それが最後だとしても2
思い出さなければこの世界は救えただろうか?
思い出さなければ……
少女の手から血液が滴っている。
「え?」
目の周辺が腫れ上がっていても見える現実。
大切なものを失う絶望はいつになっても馴れるものではない。
俺の体は地面にへたり込んでいる。
なら少女の腕に貫かれたのは一体誰だ?
答えは一つ、俺と少女を除いたらたった一人。
ヴィリだった。
ふらつくヴィリの胸には大きな穴が空いて、未だ死んだ事を理解していない心臓が俺の目の前で大きく鼓動している。
「ッチ……殺し損ねたか……まぁ良い。 すぐにこの世界の貴様を殺して隣にいる最後の貴様も殺してしまえば何ら問題はない」
そう言って少女は心臓をヴィリから引き抜いて、掌で遊んだ後、躊躇う事なく握り潰した。
ヴィリの潰された心臓の血液が生暖かく飛び散る。
顔にかかった鮮血は未だ暖かい。
目の前で意味のわからない事を口にしている少女、その口調は明らかに鏡花でもシステリアでもない、傲慢で、自尊心に満ちて全てを軽蔑し、見下した胸糞悪い……そんな口調。
俺は言葉を失って亡骸になって倒れるヴィリを咄嗟に抱える。
頭が回らない。
さっきまで生きていた。
さっきまで……生きていた……よな?
痛む腕、震えながらもヴィリを抱えて、言葉の代わりに止めどなく涙が流れる。
「それにしてもよく我の事に気づいたな? 下等な傀儡人形風情にしては貴様は機転が効く。 喜べ、底辺にわざわざこのゼウスが直々に現界して殺しに来てやったのだ。」
一方的に言葉を吐き続ける、こいつは何を言ってるんだ?
「あ……あああああああああああ」
ようやく出た言葉はその全てを否定する為の絶叫……
「ふははははははは、いい、いい声で鳴く! まさに下等生物らしい滑稽さだ! くく、いやはや……懐かしくなるよな。 まるでクロノスを殺した時によう似ておるわい。 やはりクロノスの器なだけあるよな」
高笑いをして、馬鹿にするその態度。
まるでヴィリを殺したことはこの存在にとってどうでも良い事なのだろう。
俺は動かないヴィリを見つめる。
まるで前の世界と何も変わらない。
変えられなかった。
ぶれる視界。
それは現実を見たくないから。
震える体。
それは脳の理解を拒絶しているから。
込み上げる感情。
……それは目の前の絶望を否定するため。
「ゼウス!! 貴様あああああああああああああああ!!!!!!」
喉が潰れるほど叫ぶ。
俺の怒号に腹を抱えてソイツは笑う。
「それでこそクロノス!! 本当に良い声でなくわ!! 」
頭の中で理性がはち切れる。
全ての感情が死んだ暗闇の中……深層心理で頭蓋骨が話しかけてくる。
(そうだな……もういい……もう……こいつは鏡花でもない……システリアでもない……もう……)
骸骨が俺の右目に渦を巻いて無理やり入り込んで、壊れた心の穴を黒く粘度のある何かが満たしてくれる。
俺は考えるのをやめて、全てを委ねる。
脳裏に一瞬見えたのは、俺に血液の使い方を教えてくれた少年。
『飲まれないで……』
辛そうな表情をしていたように見えたが、それは記憶の中に黒く塗りつぶされた。
もう疲れた。
もう楽になりたい。
……そうだ。
「もう……殺してしまおう」
体の中から込み上げてきた泥のような感情が背後から姿を現す。
『ゼウスを殺せ……』
泥はあの夢で出会った巨大な骸に形を変えて、溶けたアイスの様に黒い球体が俺の全身を呑み込んだ。
諦め疲れた俺の意識は、遠く、肉体と精神は泥の中へと沈みきる。
*
