恐怖の探偵一味
殺したいと思う奴との再会が偶然ならば、それは神が殺せと命じているようなもの。おまけに、その偶然を上手く利用すれば犯行後も捕まらないので逃げ切ることもできる。
人生の終わりに、といっても五十代の半ばだが、先のない未来を生きるのが苦しく、最後に思い出の場所を巡る旅に出掛けたところで、アイツと再会した。
卒業してからは一度も訪れていない新宿の学生街。昔に比べて古本屋が少なくなったと思いながら、高田馬場の方へ向かって歩いていると、当時一緒に居酒屋でバイトをしていた瀬田を見つけた。
三十年振りなので年老いていたが、尖がった耳と大きな涙ボクロが特徴的なので瞬時に判別できた。ただし向こうは俺のことを憶えていない顔をしていた。
それも無理のない話で、同じ大学でも俺は夜学で、バイトも深夜から早朝までのシフトだったので、瀬田とは顔を合わせても、アイツの記憶に残っているはずがないのである。
なぜ、そんな接点のない男を殺したいほど憎んでいたかというと、手取りの給料袋を盗まれたからだ。週払いだったけど、夜勤の六日分は大金だった。
俺の時は証拠がないので泣き寝入りするしかなかったが、他にも盗まれた者がいて、そこで瀬田の犯行であることが立証された。それでも警察沙汰になるどころか、退学することもなかった。
ずっと恨み続けていたわけではないが、人生の歯車が狂った瞬間でもあるので殺害を決意した。なにより、六万円で終わる瀬田の人生を思うと滑稽で堪らないというのが最たる理由だ。
* * *
再会した後、すぐに行き先を変えて尾行したのだが、瀬田は並んで歩く両脇の男たちとの会話に夢中だったので、アイリッシュ・パブで隣の席に座っても、俺の存在に気がつくことはなかった。
「今年は群馬でマガモか」
「安く連泊できるペンションを見つけてな」
「部屋に暖房がなかったりするんじゃないだろうな?」
「そうそう、結局は風邪を引いて高くつくんだよ」
「そういうのは金を出してから言え」
早速、瀬田ら三人が十一月下旬に群馬で狩猟を行うという情報を得た。宿泊する日時や場所も確認し合っていたので、メモ帳の方に記録させてもらった。
「車代くらいは払えるんだろうな?」
「悪いな、借金が返せなくてな」
「いつになったら返し終わるんだよ」
瀬田が借金を抱えている情報も掴んだ。
その瞬間、アイデアが閃いた。
絶対に捕まらない殺害計画。
絶対だ。
* * *
あの世へと道ずれにするつもりだったが、完全犯罪を思いついてしまったので試すことにした。あらゆる偶然が俺に味方しているので、ヤツの天命でもあるのだろう。
まずは瀬田が泊まる予定のペンションに電話した。老夫婦が山の中で自給自足の生活をしながら経営しているらしく、目玉となる温泉もないということで、あっさりと予約が取れた。
その時、部屋の中で油絵を描かせてもらう許可も取り付けておいた。一人旅で訪れるには不自然な場所だったので、理由付けが必要だったからである。
それも適当に選んだわけではなかった。若い頃にスケッチ旅行をしたことがあり、使い古した道具があるため、警察から事情聴取を受けた時に、事件現場に居合わせた理由として納得させることができるからだ。
肝心の部屋割に関しても、予約の段階で成功した。二階に通路を挟んで六部屋あるのだが、瀬田らが角の三部屋を押さえていると聞き出して、そこで真ん中の二部屋を押さえることができたからだ。
就寝用に一部屋と、アトリエ用に一部屋、そこでもスケッチ旅行の方便が役に立ったというわけである。これで瀬田の部屋で犯行に及ぶ際に物音を立てても、隣室に聞かれる心配は無用というわけだ。
このように、何から何まで俺に味方しているのである。
* * *
瀬田よりも一日前に宿泊し、絵を描きながら彼ら三人の到着を待った。絵のモチーフは窓から望める山の景色だ。なんの面白味もない絵面だが、大事なのは実際に描くことである。
絵を描きながらも、頭の中で何度も犯行のシミュレーションを行った。そうしているうちに、是が非でも殺したいわけではなかったのに、次第に使命であるかのように思えてくるのだった。
神が殺せと命じている。
* * *
翌日の夕方過ぎに瀬田ら三人が到着したが、そこで気を付けなければならないのは、本名を知られた時の対処法である。後で取り調べがあるので、偽名は使えないということで堂々と接しなければならなかった。
