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ビビ 1

この世界には、きっと、ぼくが生きてもいい場所なんてないんだろう。


薄汚れた路地裏は、まるでぼくそのものだ。

誰もが近くに寄ることすら厭い、鼻をつまむ。顔をしかめて、見えないところに隠したがる。


ただそこに在るだけなのに。

なにも悪いことなんてしていないのに。


「おまえ、気持ち悪ぃんだよッ!!」

「……!」

「猫のくせに、ひとの真似なんかしやがって!!

この、化け物め! あっちへ行けッ!!」


どうして、猫はひとの言葉を話してはいけないのだろう。


どうして、ひとと同じように生きてはいけないのだろう。


どうして、姿形が違うと同じ生き物になれないのだろう。


「どうして……どうしてぇ……っ」


ぼくは、こんな出来損ないに生まれてしまったのだろう。


傷付き果て、もはや立ち上がる力さえ残っていなかった。

それでも、こんな寒いところで、ひとりきりで死ぬのは嫌だった。


光を求めて、冷たく薄暗い路地裏を這いながら、幸福な死を思う。

ふっと、かつて夢見た風景が、頭の隅に浮かんだ。


優しいご主人様の膝の上で、あたたかな手と日差しに身を委ねて、そっとまどろむ。

そんなささやかな、けれど、絶対に叶わぬ幻想(ゆめ)


ああ、ここで生きてはいけないというのなら、せめて。


(せめて、死ぬときくらいは……よくやったなって、えらいなって、褒めてもらいたかったのです……)


薄れていく意識の中で、あたたかい光を見た気がした。

必死に目を凝らした先にあったのは、小さな人間の手のひらだった。




「ビビ、おいで!」


ビビを抱き上げる少女の身体は、まだまだ未成熟なそれだ。

それでも腕をせいいっぱいに伸ばして、愛おしそうに抱き締めてくれる。

ただそれだけのことが、ビビは泣きたくなるほど嬉しかった。


「にゃー!」

「ひゃあっ、くすぐったい!

もう、ビビったら! ……うふふっ」


(ぼくが普通の猫なら、きっともう捨てられないのです!)


だから必死にただの猫のふりをした。

舌がうまく回らなかった幼少期みたいに、にゃーにゃー鳴くのはひたすらに恥ずかしかったが、それよりも寝食が保証された今の生活を失うことのほうがもっと嫌だった。


なにより、言葉を話せない獣とわかっていながら、いつも話しかけて笑顔を向けてくれる少女に、ビビは怯えていた。


前の主人も、ビビをよく可愛がってくれていたのだ。獣人と知るまでは。


「……」


それはきっと、ヒトの顔をした獣を見て怖気を感じるのと同じように。

ヒトの真似をし始めた、ヒトのようでヒトではないものへの恐怖や拒絶感。その明確に言葉にできない不気味さが、多数の人間が獣人を忌避する所以なのだと思う。


ビビは愛されていたからこそ、捨てられたのだ。


(二度と、同じ失敗はしないのです)


求められているのは、無力で滑稽な小さな獣の姿だ。

下手に人間の真似事などして、『コレジャナイ』などと失望されるわけにはいかない。


(ぼくは猫! ちょっぴり賢い、普通の猫ちゃんなのです!)


そんな決意を固めるビビは、知らなかった。

自分が猫の普通というものについて、あんまりよくわかっていない……ということを。




少女の家に連れてこられてから、季節がひとつ移ろいだ。

苦手な四足歩行もなかなか板に付いてきたのではないかと思う。


最近の楽しみは、少女と一緒に庭を探検することだ。

毎日丁寧に手入れをされている花壇の花たちは、水を弾いてキラキラと揺れていて、命の輝きを感じさせてくれる。


「ビビ、こっちよ!」


明るい声に呼ばれて行くと、少女がしゃがんで花を覗き込んでいた。


「このお花、とっても綺麗でしょう?」

「……にゃ?」


見上げたその花は、周囲の色鮮やかな花たちと違って、若干場違いに見えた。

黒い花びらは神秘的と言えなくもないが、中心だけが黄色く、並んでいるとまるでたくさんの目玉のように見える。


首をかしげるビビに対して、少女はそれは嬉しそうに花を見つめた。


「ビオラっていうのよ。私が庭師に頼んで植えさせたの」

「うにゃ?」

「この子たち、まるであなたみたいだわ」


その言葉に、ビビは改めて花を見た。

言われてみれば、色合いが自分とよく似ている。


(ちょっとだけ不気味なところも、そっくりなのです)


