放課後
放課後、あかりは図書室に居た。というのもあかりが図書委員であり、今月はこの第一図書室で本の貸し出し等の手続きをする当番になっているからだ。
第一と付くからには第二図書室が存在して、それは新校舎――近年増設された校舎がそう呼ばれている――に存在している。第一図書室は旧校舎の片隅にあって、寄り付くには若干不便であるとか、第二図書室に比べて窓が少なく少々陰気な雰囲気であるとか、単純に置かれている蔵書に古いものや小難しいものが多いので学生の心に響かないとか、そういった諸々の理由で人気が少ないのが常だった。
それをいいことに当番の間、授業で出された宿題を済ませたり読書をしたりと好きなことができるので、あかりは第一図書室での当番が苦ではなかったし、楽しみにしていると言ってもいいくらいだった。
なので今日もあかりは一人、無人の図書室の番をしていたのだが――いつもであればカウンターに座って早々に宿題なり読書なりに取り掛かるところを、そんな気になれなかったのはある意味では当然のことだっただろう。
授業中ですら気もそぞろにならざるを得なかった理由……【魔王】と【救世主】について、人目を憚らずに考え込むには、第一図書室の環境はうってつけだった。
あかりは耳を澄まして、廊下から誰の足音もしないことを確かめてから、鞄の中のポーチから手鏡を取り出した。そうして、それを片手に持ち、顔に近付ける――左目がよく映るように。
何の変哲もない鏡に映っているのは、飽きるほどに見慣れた自分の顔だ。その中にありながら違和感しか抱かせない、薄青く光る左目をまじまじと見たのは、【救世主】として〈作り変えられた〉直後以来だった。じっと見つめれば、薄青の光が、黒目の部分に浮かぶ魔法陣じみた模様から発されているのが見て取れた。
これと対になる【刻印】が、海の身体のどこかにあるはずだ、とあかりに植え付けられた【救世主】としての知識が告げる。それを傷つけることだけが、【魔王】となった海を殺す方法なのだと。
そのあたりのことついてはまだ冷静に考えられる気がしなかったので、あかりはあえて深く考えないことにした。
第一図書室に向かう前にちらりと海のクラスを覗いてみたが、姿は見えなかった。帰ってしまったのかもしれない――そう思い返したと同時、声がかかった。
「……【証】が、痛んだり、する?」
心臓が止まったかとあかりは本気で思った。
それほどに前触れなく声をかけてきた張本人――いつの間にか目前に現れていた海は、息を呑み肩をびくつかせたあかりの反応に驚いたようにその双眸を僅かに大きくして、一呼吸の後、謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、驚かせた」
「う、ううん……こっちこそ、ごめんなさい」
そう返しながら、そんなにも自分は思考に沈んでしまっていただろうかとあかりは疑問に思う。いくら何でも、この無音が通常の場所で、廊下からの足音や扉が開閉される音に気づかないということはないはずだが、現実にあかりはまったく海が現れたことに気づかなかった。
しかし、その疑問への答えは、意外にも――というか逆に当然というか、海からもたらされた。
「半信半疑でやってみたんだけど……本当にできるとは思わなかった」
「……?」
「『【魔王】と【救世主】は、望む限り即座に肉体的に接触できる距離で対面することができる』――そのルールに伴う、特殊能力みたいなものなのかな」
「ルール……って、」
本当に何のことだろうと思って口にしたあかりは、しかし呼応するように閃いた〈知識〉に続く言葉を飲み込んだ。
【救世主】と【魔王】について、否応なしに理解させられた時と似て非なる感覚。身の内に必要とあらば引き出せるように〈組み込まれた〉知識が、あかりに海が口にした『ルール』とは何かを理解させた。
【魔王】と【救世主】の間にある幾つかの法則――そのうちの一つが『【魔王】と【救世主】は、望む限り即座に肉体的に接触できる距離で対面することができる』というルールである。
これはつまり、どれだけ物理的距離が存在していても、それを理由に【救世主】が【魔王】を害せずに世界が滅ぶということが起こらないためのものだった。
そしてそのルールを成り立たせるために、【魔王】と【救世主】には瞬間移動のような能力(とはいえ任意の場所に出られるのではなく、互いの眼前に現れることができるだけのようだが)が備わっていて、海はそれを利用して、無人だった第一図書室に前触れなく現れたということらしい。
【魔王】についても【救世主】についても深く考えることを避けてしまっていたゆえに、あかりがそれを認識したのは今だったが――海はあかりと違って、早々に【魔王】と【救世主】にまつわる〈知識〉を多く引き出していたようだった。
「ええと、何か用……だった?」