一階の食堂で夕飯を頂く時に、宿の老夫婦を交えて雑談に応じたが、こちらから名乗っても、瀬田は初対面のように挨拶をしたので、完全犯罪を成立させることができると思った。
もっとも、本名がどこにでもある「鈴木」だったのが幸いしたのだが。
その日のうちに殺すこともできたが、彼ら三人がどこの部屋に泊まっているのか確認できなかったので、一日だけ犯行を先延ばしにすることにした。
なんの恨みもない同行者二人に迷惑を掛けてしまうので、一日くらいは狩猟を楽しんでもらうという意図もあった。
宿の老夫婦にも申し訳ない気持ちはあったが、自殺で処理させる自信があるので、そこは割り切ることにした。
* * *
犯行を一日延ばしたことで、またしても思わぬ幸運が舞い込んできた。車をパンクさせた三人の親子連れが宿を求めて泊まりにきたのである。
これで俺以外にも部外者が存在することになるので、警察の注意も分散するはずだ。
* * *
親子連れが宿を去る前に、決行することにした。
まずは瀬田が一人になる瞬間を待った。
無理なら夜中に部屋を訪ねるが、その必要はなかった。
男風呂で二人きりで話をする機会を得たからだ。
「同じ大学ですか」
湯船に浸かりながら俺の顔を見るも、首を振る。
「悪いけど、憶えてませんね」
「私は奢ってもらった方なので、忘れられないんです」
「そういうもんですかね」
実際に俺から盗んだ金で飲み散らかした事実がある。
「是非、その時のお礼をさせてください」
ということで、瀬田の部屋で酒を飲む約束を交わすことに成功した。さらに大事な話があると言って、他の二人には内緒にしてもらうこともお願いしておいた。
* * *
重要なのは、瀬田の部屋を訪ねる姿を人に見られないこと。
それと、酒とグラスを忘れないこと。
後は念のため、首絞め用の手ぬぐいを忘れないこと。
それに関しては、どの部屋にもあるので問題はないはずだ。
手ぬぐいでの自殺が可能か、すでに実験済みである。
そして、静かにノックする。
バスローブ姿の瀬田が顔を出す。
「おぅ、待ってたよ」
そう言って、顔を綻ばせる。
彼が微笑みを向けたのは持参した濁酒だ。
注意を惹きつけるには充分だったようである。
すかさず、部屋の中を確認する。
角部屋であること以外は、俺の部屋と変わらない。
暗い照明。
汚い壁紙。
黒ずんだ天井。
傷んだフローリング。
古いベッドが二台。
埃っぽい布団。
低すぎるガラステーブル。
時代錯誤の大きな灰皿。
硬いソファが二つ。
そんなものはどうでも良かった。
大事なのはトイレのドア。
ノブを回して開けるタイプだ。
これで自殺に見せ掛けることができる。
あとは睡眠薬を、いつ飲ませるかである。
勧められたソファに腰を落ち着ける。
風呂場で旧交を温めたので緊張はない。
瀬田が砕けた感じで尋ねる。
「着替えたのか?」
「飲んだら続きを描こうと思って」
「ああ、絵を描いてるんだったな」
普段着に着替えたのは、犯行後に廊下で人と出くわした時に、絵を描くために移動したと言い訳ができると考えたからである。
「汚したりして、後で請求されたりしないだろうな?」
「許可はもらってる」
「だったらいいが」
と言いつつ、瀬田が手もみする。
そこで酒を注いでやることにした。
「乾杯」
ぐびっとやって、前屈みの姿勢になる。
「で、大事な話ってのは?」
尻のポケットから二つ折りの白封筒を取り出す。
「金を借りっぱなしだったのを思い出して、急いで用意した」
「おれが金を貸した?」
「酔っ払っていたから、憶えていないのかもしれない」
記憶を辿るが、思い出せるはずがない。
そんな事実はないのだから。
「馬場の居酒屋で一緒にバイトしていた鈴木だよ」
「働いてた憶えはあるんだが」
「貸してくれた六万円だ」
最後の審判である。
コイツに返せる金はない。
だから思い出すだけでいい。
思い出したら許してやる。
「ああ、六万な」
「思い出したか?」
「家賃が払えないってんで、貸したんだったな」
ダメだ、コイツ。
「あの時は、ありがとう」
「困ってる時はお互い様だ」
そう言って、差し出された金を受け取るのだった。
「他の二人には、俺たちが知り合いだって言ってないか?」
「ああ、もちろんだ」
これで安心して地獄送りにできる。
「さぁ、飲もう」
すでに酔っ払っていたということもあり、トイレが近かったので、簡単に睡眠薬を飲ませることができた。
「年を取ると、ションベンが近くてな」