ベチャ……ベチャ……、沼に足を取られたような音を立て、泥の中から出てきたのは黒く、黝く、堕天使のように歪な翼の生えた漆黒の装甲を身に纏う勇祐の肉体を得た何かだった。
「ようやく、姿を表したな!!」
ゼウスは嬉々としながら勢いよく勇祐の胸元に飛び込んで、心臓を抉ろうと血だらけの右手を突き出す。
厚い兜の中からギラリと光る勇祐の右目、偶然か必然か、視線がゼウスと交わる。
瞬間、ゼウスは反射的に何かを察し、すぐさま後方へと逃げた……
だがしかし、もう遅い。
〈ロールバック〉
勇祐が呟き、右の掌を指折り握り締めて、低くした姿勢で後ろに大きく腕を引く。
急いで距離を取ろうと後方に逃げたゼウスは気がつくと勇祐の目の前に戻っていた。
「何が……!」
驚愕を顔に浮べるゼウス、何かを喋ろうとするが間髪入れずに勇祐は握って引いた拳をそのままゼウス目掛けて打ち込む。
拳がゼウスに当たる瞬間、勇祐は腕を時間進行で大きく加速させると同時に、拳の先に存在する空間を計算、範囲を設定、時間を停止、固定された空間を殴り、間接的に50発の強打を顔面に打ち込む。
時間にしてコンマ1秒足らず、強すぎる力で飛ばされたゼウスの肉体は、空気を振動させながら地面に叩きつけられ、土煙の中で3回地面の上を跳ね返る。
しかし人間なら即死級の攻撃を受けて尚、ゼウスはすぐに体制を立て直し、声を荒らげる。
「クロノス風情が粋がるな!!」
背中から金色に光る光線を発射しながら、何かを掌で溜め、次は止まる事なく突っ込んでくる。
その場で動くことの無い勇祐に無数の光線は容赦なく直撃、周囲には土煙が舞い上がり、同時に勇祐の視界にゼウスが現れた。
勝利を確信したように高笑いをして反撃をしてきたゼウスだが、その行動は完全に読まれていた。
勇祐は光線を受けて尚無傷で、未だその場から動く事はせず、ゼウスが接近してくる速度を瞬時に計算し、身体にゼウスの手が触れる瞬間、時間跳躍を行い、一寸先の未来に移動、殴れずに通り抜けたゼウスを後方から再度同じように1発真下に殴りつける。
地面は直径100m程大きく陥没、その衝撃で地面から反発して宙に浮くゼウスの体を、勇祐は追い討ちをかけるように右足で蕾の内側の壁まで勢いよく蹴り飛ばす。
その強打に人の形をした神ですら躯体を軋ませる。
「かはっ……流石に不完全の我一人では荷が勝ちすぎたか……早めに始末する予定だったが、よもや地球に近づいている四肢の権能をこの距離から使用できるとは……あいも変わらず化け物よ……不本意だがいた仕方ない。 ここでクロノス、貴様を殺すのは諦めるとしよう」
そう言って立ち上がろうとするゼウスに対して勇祐は間髪入れずに更なる打撃を叩き込もうとしたその時、ゼウスは臨戦態勢を止め、瞬間ゆっくりと笑う。
笑って手を前に出す。
「ユウくん……」
勇祐の体の動きが止まる。
勇祐の自我が、理性が、奴を殺そうとする本能的、原始的欲求であるクロノスのイドを抑制したのだ。
(鏡花……?)
勇祐の肉体に意識が戻る。
ゼウスはこのままクロノスと戦うのは分が悪いと判断し、人質を取ったのだ。
鏡花をシステリアを……クロノスではない俺を油断させるために。
そしてそれは思惑通りに俺の判断を鈍らせた。
振りかざした拳は止まる事なく、ゼウス目掛けて叩きつけられ、その衝撃は周囲に花びらが舞い散らせる。
「っつクソが……」
俺はここで殺すべきだった。
殺さないといけなかった。
じゃないと自分が殺されるから。
未来が殺されるから。
分かっていた……
それなのに……
俺は……
俺は……ゼウスを……彼女を殺すことができなかった。




