた。


「あ、まださっきのこと聞いてねぇのか。

コイツが屋根から落ちた時、なんとか着地点に入れたんだけど、頭は上手く庇えなくてなぁ。

そこにくっついてたお前がコイツの頭と地面に挟まれて、気絶しちまったんだよ」

「ビビがいなかったら私も頭を打っていたわ。ツメが甘いわねエルヴィン」

「つかお前はもっと俺に感謝しろよ! あの高さじゃあ死にはしなくても、確実に怪我はしてたぜ!?」

「そうね、褒めて遣わすわ。執事やめて護衛になる?」

「いちいち偉そうだなお前……いや実際俺なんかより偉いんだけど、なんか腑に落ちねぇ……!」


(……よかった。ぼく、あるじさまのことお守りできたみたいなのです)


もちろん彼には及ばないが、少しでも役に立てたのなら嬉しい。


若干悔しそうにしながら部屋を出て行った少年を見送って、少女は口を開いた。


「でもね、私少し怒っているのよ」

「……?」


(あるじさま?)


エルヴィンみたいに褒めてはくれないのかと、おずおずと少女の顔を伺う。

彼女は怒っているというより、なんだか、悲しそうな顔をしていた。


「エルヴィンは死にはしないって言ったけど、打ち所が悪かったら死んでいたかもしれないわ。

あなただって例外じゃない。まともに私の下敷きになっていたら尚更よ。ねぇビビ、私が何を言いたいかわかる?」

「……」

「あなたが私に死んでほしくないって思うのと同じように、私もあなたに対してそう思っているってことよ」


それは、予想もしていなかった言葉だった。

自分の代わりはいくらでもいるけれど、少女の代わりはいないから。

だから、自分はいなくなってもいいと思っていた。


「ねぇビビ、あの子を見てちょうだい」


少女が示したのは、部屋の棚に飾られた鴉の剥製だった。

以前飼っていたと聞いている。


「私は別に剥製になんて興味はないのよ。

あの子だから置いているの。あの子を昏い土の下にひとりぼっちにしたくないから」

「……」

「でもね、今でも……見るたびにあの子の死を思い出すの。

幸せな思い出はいっぱいあるのに、いつも真っ先に思い出すのは、喪ってしまった記憶ばかり」

「……」

「代わりなんてないわ……エルヴィンはあの子に似ているけど、だからと言ってあの子に開けられた穴が埋まるわけじゃないし、そんなことはできない。

胸の空白はあの子がここにいた証でもあるから。傷痕も含めて、ぜんぶ愛おしいと思うの」


(……あるじさまは、ぼくが死んだら痛いのです?)


痛いことは苦手だ。あの時だって、石を投げられた時の傷から病気に罹ったために、ビビは死にかけたのだ。


(あるじさまが痛いのは、嫌なのです……)


「ねぇ、ビビ。私、あなたに生きてほしいって言ったはずだわ。

ビビって名前は、そう願って付けたって。忘れてしまった?」

「……っ」

「あなたが私のために犠牲になるなら、いっそ、一緒に傷付いたほうがずっといいわ」


(痛いことも、一緒に?)


何度石を投げられたり、暴力を振るわれても、ビビは一度もやり返したことはなかった。


(だって、みんなも怖がってたのです)


目障りだから殺すとか、痛め付けるためではない。

気持ち悪いから、いなくなってほしいから、みんなビビを目に付かないところへ遠ざけようとした。

それまでなんとか生きてこられたのは、そのためでもあった。


(ぼくは、みんなと同じじゃないから……同じにはなれない、から)


ずっと、そう思っていたのに。


なぜか胸が苦しくて、いっぱいになった気持ちがあふれるみたいに、涙がぽろぽろ零れた。

頬に触れたあたたかい手に、両手ですがりつく。


「……っ、あ……、あるじ、さま……あるじさまぁっ……!」

「まぁ……ビビったら、どうして泣くの」

「ごめ、ごめんなさ……、ごめんなさい……っ、ごめんなさいっ!!」


愛されていると、疑ったことはなかった。

でも、ただの猫としてのビビと、獣人のビビは、別の生き物で。


少女が愛しているのは、ただの猫であるビビなのだと。


「それは、なにについての謝罪かしら?」

「ぼく、ず、ずっと猫のふりして……っ、それに、し、死んでもいいって」

「そうね。後者については謝罪を受け入れるわ。

でも、獣人であることを隠していたことは、責めるつもりはないわ」

「えっ……」

「私、本当は気が付いていたのよ?