瀬田が席を外している間に酒瓶の指紋を消して、戻ってきたところで、酒を注がせた。これでコイツは一人で睡眠薬入りの酒を飲んでいたことになる。
「悪いが、急に眠気が」
そう言って、ベッドになだれ込むのだった。
「明日も早いんだっけ?」
尋ねても、返事がなかった。
すでに深い眠りに落ちていた。
やるなら早い方がいい。
床に座らせて、トイレの前まで運ぶ。
ロープ状にした手ぬぐいを輪にしてノブに固定する。
それから身体を持ち上げる。
予想以上に重い。
これだけの重さがあれば確実に死ぬはずだ。
なんとか首に輪を通して引っ掛ける。
「うっ」
呻き声は、それだけだった。
驚くほど静かに死んでしまった。
手も持ち上げられず、痙攣しただけ。
足も多少ジタバタさせた程度だ。
首吊りは軽い気持ちで試しちゃいけないと思った。
* * *
部屋を出る前に最終確認。
室内に瀬田以外の指紋はない。
グラス以外に触れてないので消す必要もなかった。
電気は点けっぱなしにしておくこと。
六万円の入った封筒は回収。
遺書は室内にメモ帳があったので、そこに走り書き。
「借金が苦しい」
それだけ。
わざと酔っ払った字で書いた。
それも瀬田にボールペンを握らせながら。
利き手は右で間違いない。
サインは不要だ。
余計なことをしてはいけない。
持ち帰るのは、自分が使ったグラスだけ。
予備で持ってきた手ぬぐいも忘れないこと。
それと出入り口のドアノブ。
瀬田の指紋を消さないように回さないといけない。
掃除用の使い捨て手袋を装着。
瀬田の指紋を欠けさせてもダメ。
鋭角部分を掴んで慎重に。
後は廊下に出るタイミングだ。
隙間から廊下を覗く。
誰もいない。
あっさりとアトリエに戻ることができた。
完全犯罪、これにて終了。
* * *
アトリエで絵を描きながら、落ち度がないか、頭の中で確認した。それで何度も繰り返し考えた結果、見落とした点は見つからなかった。
鍵は開けたままだけど、それで問題ない。俺を招いた時もそうだけど、瀬田は鍵を掛けていなかったからだ。
そもそも密室を要する状況ではない。ガス自殺のように密閉する必要はないからだ。
仮に他殺だとバレた場合、それでも俺が捕まるとは思えなかった。真夜中の犯行なので、アリバイなど無くて当たり前だからである。
仮に重要参考人になったとして、逮捕される証拠がどこにあるだろうか?
メモ帳に書いた遺書の筆圧? いや、酔っ払いが書いた字として認識されるはずだ。
睡眠薬の出所? あれは二十年以上も前に処方してもらった薬なので足はつかないはずである。
酒はどこで手に入れた? 量販店で購入したものだから問題ないはずだ。
いや、そんなことはどうでもいいのである。もしも容疑者になっても、俺が殺したとする証拠がないのだから。
裁判どころか、起訴すら見送られるだろう。
* * *
宿の主人から朝食は同じ時間にしてほしいと言われていたので、全員が六時前に集まることとなった。
瀬田だけが食堂に姿を見せていないのだが、赤の他人という設定なので関心を示さないようにした。
「アイツ、なにしてんだろな」
「昨日は雨に降られて空振りだったから、『今日こそは』って張り切ってたのによ」
同行者の二人は心配する素振りすら見せなかった。
むしろ迷惑を掛けていることに憤っている。
「何かあるといけないから、ボクが呼んできてあげるよ」
「おう、すまないな、ボウズ」
親子で来ていた小学一年生くらいのボウズが元気よく飛び出して行った。それを年の離れた高校生の姉が心配そうに見送るも、チョビ髭の親父の方は興味がない様子だった。
「おじさん!」
ボウズの叫び声が轟いた。
「急いで来て!」
それを聞いてチョビ髭男が急いで現場に向かうのだった。同行者二人と高校生も後に続いたので、俺も宿主の老夫婦と一緒に二階へ上がることにした。
「入らないで!」
なぜか、小学生のボウズが現場を仕切っていた。
それから連れの高校生に指示を出す。
「急いで警察に連絡して」
その言葉に高校生の女が素直に応じるのだった。
「電話、お借りします」
宿主に挨拶して一階に向かったのだが、その冷静な態度に、妙な胸騒ぎを覚えた。
「なんで自殺なんか」
「よりによって旅行中によ」
同行者二人が廊下で項垂れている。
そこで部屋の中にいるボウズが振り返り、廊下にいる俺と視線を合わせるのだった。
「自殺とは限らないよ」
?