「相模さんが、ここにいることは知っていたし、ここにほとんど人が寄り付かないことも知っていたから、やってみたんだ。……それに、これは【魔王】と【救世主】に関わることだから、きっと他の誰にも見咎められない。そういうふうに『決まっている』みたいだから」
「決まっている?」
「……? ……ああ、まだ、相模さんは【魔王】と【救世主】の仕組みについて、深く知ろうとしたことがないんだね」
それは聞きようによっては、あかりを責めるもののようにも聞こえたけれど、海がそういうつもりではないことは声音から察せられた。
ただあかりが、少しばかり居心地が悪く思うのは仕方なかったが。
あかりのそんな心境には気付かずに、海は温度のない平坦な口調で続ける。
「『【魔王】と【救世主】にまつわる物事について、他者に関わりを持たせることはできない』、というルールがある。裏を返せば、【魔王】と【救世主】についての事柄は、どういう状況下にあっても、他人に感知されないようになっている、ということ。俺もまだ、きちんと試したわけじゃないけど、相模さんも思い当たることはあるんじゃないかな」
言われて、薄青く光り続ける左目に、家族がまったく言及しなかったことを思い出す。家族以外の、顔を合わせたクラスメイトもだ。
多分それが、海が言っていることの裏付けになるのだろう。
「俺たちが――【魔王】と【救世主】になった者が望めば知ることができる〈知識〉……よりは〈情報〉と言った方がいいかな、そういうものはけっこうあるみたいだ。家に帰ってからでも、一度ゆっくり、深く考えてみたらいい。多分、持つ情報が増えることは、……俺たちが、俺たちの役割について考えるのに、悪いふうには働かないと思うから」
きっと海は、深く考えたくなくて眠りに逃避したあかりと違って、昨夜のうちにそれを試みたのだろう。だからこそ、今朝もあんなふうに平静に、殺されることは構わないなどと言えたのかもしれなかった。
「……相模さんがまだ、あまり【魔王】と【救世主】について知らない状態なら、俺は性急に過ぎたかな。まだ相模さんも整理がつかないだろうし、よければ、日を改めるけど」
それが、先程あかりがこれからについてどう思ってるかを知りたいと言ったことに向けての言葉なのは明白だった。
あかりは少し悩んで、今自分が持っている疑問が、【魔王】と【救世主】について深く知った後でも変わらないものだろうと考え、これをいい機会だと思うことにした。一つ、呼吸をおいて、口を開く。
「私も、志筑くんとはちゃんと話したいと思ってた。私が【救世主】で、【魔王】じゃないからわからないだけなのかもしれないけど――どうして志筑くんは、そんなふうに【魔王】の運命を受け入れられるの」
たとえ、あかりが未だ得ていない【魔王】と【救世主】のルールなり情報なりにそうなりやすい何かがあるとしても、一晩で気持ちの整理がつくものではないのではないかと思えてならなかった。
そもそもの、【魔王】が死ななければ世界が滅びるという前提があったとしてもだ。
海は少しばかり、あかりの向けた問いに考え込んだようだった。そうしてどこかあどけなさすら感じる仕草で、首を傾げた。
「……そんなに、不思議?」
そう言われてしまうと、あかりの方が道理に合わないことを言っているような気がしてくる。
余程の危険思想を持たない限り、誰だって世界は滅ぼしたくないだろうし、そうしないために自分が死ななければならないのだったら、それを受け入れるしかないだろう。それはあかりにもわかるのだ。想像できる。
それでもやはり、そう簡単に割り切れるものではないと思ってしまうがゆえの問いだったのだが、それは【救世主】の側であるから抱くものなのだろうか。
咄嗟に言葉を返せなかったあかりの態度をどう思ったのか、海は首を傾げたまま続けた。
「俺と相模さんは違う人間だから、俺の考えを相模さんが完全に理解するっていうのは難しいだろうけど……そうだな。相模さんがそういうことを知りたいのだったら、やっぱり日を改めた方がいいと思う。今度の日曜日は空いている?」
予想外の話の流れに、あかりは目を瞬いた。予定を訊くということは、その日に再び話し合いの場を設けたいということなのだろうが、何故休日なのかと不思議に思う。
「特に予定はないけど……どうして日曜日?」
「用事があるんだ。相模さんにも付き合ってもらいたいと思って。多分その方が、俺も話しやすいし、相模さんにもわかってもらえるんじゃないかと思う」
ますます意味がわからない。その用事がなんなのかは不明だが、口ぶりからすると前々から決まっていたものだろう。それにあかりを付き合わせるのと、あかりの疑問に答えるのに、どういう繋がりがあるというのだろう。
しかし、海があかりの疑問に真摯に答えようとした結果の申し出なのも、海の態度を見ていればわかる。
結局あかりは、内心の疑問を膨らませながらも、日曜日に会おうという海の提案に乗ったのだった。