でも、指摘したら、あなたは私から逃げてしまうのではないかと思って。

だから、あなたから打ち明けてくれるのを待っていたの」


ビビは大きく目を見開いた。

太陽のようと称した瞳が涙で煌めくのを、少女は眩しそうに見つめる。


「……い、いつから、です……?」

「ビビ、あなたは知らないかもしれないけど、普通の猫は鳴き声で人間と会話したり、うんうん頷いたりしないのよ」

「……え!?」


衝撃の事実である。

猫は言葉が話せないだけで、理解はできているものと思っていた。


「にゃんと! 研究不足だったのです……!」


遠目から観察した野良猫を見よう見まねで真似しただけでは足りなかったようだ。

つまり、かなり早い時点で気が付かれていたわけで。


頭を抱えて悶えるビビに、少女はくすくすと笑った。


「可愛らしい話し方をするのね。敬語が難しいなら、普通に話してもいいのよ?」

「ううんっ、これは間違えて覚えちゃった時のクセなのです……えと、直したほうがいいです?」

「いいえ。ちょっぴりお間抜けさんなビビらしくて、いいと思うわ」

「え……えへへっ!」


何度も練習した言葉を褒めてもらえて、ビビは照れたように笑う。

間抜けと言われたのも、なんだか本当の自分を見てくれているようで嬉しかった。


「……ねぇ、ビビ。私こそごめんなさいね。

あなたがずっと悩んでいるのを知っていたのに、見て見ぬふりしかできなかった。

その判断が正しかったのか……わからないの。少なくとも、私もあなたを騙していたことは事実だわ」

「あるじさま」

「だから……おあいこね。私とあなたは、同じ罪悪感を抱いていたんだもの。

ふふっ、なんだかやっと心が晴れた心地だわ! さっきは怒ったけど、あの時私を呼んでくれて、助けようとしてくれてありがとうね、ビビ!」

「……!」


笑顔で抱き締めて、頬擦りしてくれる少女に、ビビは歓喜にひげを震わせた。


「ぼく、ぼくっ……い、生きててよかった、です……!

あるじさま、ありがとうです! 大好きなのですっ!!」

「ええ、ええ! 私もあなたが大好きよ!

生きていてくれてありがとう、ビビ!」


死んで喜んでもらえたなら、それだけで幸せだと、ずっと思っていた。

でも、生きていることを喜んでもらえる。ありがとうって言ってもらえる。それは、嗚呼、それは。


(なんて、なんて、嬉しいんだろう……っ!)


ゴミみたいに捨てられて、生きて、そして、宝石みたいに拾われた。

誰もがいらないと言っても、たったひとりの宝物になれるなら、もう、それだけで充分だ。


(ありがとう、ありがとう、大好き!)


伝え切れない気持ちが雫になって、ぽろぽろ零れていく。

ビビはこの日はじめて、幸せで涙が出るのだと知った。




あの日から、ビビは積極的に少女のために働いた。

周りのひとたちに気味悪がられても、ぜんぜんへっちゃらだった。


(それに、みんながみんな、獣人(ぼく)を嫌ってないってことも気付けたのです!)


思えば、芸を見せて日々を凌いでいたころも、見世物としてじゃなく、純粋に褒めてくれるひとたちも確かにいたのだ。

傷の痛みで、そんなささやかな喜びさえも忘れてしまっていた。


「まあっ、なんてことなの……! さすがは私のペットだわ!

可愛くて賢いなんて最強じゃない! 大好きよ、ビビ!」

「えっへん! なのです!」

「おい、それは俺への当てつけか?

こんな簡単な文字も読めない俺への当てつけなのか!?」

「仕方ないわよ。あなたよりビビのほうが賢いのは事実だもの。ねぇビビ?」

「えっ? そ、そうなのです? えへへ……」

「くそっ、今に見てろよ!」


少女の膝の上、ぽかぽかな陽気を浴びながら、賑やかな声を聞く。

あたたかい手のひらが優しく背中を撫でてくれる。

いつかの絶望に見た幻想(ゆめ)が、柔らかく形を変えてここに在る。


まどろみの中、これが幸福な死ではないことを噛み締めた。

目が覚めたら、また大好きなひとに会える。きっと、これから先も。


「ふふ。おやすみなさい、ビビ」

「えへへ……おやすみなのです、あるじさまぁ……」


黒猫は、ふくふくと頬を緩ませながら目を閉じる。


もしもこの先、この幸せを壊そうとするなにかが現れたのなら。


(ぼくは、なにがあろうと、あるじさまをお守りするのです。

獣人だからこそお役に立てることが、きっとあるはずなのです!)


その時に備えて、もっと猫のふりを上達させておこうと。

そんなひそやかな決意が本当に役に立つ日が来るなんて。


そして、獣人だからこそできるとんでもない役目を主人から押し付けられることになるなんて、この時のビビは思ってもみなかったのである。


それでも、辛いことの先に幸せが待っていることを、誰よりも知っていたビビだからこそ。

あの運命の日、少女が大切なものを取り返すための立派な標になれたのだ。


そしてそれは、獣人というだけで虐げられてきた者たちを救済する、小さくとも大きな大きな一歩でもあった。




──これはのちに、その寛容さと大胆な施策でもって多くの異民を国民、果ては臣下として受け入れた国王と、死神をも従えると噂された変わり者の王妃──の飼い猫が、外交官として世界中を駆け回り、ついに人権を得て、やがて……


『名付けて、人間さんと獣人さんのらぶらぶまっちんぐ大作戦なのですっ! えっへん!』

『ビビ、異国の言葉が更に上達したわね! とっても素敵よ!』

『えへへぇっ!』


……などといったノリで本当に人間と獣人を馴染ませてしまい大陸全土を驚愕させたひとりの猫獣人の、幸せのはじまりのお話。

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