「どういうことだ?」
反応したのは、部屋の中で瀬田の死体を見下ろしているチョビ髭男だった。
「ここを見てよ」
とボウズが死体を指差す。
「バスローブのお尻が汚れてるのが分かるでしょ? 動かせばハッキリと分かるけど、床に座っただけじゃ、こんな跡は付かないから」
それから床に目を凝らす。
「それにほら、お尻の下、箒で掃いたように埃や塵が集められてる」
チョビ髭男が尋ねる。
「つまり、どういうことだ?」
大人の問いに、子供が説明する。
「床に座らされた状態でトイレの前まで引きずられたんだと思う。昨日は雨で、泥の付いた長靴で部屋の中を歩き回ったから、いつもより床が汚れていたんだ」
傷んだフローリングは、それ自体が保護色となり、汚れていたとは気が付かなかった。
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
廊下から顔を出した同行者二人が問い掛ける。
「引きずられたってことは、何者かに殺されたってことかよ?」
「間違いないと思う」
小学生のボウズが断言した。
どうなってる?
何が起こってるんだ?
ここは反論が必要だ。
「でも、ほら、それ、酒を飲んでいたみたいだし、立って歩けなかっただけなんじゃないかな?」
廊下から見える範囲で反証した。
すぐに小学生のボウズが首を振る。
「それも違うと思う。泥酔して床を這って歩いていたにしては、手が綺麗すぎるから。床に手を着いたら、多少の汚れは付着するものでしょう? この手、まるでお風呂上りみたいなんだもん」
なぜ俺は小学生のボウズに追い詰められているのだろう?
チョビ髭男が仕切り直す。
「それでは皆さん、現場を保存しますので、我々は警察が到着するまで食堂で待機しましょう」
瀬田の仲間が問い掛ける。
「ちょっと待て、アンタら一体、何者なんだ?」
チョビ髭男が「ゴホン」と咳払いを一つ。
「申し遅れました――」
と「名探偵」を自称するのだった。
* * *
しばらくして群馬県警の刑事がやって来たのだが、名探偵とは顔馴染らしく、そのまま事件現場へと一緒に向かうのだった。
「もう、目を離すと、すぐどっか行っちゃうんだから」
と言いつつ、高校生の女がボウズを捜しに食堂を出て行った。
それから個別に事情聴取を受けたが、偶然居合わせた旅行客にすぎないので、形式的な聞き取り調査に応じるだけで済んだ。
分かったのは、他殺を疑ったのは小学生のボウズだけで、警察は自殺と結論付けていることだ。
流石に良識ある大人は、バスローブの汚れだけで関係者を殺人犯に仕立て上げるような真似はしないのである。
つまり、勝利したということだ。
* * *
「探偵のおじさんに訊いてくるように頼まれたんだけど」
いつの間にか食堂に例のボウズが現れて、事情聴取を終えた同行者二人に質問をぶつけるのだった。
「遺書に『借金が苦しい』って書いてあったけど、自殺するほどお金に困っていたの?」
質問を受けた二人が顔を見合わせて困惑する。
「そこまで困ってるとは知らなかったな」
「相談してくれれば良かったんだが」
「ああ、いつもの冗談だとばかり思っていたよ」
「残念だ」
そこでメガネのボウズが考え込んで、どっかに行ってしまうのだった。
* * *
昼前に遅めの朝食を食べた後、刑事の許可をもらって、部屋に戻らせてもらうことにした。
部外者がいつまでも感傷に浸るのはおかしいので、絵の続きを描くことにしたわけだ。
「オジサン、ちょっといいかな?」
食堂を出たところで俺を呼び止めたのはメガネのガキンチョだった。
「死んだ瀬田さん達は狩猟が目的だけど、オジサンは何しにこんな山の中に来たの?」
想定内の質問でホッとした。
「スケッチ旅行だよ。部屋の中で絵を描かせてもらえる宿を探していて、ここを見つけたというわけさ」
「それって、油絵だよね?」
?