花に対して若干失礼なことを考えていると、少女が手を伸ばして黒い花弁に触れた。


「このお花も、あなたと同じでお日様が大好きなのよ。

寒い冬でも、光を浴びれば元気いっぱいに咲いてくれるの。

可愛くて、一生懸命で、とっても強いの。嗚呼、なんていい子なのかしら!」

「……」

「私、あなたに生きてほしくて、ビビって名前を付けたわ。

異国の言葉にそんなふうな意味があるって、お母様が教えてくれたの。

それから、別の国では、愛しいひとのことをそう呼ぶのですって」


そうして、花に触っていた手でビビの黒い耳を撫でる。


「あなたを、陽の当たるところへ連れて来られてよかった。

だってこんなに愛おしいんだもの。美しくて、可愛くて、あたたかい、私の愛しい子(ビビ)


──大好きよ。


無邪気に微笑む少女が、触れた手が、あまりにもあたたかくて。

純粋な喜びと後ろめたさと、息が詰まるほどの幸せと罪悪感とが、一斉に胸に押し寄せてくる。


けれど、そんなちぐはぐな感情こそ、どっちつかずな自分らしいとも思った。


(あるじさまは、このお花みたいに……ちょっぴり不気味なぼくの姿も、受け入れてくれるのです?)


それを確かめる勇気は、まだ抱けそうにない。




あれから少しして、少女の周囲に新しい人間が加わった。

執事になるべく見習いとして働き始めたその少年は、少し自分に似ている気がした。


特に、どこにも行けずにうろうろしていたら、少女に拾われたというあたりが。


「あーっ、クソッ、なんで俺がこんなこと!」

「主人のスケジュール(プラン)管理も執事の仕事よ。

もっとも、ひと月先まで完璧に暗記できるというのなら放り出しても構わないけれど」

「ぐううッ……そうだ、ぜんぶ数字で管理するってのはどうだ!?

文字はともかく、数字くらいなら問題なく書けるぜ!」

「ええ、いいわよ。見返した時に、ちゃんと解読できるならね」

「……」


少女の足元で丸まりながら、くわっとあくびをする。

もしかすると、この少女は出来損ないを拾い集めるのが趣味なのかもしれない。

自ら見習いの指導をするのも、周りが近付けないからというだけでなく、少女自身がそうしたいと思っているからなのだろう。


(……ぼくの傷の手当ても、ずっとあるじさまがやってくれてたのです)


だからこそ、ビビはこの家の主人ではなく、少女を主と思っている。


「ったく、猫はいいよなぁ、暢気でよぉ……」

「あら、あなたも私のペットになりたいの?」

「うっ!? ちがっ、そっ、そういう意味じゃねぇしー!?」

「やぁね、動揺しすぎよ」


少年はビビを羨むが、ビビだって、彼に同じことを思う。


(ずるいのです。ぼくだって、あるじさまと楽しくおしゃべりがしたいのです!)


受け取ったものを返すには、そばにいるだけでは足りないのだ。


(ありがとうって、大好きって、どうしたら伝えられるのです?)


ほんとうはその手段を知っているのに、黒猫は未だ目を逸らし続けている。

離れがたくなるほど、疵を見せることが怖くなっていた。


同時に、大切なひとを騙しているという罪の意識も、じわじわと重さを増していくのだ。


(ぼくが本物の猫になれたらよかったのに……

そうしたら、こんなに苦しいこともないのです)


暢気などとは程遠い思考に沈みながら、ビビは今日も目を閉じる。




そんな平穏な日々をまるで影が覆い隠すかのように、小さな不幸が芽吹き出していた。

はじめは、ごく些細なことだった。何もないところで誰かが転んで怪我をしたとか、洗濯物が突然の雨に降られたとか。


しかしその時点ですでに、見習いの少年はなにかに怯えていた。


「や、やっぱりだめだ……なんかお前といれば大丈夫かもとかなんの根拠もなく思っちゃってたけど、やっぱりだめだ! 俺はここにいちゃだめなんだ!!」

「エルヴィン、心配しすぎよ。落ち着いて」

「触るな! お前……お前には見えてるんだろ!?

俺の闇が……、俺に付きまとう死神の影がッ!」

「……」

「もう嫌だ、みんな死ぬんだ! 俺のせいで! 俺のせいでぇッ!!」


真っ黒な髪をかきむしると、少年は錯乱したように叫びながら部屋を飛び出した。

それを見て、少女は迷いなく踵を返すと、窓を開けて縁に足を乗せた。


ビビは思わず、あるじさま、と呼びかけそうになってしまった。


(というか、ここ二階です!?)


