変わらない事象なら1
「……鏡花か。どうした?」
「どうした?っじゃないでしょ?たく」
のぼせているように、脱力している俺の隣に鏡花は何も言わずにちょこんと座って携帯をいじり始めた。
どうせ俺の知らない鏡花の知らない行動、彼女が会話しているのは俺じゃない俺の存在。
卑屈な心で、彼女の存在を無視していると気がついたら日は落ちて月は青白さをずっと増し、街頭の電気は点滅し始めていた。
俺は未だ隣で一緒に月を見上げている鏡花に声を掛ける。
「何で……」
「?」
「何でそこにいるんだ?」
「そうね。 私も早く帰りたいけど、明らかにヤバいオーラを漂わせている幼馴染を置いていけるほど冷徹にもなれないの」
そう言ってジト目で鏡花は俺を見てきた。
「ユウちゃん本当にどうしたの? 私は……さ、ユウちゃんじゃないからユウちゃんが今何に悩んでいて何と葛藤しているかなんてわかんない。 でもね、私たち幼馴染じゃない。辛いことぐらい話さなきゃ……勇祐の心がもたないよ」
それはこの世界の鏡花が偶然思って、偶然選んだ言葉なのかもしれない。
でもその言葉を聞いた瞬間、辛くて、苦しくて、まるで俺の心に追い討ちをかけるかのように、どうしようもなく痛めつける。
だってその言葉は……
『辛い時ぐらい話さなきゃユウちゃんの心がもたないよ?』
俺がいじめられていることを隠していた時に言われた言葉で……それで翌日……鏡花は傘の先端で……
「うっ」
過去が、以前の世界が、お前は罪から逃れたわけではないと俺に訴えかけている。
遂にはストレスに耐えられなった体が、代わりに何でもいいから吐き出させろと、昼に食べた弁当を逆流させる。
俺は急いで駅の端まで行って茂みの中に嘔吐した。
自分の存在が……分からない。
(何で……生きてるんだ?)
無駄で無意味な自問自答、何故ならこれは俺の意思で起こっている事象ではないから。
だったらいっそ死ねばいいのか?
あぁ死んでやりたい……今すぐにでも楽になりたい。
現実から逃げて、過去から逃げて、生きることから逃げて……楽になれたらどれほど幸せか……
とことん逃げ回って……それで?
俺は報われるのだろうか?
半狂乱状態の俺の後ろから鏡花が声を掛ける。
「大丈夫!? ユウちゃん、本当にどうしたの?」
「はぁはぁ……鏡花には……関係ない事だから……心配しないで」
俺は茂みに顔を埋めて、鏡花に空元気で返答した。
すると、後ろから優しい温もりが俺の全身を包み込んだ、それは冷め切った心を、止まろうとしていた心臓を外側から優しく抱きしめて、生きていいと……微睡む熱を与えてくれた。
「ばか……ユウちゃん覚えてないでしょ! 小学生の時にそう言った翌日、傘の先っぽで頭を殴られて!あの時どれだけ心配したと思ってるのよ! ユウちゃん大丈夫だなんて嘘ついて、結局精神疾患を患って転校して……戻ってきてもそっけないし、私がどれだけユウちゃんを大切にしているかなんて気にも留めないで!! 」
暖かい涙が俺の左肩を通して染み込んできた。
それは皮膚を伝って、血液を伝って、動脈を伝って、心臓へと、心へと運ばれた。
肩から回っていた鏡花の腕を俺も優しく抱きしめる。
嬉しかった。
涙が溢れて止まらなかった。
そうかこの世界は俺が鏡花にいじめを伝えずに、鏡花の人生を救えた世界線だったんだ。
今度は瞬きせずとも、自然と溢れてきた。そして先程の渇いた涙なんて比にならないほど泣きじゃくって嗚咽を吐いた。恥ずかしげも無く彼女の腕の中で、ただ思うままに……
彼女の腕の中で涙が枯れて来ると色々な感情が溢れ出してきて、堰き止めていたダムが決壊するが如く、感情が声を震わせて言わなきゃいけない言葉がうまく出てこなかった。唇が震えて、視界が震えて、たった一言が出てこない。
左胸に手を当てて服を強く握りしめた。
ただ一言、たった一言に全てを乗せるて、ようやく振り絞りながら出てきた。
「あ、ありがとう……」
それ以上の言葉が鏡花に伝えられなかった。
鏡花の顔はその時見ることができなかったが、きっととても優しい顔をしていたに違いない。
俺が落ち着くと鏡花は笑顔でこちらこそありがとう、そう言って頭を撫でてくれた。
落ち着いたら2人で改札を通り、駅を後にする。
俺たちは今まで止まっていた時間を進めるために、歩き始めた。
それは時間が動くことを受け入れるかのように……
それから二人、何気ない話をしながら歩いて、気づいたらあっという間に鏡花の家の玄関にたどり着いていた。
「鏡花、君と話せてよかった。 ありがとう」
玄関前で彼女がドアが開ける寸前ふと出た心からの言葉、過去と決別するために、今という現実と向き合うために、これからの自分を受け入れる為に……
言葉を伝え、そのまま帰路の方へと目を向けると、後ろから声が聞こえた。
後ろを振り返る。
目に入ったのは玄関の温かい光に当てられて、美しくはにかんだ笑顔の鏡花。
頬を赤らめたて潤んだ瞳。
「きっと勇祐なら大丈夫だよ」
それは真夏の空気が澄んで雲一つない深夜、全てが幻想に包まれそうな現実で起きた俺の心を蝕んだひと時の幸せ。