「ああ、うん、そうだよ、昔から趣味でね」
ボウズがニコッとする。
「探偵のおじさんが、どうしても確認して来いって言うからさ」
そう言って、やけに挑発的な目で俺を見るのだった。
あの、とぼけた自称名探偵、まさか、俺のことを疑っているのか?
いや、そんな素振りは見せなかったが……。
* * *
その日の夕方、群馬県警の捜査一課が現場を引き上げる直前になって、自称名探偵が食堂に関係者全員を集めた。
集められたのは、なよっとした刑事一人と、瀬田の同行者二人と、宿の老夫婦と、高校生の女と、俺の七人だ。
いや、小学生のボウズも見掛けたので八人だ。さっきまでいたが、落ち着きがないので見失った。
そこで自称名探偵は、推理を披露するようである。居眠りしているようにしか見えないが、それも含めて普段の言動など、すべては犯人を油断させるためのフェイクだったということか。
しかし、証拠はあるまい。
「先ほど警視庁の警部殿から、瀬田氏には自殺を苦にするほどの借金はなかったとの情報を頂きました。そうなると、遺書は偽造されたと考えられます」
刑事が合の手を入れる。
「まさか、この中に瀬田氏を殺した犯人が?」
「その、まさかですよ」
すかさず同行者二人が抗議する。
「おれたちが瀬田を殺したと言うんですか!」
「言い掛かりだ!」
名探偵が宥める。
「待ってください。なにも私は貴方たち二人のどちらかが殺したなんて一言も言ってませんよ?」
刑事が首を傾げる。
「え? だったら誰が殺したというんですか?」
まさか。
「鈴木さん、あなたですよね」
そこで全員が俺を見た。
刑事が一般市民の俺を擁護する。
「鈴木さんは見ず知らずの旅行者ですよ? そんな人が自殺に偽装してまで殺しますかね?」
名探偵は俯いたまま、俺を見ようともしない。
「鈴木さん、あなたはスケッチ旅行で訪れたと聞きましたが、滞在はいつまでのご予定でしたか?」
「明日の朝までですが」
「はい。宿のご主人に確認したところ『明日までの予約だ』と仰っていました。だとしたら、おかしいんですよね」
「何がおかしいんですか?」
「油絵ですよ」
あっ
「水彩画と違って、油絵というのは乾くまでに時間が掛かりますからな。今日中に完成させたとしても、明日の朝までに乾くことなど有り得ないんです。これでは、別の目的があって来たと思われても仕方ないじゃありませんか」
反論が必要だ。
「どうでもいいんですよ」
「どうでもいいとは?」
「私の絵に価値などないのですから、乾かせる必要はなかったということです。元々完成させる気もありませんでしたし、明日には燃やして家に帰るつもりでしたから」
我ながら完璧な反証だと思った。
「そうでしたか、それが事実であっても、あなたが犯人であることに変わりありませんがね」
?
「その様子ですと、お分かりになっていないようだ。犯行現場となった瀬田氏の部屋には滞在中、誰も入っていないんです。それにも係わらず、そこに在るはずのない物を残した人がいるんですよ。それが鈴木さん、あなたなんです」
なんだ?
「そこに、何が在ったんですか?」
「絵の具ですよ。ソファの肘掛けに僅かながら付着していたのを見つけました。旅行の予約もそうですが、油絵が乾きにくいということを忘れていたのでしょうね」
言い訳のために用意した絵の具が証拠になってしまったということか。
そう言えば、あの時、瀬田は言っていた。
『汚したりして、後で請求されたりしないだろうな?』
これは俺に言ったのではなく、自分の部屋を汚されたことで、請求される不安から口をついた言葉だったわけだ。
考えてみれば、瀬田が俺の心配をするはずがない。なぜそのことに気づかなかったのだろうか。
「鈴木さん、署までご同行願います」
たまたま探偵が事件に遭遇したように、偶然というのは何も俺だけに味方するとは限らないということだ。