慌てて駆け寄るが、辿り着く前に少女は外に飛び出していた。

すぐ真下の一階の屋根の上に着地するも、足を捻ったのか、ふらりとよろめいていた。


(あるじさま!)


ビビも飛び降りようとしたところで、玄関がけたたましく開く音が聞こえた。


「エルヴィン! 待ちなさい!」

「っ!?」


追いつかれたと思ったのか、走りながら振り返った少年が足をもつれさせて尻もちをついた。

痛みに呻きながら周囲を見渡し、最後に上を見上げて、驚愕に目を見開く。


「んなぁっ!? なにしてんだお前!?」

「玄関までの最短ルート(ヴェーク)よ!」

「いや屋根は道じゃねぇから!」


騒ぎを聞きつけ集まってきた人たちが、少女を見つけて悲鳴を上げた。

それを一瞥もせず、屋根の上でふんぞり返りながら、少女は腰に手を当てた。


それが彼女なりの強がりであると、ビビには分かってしまった。


「エルヴィン! 私の許可なく離れるなんて、執事(見習い)の風上にも置けないわね!」

「そんなことより早く戻れよ! 落っこちたらどうすんだ!」

「あなたが受け止めるに決まってるでしょう! そうしたら、執事じゃなくて護衛にしてあげてもいいわよ!」

「ばか言ってんじゃねぇよ! 俺はもう……もうお前の執事にも護衛にもならない!

お前、俺が幸せになれるって言ったよな。死んじまったら、どうやって幸せにしてくれんだよ!?」


喉を引き裂くような少年の叫びに、騒然としていた周囲がシンと静まり返る。

その中で、少女の静かな声はやけに澄んで聞こえた。


「私は死なないわ」

「……はぁ!? お前……っ」

「あまり私を見くびらないことね。あなたにまとわりついた死の色が見えていて、この私がなにもしていないとでも思うの?」

「……は?」


少年はポカンとしているが、いつも少女のそばにいるビビは知っていた。

彼女が寝る間も惜しんで、少年のために本を読んだり、隠れて実験を繰り返していること。


(あるじさまは、ようやく糸口が見えてきたと言っていたのです。

いまあいつがここから出て行ったら、あるじさまの努力が水の泡なのです!)


「だから言ったでしょう?

私といれば幸せになれるって」

「ちゃんと根拠があったのかよ!?」

「当たり前よ。由緒正しい家の娘として、無責任なことは言わないわ! おほほほっ!」

「コラーッ!! そこでなにをしとるかこの不良娘がぁッ!!」

「あらお父様、ごめんあそばせ」


上階の窓から怒鳴る父親に慇懃に謝罪し、少女は少年に向き直る。


「というわけだから、安心なさい。

あなたのその死神の力、この私がねじ伏せてあげるわ!」

「お、おう……、マジで?」

「マジよ!」

「聞いているのか!? 早く屋敷の中に戻りなさい! そこちょっと本当に危ないから! なっ!?」

「はーい、お父様」


くるりと身体をひねった彼女は、忘れていたらしい。自分が足をくじいていたことを。


「あらっ……?」


華奢な身体が傾いで、白金の髪がふわりと舞う。

誰よりも先に、ビビは飛び出していた。


「あるじさまっ!!」

「……!」


少女の胸に飛び込むも、なすすべなく一緒に空に身を踊らせてしまう。


(せめて、せめてぼくが下に!!)


自分の身体がクッションになるよう、少女の頭にしがみついた。

風のうなる音だけが耳に響く。自分が死ぬかもなんて、どうでもよかった。

ただただ、この少女を守りたかった。


(獣人ってことは言えなかったけど……ぼくがあるじさまを大好きってことは、きっと伝わるのです。

あるじさまは褒めてくれるでしょうか。いい子だって、頭を撫でてくれるでしょうか。)


死んだら、誰かに褒めてもらいたいと思っていた。

お前がいなくなってくれてよかった。死んでくれてありがとうって、そう言ってもらいたかった。


(でも、いてくれてよかったって、少しでも思ってもらえたら、きっと……! もっともーっと、嬉しいのですっ!)


ぎゅっと目を閉じる。

直後、身体に響いた衝撃とともに、ビビの意識は途切れた。

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